〜『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座〜

第八回  日向国 諸県郡 飯野郷 (H23.12.18)

飯野郷…地頭館は現在の
えびの市飯野支所界隈ここは北に川内川を挟んで「飯野城」があった。

摘     要 備  考
<総  説>
真幸院  昔は飯野・小林・加久藤・馬関田・吉田の地を真幸院といった。古来、真幸を領有する人は必ず飯野を地所とする。 馬関田は「まぜきだ」と読む。
<山  水>  
群山合記  真幸院の東は小林・飯野という。霧島山系の虚国嶽の西に白鳥山がある。
六観音池  白鳥山上にある。往古、性空上人はこの池のあたりで法華経を読んでいると、白鳥権現が出現した。性空上人は自ら六観音を刻んでお堂を建てて安置した。
 このお堂は霧島六所権現の本地である。
・白鳥権現はヤマトタケルを祀る。権現は仏教の仏が仮に日本の神道の祭神の姿をとって現われる―という信仰。
千台川水源、 並びに
  狗留孫川
 千台(川内)川の源は肥後球磨郡の山中からと、狗留孫山中より流れ出る。水源が狗留孫山中にあるので狗留孫川と名付けた。川内川は本藩第一の巨流である。
<神  社>
白鳥権現社 地頭館より南へ2里19町、白鳥山の中腹にある。祭神はヤマトタケル尊。当社縁起に「性空上人が六観音池のほとりで法華経を読誦していたところ老翁が現れ、ヤマトタケルと名乗った。その因縁により性空上人が白鳥権現を勧請した」という。
 松齢公(島津義弘)が飯野に入ってからは崇敬厚く、軍を出す度に祈願をしたという。そのため松齢公の寄進の物品が多い。
 ○白鳥山金剛乗院満足寺…大乗院の末寺で真言宗。白鳥権  現の別当寺である。
ヤマトタケルの墓は伊勢国の能褒野、大和国の琴弾原、河内国の旧市村の3か所にある。
 狗留孫山
 (くるそん)
   権現社
地頭館より北東へ3里、大河内村にある。祭神は熊野三所権現で、栄西禅師の勧請という。権現の御神体は「阿弥陀・薬師・観音」の三仏であり、これが本地となっている。
 ○狗留孫仏誕生窟…本社の東にあり、太古の昔にそこで狗留  孫仏が誕生したという。
 ○狗留孫巌…誕生窟のさらに東にあり、尖塔のように切り立っ  た岩がある。卒塔婆石ともいう。
 ○狗留孫山多寶院端山寺…大乗院の末で、真言宗。初め栄   西禅師開山の頃は臨済宗であった。松齢公・慈眼公(島津家  久)の崇敬厚く、慶長16年(1611)、本社、末社、華表(鳥居)  に到るまで新築された。
 ○都率杉…北原氏の子が書を習いに来ていたが、動乱に巻き  込まれて命を落としたが、墓の上の大杉がこう呼ばれるよう   になった。
熊野三所権現…ケツミコ・ハヤタマヲ・クマノフスミの三神を祭る。
栄西禅師…臨済宗建仁寺の開祖。1187年に入宗し、1191年に帰国。我が国に禅宗を初めて伝えた。『喫茶養生記』を著している。
一宮
香取大明神社
地頭館より西南西22町にあり、祭神は斎主いわいぬし)命。社記によれば大織冠・藤原鎌足の命で白鳳7年に勧請したという。
 松齢公(島津義弘)が飯野を治めた時は飯野城内に勧請していたが、栗野へ移封された後は元の今西村に戻されている。
 ○天之宮…斎主命の神霊が常に留まっている所という。
白鳳…私年号。鎌足が大織冠を賜与されたのは669年であるから時代的には天智天皇代。
横峯八幡祠 地頭館の東南へ14町余、島津久林の霊を祭る、という。
大戸諏訪神社 地頭館の西へ20町、大明司村にある。祭神はタケミナカタ命。慈眼公・家久は加久藤城で天正3年(1573)に生まれており、産土神として崇敬した。
金丸諏訪神社 地頭館の東へ10町余、杉水流村にある。
立石権現 地頭館の北北東へ18町、原田村にある。原っぱの中に高さ7〜8m、幅8尺の大岩が立っている。土地の伝えでは、狗留孫山の卒塔婆石と観音石は太古は同じ高さだったが、観音石の方の頭の部分が折れ、それがここに飛んで来たのだという。
神社合記 ○御城荒神社 ○中島六所権現祠 ○飯留大明神社 ○稲荷大明神社 ○天満天神社 ○兜率大明神社
<仏  寺>
兜率山長善寺 地頭館の東北東へ7町、能登国の総持寺の管下で曹洞宗。
 北原範兼が出水観音へ参詣の折に出逢った明窓和尚に和歌を贈ったところ、明窓の返歌は、
  <西東南の風にはなされて 北原ばかりたのむ明窓>
というもので、北原氏の庇護をほのめかしてあった。
 その結果、範兼と明窓は師弟の誓約を結び、七堂伽藍を建立し、100町を香華田にしたという。その後、永禄年間に北原氏が滅亡すると島津氏が400町の田を寄進したが、天正の動乱で社領が打ち捨てられると独住の寺となり、寛永年間には総持寺の輪番は、飫肥藩の長持寺が取って代わることになった。
