『三国名勝図会』から学ぶおおすみの歴史講座

   大隅国・曾於郡

     財部郷

※財部郷は末吉郷の北、日向国諸県郡都城の西に位置する。河川の流域からすれば都城に属すると言 っても良い。地頭館は現在の財部小学校辺りにあった。

位 置 概         要 備  考
 <山水>
白鹿嶽
地頭館より西方2里余り
地域内の最高峰で、山頂からは庄内地方が一望できる。山頂からは福山郷に通じる道がある。 標高は604メートル
瓶臺嶽 地頭館より西北
2里余り
霧島山から流れてくる峰の続きで、峰の形が花瓶に似ているところから名付けられた。土地の狩猟場である。 標高は543メートル
大河原山 地頭館より北西
2里余り
白鹿嶽と瓶臺嶽との中間にある山並み。慶長4(1599)年3月、都城領主・伊集院忠真はこの山で猟をしていて父・忠棟(幸侃)が誅殺されたことを知った場所。
正壽寺川 北俣川と南俣川が坂元村で合流し、そこからを正壽寺川という。下流は都城に入る。 現在の横市川のこと
下財部川 別名を溝之口川という。溝之口川を通っているからである。 現在も溝ノ口川という。
<神 社>
日光神社 地頭館より西方
30町
 祭神は天照大神・加茂上下大明神。創建の由緒は昔加茂神主某の庶子・鴨頼長なるものが下ってきて当社を営み、神主となったとある。だが、文禄年間に神領が没収され、凋落した。
 正祭は2月23日で、打植祭と呼ばれ、浜下りの儀式がある。また、カギ引きの行事が行われ、南北に分かれ、又のある木を引っ掛けて引き合う。
 財部郷の「北俣」「南俣」という地名は、この北の村と南の村に別れて「木の股」を引き合うという行事から名付けられという。社司は蛭牟田氏。
・加茂上下大明神…正確には上賀茂大社と下鴨大社。
 下鴨神社の祭神はカモタケツヌミ(相殿に妻・カムイカコヤヒメ、子・タマヨリヒメ)。上賀茂大社はタケツヌミの孫のワケイカヅチ。
澤田大明神社 地頭館より北東
19町
 下財部村にあり、祭神は不明。ある説では宇佐八幡宮を勧請したという。「彦之宮」「妙見宮」の二社を相殿として祀っている。創建の由緒は分かっていない。永正16年7月付けの神社再興の棟札は存在する。
 当邑は曾於・諸県両郡に属しており、特に諸県郡の諸村からは産土神とされている。正祭は2月10日。
 社司は桐原氏。
天子宮 地頭館の南、一里余り  図師村にある。祭神はスサノヲ尊と稲田姫。勧請の由緒は不明。軍神とされ、祭祀には甲冑・弓矢を使用する神事がある。社司は渡邉氏。 ・江戸時代は「天皇」は使えなくとも「天子」は使えたようである。大崎郷の古墳に「天子ケ丘古墳」がある。
<仏 寺>
小牧山法厳寺
   仏性院
地頭館より北西
7町半
 桜木村にあり、真言宗。開山は舜海法印で、応永の頃の人。元禄7(1694)年に火災にあい蔵書はことごとく焼失したため、開基の歳月は不明。当邑の祈願所である。
 昔、寺に旅の僧がやって来て寺僧が柿と小刀を差出して与えたところ、「こがたな」を頭韻として歌を詠んで返したが、その僧こそ西行法師その人であったという伝承がある。
・応永の頃…応永は1394年から1428年。室町時代の最初期の時代。
雲龍山興禅寺 地頭館より西
4町余
 桜木村にあり、国分正興寺の末寺で、臨済宗。当邑の菩提所(墓地)である。
寶積山正壽寺 地頭館より東北23町  下財部村にあり、国分正興寺の末寺。開山は桂巖和尚。桂巖は東福寺開山の聖一国師の弟子といい、開基は嘉暦3(1328)年と伝えられている。
 頗る繁盛し、塔頭は五院あったが、今は頽廃している
阿弥陀堂 地頭館より北西50間余り  坂元村にあり、仏性院の所管である。本尊の金銅阿弥陀仏は得仏公(島津忠久)が三州に封を受けたとき、鎌倉右大将(頼朝)の命で、信濃善光寺の金銅仏を摸して鋳造させ、越中立山の住人・新穂左京という人に持参させて寺を建立して「新善光寺」とし、土田1000町を寺領として与えたという。
 新穂左京の後裔は寺領が官に収公されたとき、都城領主の家臣となった。
<旧 跡>
龍虎城 地頭館より西南5町余り  桜木村にあり、12の城からなる山城である。当邑はもと財部六郎正信の所領であったが、その後、北郷氏・新納氏・伊集院氏などの支配地となった。
 伊集院忠真の反乱の時、この城は伊集院甚吉が守ったが、慶長4(1599)年、島津方の山田越前守有信らの将兵により、敵を敗走させた。
・伊集院忠真の反乱…庄内の乱(役)と言うのが一般的。
 忠真は父で都城領主の忠棟が、京都で島津忠恒(のち18代家久)に誅殺されたので乱を起こしたが敗れた。
花平営 地頭館より西南2里25町  柿木村の白鹿嶽の西南山腹の一山。
 慶長4年の庄内の乱で貫明公(16代島津義久)自らが龍虎城を攻めたとき、ここに陣を設けたという。ここは左右後ろが断崖の丘で、中央の部分がわずかに平地であり、二重の塹壕跡が残っている。
 旧記にも「貫明公が諸軍をひきいて・・・」とあるが、御親征ではなくて、征伐後の巡検のことではないか、と思われる。

庄内の乱
に関する地名その他
○高旗ヶ野…庄内の乱で軍旗を立てた所。
○黒棚堂…島津方の将・山田有信の陣所跡。
○郷ヶ迫…伊集院方の将・富山石見が3百の将兵を繰り出した所。日光神社方面にいた讃良善助が石見を射殺して敗走させた。
○古井原…伊集院方の将・重信越後の軍と一戦を交えた所。この戦いで美少年・平田三五郎などが戦死した。
我兵陣亡の諸墓
 ・平田三五郎の墓…古井原の荷込坂の上にある。墓 面に慶長四年、十六歳、戦死との銘がある。美少年  で名高く、吉田大蔵清家と契りの仲であった。清家が 先に戦死したので、後を追って討ち死にした。
 ・宮内式部左衛門の墓…三五郎墓の西1町ばかりに ある。墓銘には慶長四年六月二十七日とある。
 ・吉田大蔵清家の墓…三五郎墓の西南1町ばかりに ある。崖の上だったために崩れ落ちて今はない。
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