『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

第五回 大隅国 曽於郡 末吉郷Bおよび恒吉郷  (H 22.9.12)

今月は末吉郷Aを学習する予定であったが、都合により、末吉郷Bと恒吉郷とを先に学ぶことにした。

      末吉郷 B

位 置 概           要 備    考
<旧跡> 末吉郷Aの最後の部分の「檍原(あはぎはら)」の続き。
柄基並びに
  天の浮橋
地頭館より東南25町  中裏村にある。中津瀬川南岸の田んぼの中の白砂の岡がそれである。土地の人間は「天の浮橋の柱」と呼ぶ。
 本居宣長は『古事記伝』で、イザナギ・イザナミの国産みも皇孫の天降りも、人間の嬰児が生まれるのと原理は同じで、産まれるには胎盤から繋がった臍(へその緒=ほぞ)が切れてこの世に生まれるのであり、その名残の臍はちゃんと残ると言っている。また、白尾国柱は「柄基は臍(ほぞ)が地上に連続した跡で、諸尊が天と地とを往来した所だろう」と言っている。
・『三国名勝図会』のこの部分で「柄基」と書いて「はしもと」と読ませるが、そのような読みは不可能で、おそらく「柄(え)」は「木へんに訥(トツ)のつくり」の「ほぞ」の誤記。
箸野(はしの) 地頭館より東南東22町  中裏村にある。箸野は橋野とも書き、ここには嶋津荘を開いて藤原頼通に寄進した平季基の隠居地で墓もある。
 季基は荘内を中郷郡の本村に置き、神柱社を南郷の梅北村に建立した。のち伴兼貞を婿に迎えて三俣院を譲り、橋野に隠棲した。本村より南へ3里に当たり、南郷川(大淀川)に臨む肥沃な土地柄である。
・橋野は現在の都城市に属する。
亀鶴城 地頭館より西北西8町  西之村にある。別名「松尾城」。九城で構成される城で、みなそれぞれに掘割や弓射場の跡がある。
 建久年間に稲村伊賀守重家が築城したと言われる。その後宮丸氏、新納氏(志布志城主)が治めたが、新納氏が8代で滅びると、飫肥の嶋津氏は大中公(15代貴久)に献上した(永禄2=1559年)。
 文禄4(1595)年には伊集院忠棟に与えられたが、慶長4(1599)年に忠棟誅殺を受けてその子・忠真が反乱を起こしてこの城も忠真側に占領され、嶋津忠長や樺山久高らが攻め落とせなかったが、翌5年に反乱が鎮定されると、当城も明け渡された。
・伊集院忠棟は肝付氏滅亡後の肝属郡に地頭として入ったが、秀吉没後の混乱期に都城8万石領主の地位に上ったため島津宗家の家久に殺害された。その子忠真の起こした反乱は荘内の乱と呼ばれる
国合原 地頭館より東南1里  中裏村にある。
 国合原での大きな戦いは二度あり、ひとつは延文4(1359)年の、庄内を占有した人吉の相良氏と島津氏久(第6代)との戦いで、この時は不利に終わり、佐多忠直・彦四郎兄弟が戦死している。
 二つ目は天正元(1573)年の肝付氏と島津氏との戦で、末吉を攻略しようとした肝付氏は島津側の北郷時久・相久・忠虎の親子を中心とする都城軍に四面を囲まれて大敗を喫した。この戦いで肝付氏側は430名を超す死者を出し、結局この戦いが肝付氏の滅亡を決定的なものとした。
・通称で「国合原の合戦」と言い、この戦いは大隅の大族肝付氏対三国統一を目指す島津氏の最後にして最大の戦いであった。
手取城 地頭館より西南西へ
1里20町
 菅牟田村にある。堀切りの跡が残る。
 延文4(1359)年の国合原の戦いで不利となった島津氏久が手取城主・岩川氏に援軍を求めたがかなわず、また蓬原城主・救仁郷氏にも頼んだがこちらからは断られた。
 そのため、氏久側はいったん鹿児島に帰陣しまたで直すが、再び兵を率いて来た時、蓬原城と手取城を攻め落とした。
・蓬原城…清和源氏一族・救仁郷氏の居城で、攻め落とされたときの城主は頼世。弟・頼綱は出家して飯隈山照信院の院主となり家系をつないだ。
城址合記 ○平松ヶ城…中裏村。国合原の北の山中にある。
○新城…土成村。税所氏の居城。天正7(1579)年、北郷氏により陥落した。
悪七兵衛景清の墓 地頭館より南西1里  田尻村の柳井谷門の山中にある。伝承では、上総悪七兵衛景清が日向の宮崎からここにやって来て隠棲し、没したという。巨大な五輪塔ほか14基の五輪塔が残る。
 この門の農民・亀次郎は景清の後裔とかで、景清の遺品の系図・太刀・甲冑などを保存していたが、7,8代前に火災にあって焼失したという。
 景清については諸説があり、山之口村の古城にもその遺跡があるといい、あるいは相模の鎌倉で死んだといい、いずれの説にも典拠が無く明確ではないが、ここには地元の口伝えを書き記しておいた。
・景清…藤原氏。平安末期に源氏と戦ったため、平氏と間違われやすい。上総国の生まれ。浄瑠璃や文楽で取り上げられる人物。名前に冠せられた「悪」は「猛将」の意味。

