『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座  (平成22年12月12日)

第八回 大隅国 曽於郡 市成郷

※ 市成地区(郷)は平成17年までは曽於郡輝北町に属していたが、現在は新鹿屋市に編入された。
 それ以前は曽於郡市成村(郷)であり、藩政時代は曽於郡市成郷として地頭が置かれた。
  地頭館は現在の正覚寺の所にあった。

位 置 概       要 備   考
<山 水>
諸山合記 ○八重山…諏訪原村にある。 ○益台峰…市成村にあり、土地の者の猟場である。 麓集落のあるのが市成村。
<神 社>
太玉神社 地頭館より東南へ15町  市成村にある。祭神は太玉命(フトダマノミコト)。当邑の総鎮守で、肝付兼続の時に建立されたという。天文23(1554)年の棟札があり、「地頭・岸良兼慶」の名が見える。社司は鶴田氏。
 (九州において、単独で太玉命を祭るのはここ位のよう で、稀な祭神であり、神社である。肝付兼続は肝付氏
 第16代当主。)
・太玉命…天太玉尊ともいう。天孫降臨に従った五伴緒のひとり。延喜式式内社では奈良県橿原市に太玉命神社があり、忌部氏が祖先として祭っていた
山王宮 地頭館より東北13町  諏訪原村にある。本殿の梁に「長禄2(1458)年正月、伴家兼忠・兼秀建立」とあり、また「永禄10(1567)年3月、肝付左馬頭造立、地頭安楽兼近」と文書に載る。 社司は鶴田氏。 ・伴兼忠は肝付氏12代。肝付左馬頭は17代良兼のこと。
神社合記 ○若一王子権現社…市成村。永禄7(1564)年、肝付兼続建立の棟札あり。 ○稲荷大明神社…市成村。棟札に永禄8(1565)年、肝付兼続の名。 ○三宮大明神社…諏訪原村。棟札に元亀3(1572)年伴兼助建立とある。 ○若宮大明神社…諏訪原村。永正5(1508)年、山田安芸守忠豊、嫡子久親を悼んで建立したという。
<仏 寺>
法城山両足寺 地頭館より北東へ5町  市成村にある。鹿児島福昌寺の末で曹洞宗。最初、曽於郡敷根村において土岐国房の子・敷根頼房が創建し「大儀庵」と称したが、後裔の敷根頼賀は垂水田上に移封となったため田上に移築して「両足寺」と改称した。ところが曾孫の立頼の代に高隈村に移り、江戸期に入った慶長19(1614)年、最後にこの市成地頭となり、両足寺も移築されて今に至った。 ・両足寺とは珍しい名だが、由来は書かれていない。垂野城の二の丸の下にあった。
・敷根頼賀…よりしげ。又はよりいわ。
鳳林山瑞慶寺 地頭館より東15町  市成村にある。敷根頼賀が夭折した嫡子・頼兼のために天正7(1579)年に建立した。頼兼の法号(戒名)が瑞慶庵であった。
<旧 跡>
垂野城 地頭館より北5町  諏訪原村にある。本丸・二の丸・空堀の跡が残る。往古の城主は市成氏。市成村の名は市成氏に因んでいる 道鑑公(第5代島津貞久)の時、市成某を降し、山田忠経に与えた。山田氏の祖先は島津氏第2代忠時の庶子で、谷山の山田村を支配したことから山田氏を名乗った。応永15(1408)年に生まれた7代目山田忠尚(入道して聖栄を名乗る)は『聖栄自記』を著し、藩朝の実録故事を記していて著名である。
 8代目山田忠広はこの地を大中公(第15代島津貴久)に献上したので、公はこれを肝付氏に与えた。島津氏の内紛で、島津忠良軍に加勢した論功行賞であった。
 慶長19(1614)年、今度は貫明公(第16代島津義久)が敷根立頼に市成を与えた。
島津忠良…大中公貴久の父。日新斎。法名・梅岳君。島津氏内部の紛乱を収め、三州統一の基礎を作った。当時、忠良の長女・阿南は肝付氏当主・兼続に嫁していたので、肝付氏が援軍を送ったのである。
双子塚 地頭館より東30町ばかり  諏訪原村にある。平野の中に丸い丘が二つ並んでいる。ひとつは高さ20丈、周囲5町40間。もうひとつは高さ11丈、周囲2町30間。両者は隔たること1町(108m)ほど。樹木は生えておらず、芝の丘である。
 土地の者は、太古、大人弥五郎がモッコで土を運んでいたところ、ここでモッコの柄が折れ、土がこぼれ落ちたので塚のように盛られた―という。
弥五郎…南九州には大人とか大王と名付けられた伝説の神人がいろいろな場所で語られている。岩川八幡の弥五郎どんは有名。

    
      大隅国 肝属郡 百引郷
 
※ 旧曽於郡輝北町は昭和31年に曽於郡市成村と肝属郡百引村とが郡境を越えて合併した町であったが、平 成18年1月、平成の大合併の流れの中で、鹿屋市と合併して鹿屋市輝北町となった。
  地頭館は藩政時代には堂籠地区にあった。現在の堂平公民館の所である。旧輝北町役場は当地を 治めていた藤原氏一族と言われている「図師氏」の菩提寺のあった場所で地頭館ではない。旧役場が置か  れたのは明治維新後の明治6年ごろという。

