『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

第九回 大隅国・大隅郡・牛根郷

※ 牛根郷は現在の垂水市に属する。地頭館は居世神社と牛根麓郵便局との間、やや神社に近い場  所にあった

位 置 概      要 備  考
<山 水>
諸山合記  牛根郷は前は海に臨み、後ろは群山が聳える。山は急峻で高く、土地の者の狩猟の場である。
諸川合記  長谷川は群山の向こうに流れ下り、串良柏原海岸で海に流れ入る。また、松崎川がある。 ・長谷川は串良川の源流である。
宍籠瀑布 地頭館の東
1里28町
 二川村にあり、水源は宍籠山で、滝の高さは27〜8メートル。松崎川に流入する。
<神 社>
居世大明神社 地頭館の東北東3町余  コセ大明神。地頭館から3町東寄りの海岸縁にある。祭神は欽明天皇の第一皇子という。由緒は雪の庭に出て土を踏んだので、帝位には就かせられないということで、空ろ船に乗せられて流され、地元の農夫に拾われたが、6年後に亡くなったゆえここに祭ったとのことである。
 社殿は文明年間(1469〜1487)に領主・池袋民部少輔が建立し、村の宗社にしたようである。
○寄進品…備前国主・宇喜多秀家が牛根に潜居していた時に小刀・山薙刀・盆などを寄進している。
○皇子墓所…神社の裏手の小山を指す。
・欽明天皇は第29代で、日本書紀によれば皇子は14人いた。
・永井彦熊は『落日後の平家』で、この皇子は安徳天皇のことだろうと述べている。
稲荷大明神社 地頭館の東3町  天正2(1574)年9月に建立したという棟札がある。施主は地頭・伊集院久道。
<仏 寺>
江南山東光寺
  華蔵院
地頭館の南東40間  入船城(別名:牛根城)址の山下にある。本府大乗院の末寺で、真言宗である。当村の祈願所である。
望海山喜翁院 地頭館の東北1里20町  二川村にある。本府福昌寺の末寺で、曹洞宗。当村の菩提所である。境内より東を望めば、宍籠の滝が白虹を掛けたように望まれ、西南は桜島が海中に屹立しているのが見える。絶景の地である。
太崎観音祠 地頭館の東北東1里ほど  太崎は海上に突き出た嘴のようで、大きな岩が聳え立つ。陸から一線の石畳が通じている。大きな岩の中腹に一畝ほどの平坦地があり、そこに聖観音像が安置されている。明和元(1764)年8月に華蔵院住持・盈川和尚が建立した碑文によると太崎観音は延暦2(783年)に建立されたという。
<旧 跡>
入 船 城 地頭館の東南3町ばかり  牛根村松ヶ崎にある。牛根城とも言う。東西北の3面は断崖、東は尾藤崎川(現・大迫川)に臨む。南は茶園ヶ尾に接し、二重の空堀の址がある。
 牛根は暦応の頃、牛根兵衛五郎道綱が、文明の頃、池袋氏数代、天文の頃には小川尾張守武明、本田紀伊守董親の所領であった。しかし本田董親のあと、一時肝付氏の物となった。
 天文の末(1555年)、肝付兼続は安楽備前守を城代としたが、兼続亡き後、島津義久が当城を攻略し、安楽備前は降伏している。その後、伊集院久道が地頭として入城した。
○早崎営…入船城の出城。垂水郷との境目に位置する断崖上の城で、天正元(1573)年、島津家久(義久・義弘・忠将の末弟)軍と肝付氏の軍が戦い、肝付軍は敗走した。
暦応…1338〜1342年。
文明…1469〜1487年。
天文…1532〜1555年。
・天正2年(1574年)肝付氏は島津氏に降伏した。
宇喜多秀家の潜居址 地頭館の北東30町  太崎観音と松ヶ崎との中間点辺りにある。慶長5(1600)年の関が原の戦いで西軍の雄・宇喜多秀家は敗残者の身となり、潜伏し、翌慶長6年6月、薩摩国の山川港に上陸した。島津義弘は迎え入れ、秀家を牛根に配置した。
 慶長8(1603)年、伏見にあった島津忠恒山口直友に秀家の救命を乞い、本多正信を介して家康の恩赦を引き出すことに成功した。家康は島津氏が同じ西軍であった宇喜多秀家を匿ったその面子を重んじたのだ。
 秀家は八丈島に流罪となり、そこで80余歳にて亡くなったという。
 現地では秀家の潜居は「平野屋敷」と呼ばれているが、宅地は陸田と化している。
宇喜多秀家…備前領主。57万石。若くして秀吉の目に掛かり、「秀」の1字を貰っている。五大老のひとりであった。
島津忠恒…義弘の子で、江戸初期の18代薩摩藩主・家久(慈眼公)となった。
山口直友…家康の側近。庄内の乱の仲裁にやって来た。
本多正信…家康の側近。
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