 
       
 恒吉郷

 ※大崎郷で海に流入する菱田川の最上流部を占める。長江村・大谷村・須田木村・坂元村の四ヶ村から成  る。地頭館は長江村に所在する。

位 置 概       要 備  考
<山水>
神の牟礼 地頭館より
北20町
 坂本村にあり、当邑では最高峰。山頂の下に一之宮・六所権現社がある。
坂屋林 地頭館より
北1里余り
 末吉野牧の一部で周回1里ばかり。林中を坂本川が流れる。
<神社>
投谷八幡宮 地頭館より
南東へ1里
 大谷村にある。祭神は国分の正八幡宮と同じ。和銅元(708)年に勧請されたという。
 当社より西の方35,6bの岩壁に巨石が三つあり、これを石体(しゃくたい)と言っている。
 旧暦8月15日の正祭の時に、月野の胞衣松と大崎野方の花立の二ヶ所をお旅所とし、王子像7体と鉾2本を巡行させるが、これを「浜殿下り」という。別当寺は吉祥院。
・国分正八幡宮…祭神は彦ホホデミ尊・トヨタマヒメ・応神天皇。現在の鹿児島神宮。
<仏寺>
竹園山惣福寺
吉祥院
地頭館より
北へ1町
 長江村にある。鹿児島城下大乗院の末寺で真言宗。当郷の祈願所。投谷八幡宮の別当職である。
安居山徳泉寺 地頭館より
北へ3町
 長江村にある。曹洞宗・福昌寺の末寺で、当邑の祈願所である。
<旧跡>
日輪城 地頭館の西
に隣接する
 長江村にある。当邑は昔、恒吉大膳亮が領有したが、その後の変遷は不明。新納氏、肝付氏、北郷氏などと城主は変わっている。
 慶長4(1599)年に、領有していた伊集院忠棟が殺害されて庄内の乱が起こると、城を守っていた伊集院宗左衛門は島津氏の攻撃に敗れ、都城へ逃亡した。
宮ヶ原 地頭館より
南東へ1里
 大谷村にある。永禄元(1558)年、肝付氏が都城を攻略してきたので、領主・北郷時久は飫肥の島津忠親の援軍を得て防いだが、宮ヶ原の戦いでは時久の叔父・久厦(ひさいえ)はじめ200名余りが戦死した。今も、そこに墓がある。 ・肝付氏…この時の肝付氏は16代兼続の時代であった。

   
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