・香華田…寺の経営にあてがう田。
春日山
不動寺愛染院
地頭館の北へ10町。真言宗。当所の祈願所である。
幻生寺 地頭館より北北東へ3町。長善寺の末で曹洞宗。松齢公の長子・鶴寿丸の菩提所。(墓は加久藤の不動寺にある。)
稲荷山
西方寺保寿院
地頭館の西南西へ3町。真言宗。本尊の阿弥陀如来(木仏)は松齢公の前夫人の相良氏(邊川御前)の肖像だという。
月照山宗江院 地頭館の東北東へ7町。長善寺の末で曹洞宗。松齢公の4男・萬千代丸の菩提所。
成就軒 地頭館の東南東へ5町。長善寺の末で曹洞宗。松齢公が伊東氏を平定し、長年の祈願が実ったとして建立した。
出水観音閣 地頭館の南へ1里半。丘の麓から清泉が湧出している。池を成して奇岩大小がちりばめられ水の色は清澄で景観絶妙である。
 かってはここに寺があったというが、跡形もない。西側の岩の上に聖観音の小さなお堂があるばかりである。
<旧  跡>
飯野城 地頭館の北北東へ3町。亀ヶ城または鶴亀城という。昔から真幸院の領主は必ずこの城を居城としてきた。
 真幸院は日下部氏が代々その郡司であった。得仏公(島津氏祖忠久)のころ、真幸十郎重兼という者が居城していた。その6世孫の貞房までは系図に見える。
 日下部氏の後を襲ったのは肝付氏族の北原氏で兼幸の時に串良の木田原から移ってきた。兼幸の5世孫の範兼は相良氏と争って死亡したため、子の久兼は島津氏に降ったが、真幸院は安堵された。8世孫の貴兼の3子のうち長男・二男は早世したため、二男の子の茂兼が継承したが、三男・兼珍が自立して後嗣となった。
 兼珍の4世孫・兼守の正室は伊東義祐の娘であったが子が生まれず、永禄5年(1562)に兼守が死ぬと伊東義祐は後継者・茂兼を殺害し真幸院を横領した。しかし茂兼の孫・兼親を島津氏が推したため真幸院は再び北原氏の領有に帰した。
 だが、北原氏の身内で内紛が起ったので、結局、島津氏は北原氏の真幸院統治に見切りをつけ、永禄7年(1564)、兼親を伊集院の神殿へ移封し、島津義弘(松齢公)が飯野城に入った。
 この永禄7年から天正15年(1587)の太閤秀吉の島津征伐を経て天正17年に栗野へ行くまでの26年間、松齢公は飯野城を本拠地とした。
 ○金田杉…元亀3年(1572)、伊東氏が加久藤を襲ったとき、   松齢公が登って遠見をした。 
 ○薩摩塁…球磨の相良氏侵攻の情報が入ったので、防塁を   構えた場所。俗に薩摩陣という。
北原氏…始祖は肝付氏第2代兼俊の子の兼綱で、串良の北部を領有して北原を名乗った。
 兼幸の時に真幸院の院司として串良から飯野へ移った。
 兼幸から14代目の兼親の時まで220年間の統治の後、島津氏によって伊集院に移された。
大河平城 おおこびら・城。地頭館より東北東へ1里半にある。大河平氏の居城。大河平氏は菊池一族で、菊池氏7代目に当たる八代五郎隆俊の後裔である。代々北原氏に臣属していた。隆俊の13代目の隆屋の時、北原氏が飯野を追われたため、その後は島津氏に属した。島津氏は大河平城を安堵したため、以降、大河平を名乗った。
 ○今城  ○枯松ヶ尾  ○映山紅並びに江南竹
映山紅…キリシマツツジのこと。
桶平塁 地頭館の南へ31町、白鳥山の北麓にある。伊東義祐の陣跡。永禄11年(1568)、松齢公が大口の菱刈氏を討つために出陣している間に築いたが、翌年、菱刈氏・澁谷氏の勢力が衰えたのを見て塁を焼き払い三ノ山(小林)に引き上げた。
木崎原 地頭館の西南西へ1里余、池島村にある原野。元亀3年(1572)5月4日、松齢公が大いに伊東氏を打ち破った場所。
 伊東氏の大軍に対して圧倒的に不利な軍勢しか持たなかった松齢公は白旗をたくさん作らせて要所に掲げさせて大軍に見せかけた。また白衣の軍団数千人が敵の道を遮るという神助もあったようである。
 また
 島津軍の挙げた敵の首級は500余り、伊東氏は良将を多数失って勢いが衰え、その後数年で滅亡に到った。

 ○二八坂  ○三角田  ○横尾八幡山  ○大刀洗川    ○首塚  ○供養石塔
伊東氏…工藤祐経の後裔。日向へは祐持の時に入部。足利尊氏の命によるという。
 10代目の義祐の時、島津氏によって滅ぼされたが、13代目の祐兵(すけたけ)は秀吉の島津征伐に功績があったとして飫肥の領有を許された。
古城合記  ○金丸城  ○球磨塁  ○宮之城  ○掃部城  ○上江城
○吉富陣  ○平城

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