位 置 概     要 備 考
<総 説>  富山氏の文書に「島津御庄、補任百疋弁済使職之事、勾当僧・安兼、任相伝文書之理、補任彼職畢、庄衙宜承知、敢勿違失、下。 安元2(1176)年7月、守沙弥判」と見えている。この中の「百疋」は百引のことであろう。建久8(1197)年の 『大隅国図田帳』に「小河院内百引村13丁4丈とあり、また、建治2(1276)年「石築地の賦」に、近衛領島津御庄の寄郡という内に「百引村13町」とある。 勾当僧…当時は読み書きの出来る僧侶が事務方を務めていた。勾当僧とは別当の配下にいて事務を執る僧のこと。守沙彌は別当のことであろう。
<神 社>
利大明神宮 地頭館より東南へ20町
(堂籠川中流の宮元集落)
 「りだいみょうじんぐう」。南方村にある。天児屋根命を祭る。勧請の年月は伝わっていない。村の鎮守である。社司は石塚氏。 本文のルビでは「利」を「り」と読ませるが「とし」が正しい。現在は百引小学校の近くに移っている。
神社合記 ○諏訪大明神社…永禄元(1558)年、肝付兼続が大旦那として造立と伝える。 ○大王社…応永11(1404)年造立の棟札あり。 ○石牟礼大明神社…天照大神を奉祭。文明17(1485)年の上梁文に「大旦那・藤原美作守忠常」とある。  以上の3社は南方村にあり。
<仏 寺>
宝円山千手院
  丸山寺
地頭館より東へ14町  南方村にある。坊津一乗院の末寺で真言宗。開基・開山ともに不明。当地の祈願所である。 丸山寺跡には巨大五輪塔と月輪塔が残されている。
慧日山般若寺 地頭館より北12町  南方村にある。曹洞宗天真派・国分清水の寥厳寺の末寺で、当村の菩提所。開山は巨海和尚で、寺伝では図師祐宗が寛正2(1461)年に創建したとする。 図師氏は藤原氏族と言われ、旧輝北町役場は般若寺跡。また後背の丘の上の「西原城」を居城とした。
徳祐山善福寺 地頭館より東北1里余  平房村にある。加瀬田ヶ城の北側の丘陵の野首にある。曹洞宗福昌寺の末寺で、文明年間に美作守藤原忠常の開基という。
<旧 跡>
加瀬田ヶ城 地頭館より東1里余  平房村にある。築城の主は不明だが、南北朝時代までは肝付兼重の子・彦太郎兼隆が守っていた。道鑑公(第5代島津貞久)が自ら兵を率い、陥落させた(建武3=1336年6月)。しかしその後、志布志の楡井頼仲により奪い取られたが、観応2(1351)年、根占清成・清種らの攻撃で再び武家方の城となった。
 元亀年中(1570〜1573)、肝付氏家臣の川越玄忠らが在城、肝付氏が敗れた後は島津右馬頭・比志島伊予守など在番とある。
 本丸・二の丸・空掘りが残り、東と南は断崖、西南に大手口が、西北に搦め手口がある。
・加瀬田ヶ城は肝付氏にとって高山の本城と都城三股の城を結ぶ中間点にあり、薩摩半島側からの攻撃に対する防御地点として大変重要であった。
彦太郎兼隆は7代兼尚の子である
戦場等の合記 ○赤禿の古戦場…平房と大崎郷の境目にあり、肝付氏と都城の北郷(ほんごう)氏との戦場。肝付氏は勝ちに乗じて都城まで討って出ようとして末吉の国合原の戦い(天正元=1573年)で大敗した。 ○陣之平…平房村。加瀬田ヶ城を望む高台。島津貞久の陣跡とも北郷氏の陣跡ともいう。 ・国合原の戦いでの大敗は肝付氏にとって致命的で、翌年島津氏に降伏することになった。
「図師氏」考  図師氏については旧曽於郡輝北町が平成17年に発行した『輝北町文化財めぐり』の30ページ<33.史跡 西原城>の中に次の記載がある。
 「(西原城は)かって養和元年(1182)から434年間も百引を支配して肝付氏に仕えた図師氏の居城で、高山の肝付本城と連絡を密にし、北朝系(島津勢)や外敵の襲来を監視し、万一のときは狼煙を上げて本城に急を知らせた肝付北方の監視城として重要な城でした。築城者や年代は不明です。・・・・・」
 これが正しいとすると、図師氏は平安末期に百引に定着したようである。
 また、都城市教育委員会が平成10年に発刊した『冨山・梅北家古文書』には、承安5(1175)年に出された<島津庄政所下し文>に百引村に関するものがある。
 「御庄政所下す。 百引村
   定遣の弁済使職の事
    勾当僧 安兼
  右の人、彼の職として殊に勧農いたし、勤仕せしめ、 庄国衙の課役、定遣するところ件のごとし。住民らよろ しく承知し、これを用うべし。故に下す。・・・・・」

 この文書を書いたのは、島津庄の政所(管理事務所)に勤めていた別当と言う職名の「伴朝臣」「藤原朝臣」「漆嶋朝臣」ら9名の管理職たちで、勾当僧つまり現場の事務官吏として文書(漢文)を自由に扱える人物・安兼を推挙したという内容である。
 この安兼という人物は7年後の養和元年(1182)から百引の支配をしていたという図師氏の始祖の可能性がある。また名前に「兼」を使っていたことから類推されるのがあの「伴兼行」である。兼行は大宰府の上級官吏であったが、追捕使として薩摩国に遣わされ、そのまま居着いた肝付氏の遠祖である。
 したがって肝付氏の一族だった可能性も捨てきれない。藤原氏一族を名乗るのは都から地方に赴任した官僚の定番であったから、安兼も藤原一族を僭称したのかもしれない。
 しかし、決め手は欠くので、今のところは保留しておきたい。

             <市成郷・百引郷の項・終わり>              目次に戻る