〜『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座〜

第3回 日向国 諸縣郡 高崎郷・高城郷・山之口郷・勝岡郷 
(H23.7.10)


     高崎郷

  ※ 高崎郷は延宝4(1676)年、霧島山の東麓に展開する高原郷の南部を分割して定められ              た新郷である。地頭館は前田村に置かれた。
概        要 備  考
<山水>
北 川 水源は霧島山。邑の東で庄内川に合流する。 高原では湯之元川
<神社>
宇賀
大明神社
地頭館の南5町 朝倉村にある。祭神は倉稲魂(うかのみたま)命。延宝4(1676)に高原郷から分離したとき当郷の総鎮守となった。
 社傍に朝倉氏が居住して社事を掌っているが、祖先が丹波国から勧請したという。別当寺は幸樹院である。
総鎮守…明治以降は郷社と言われる。分離前の高原郷の総鎮守は「狭野神社」であった。
神社合記 ○愛宕大権現廟…前田村にある。勧請の由来などは伝わっていない。 ○外達大明神祠…前田村にある。北原氏の武将で天文11(1542)年に戦死した白坂下総守を祭っている。 北原氏…肝付氏の傍流で串良細山田が本拠地であった。
<仏寺>
龍虎山
 明王寺
 幸樹院
地頭館の東1町余 前田村にあり。大乗院の末寺。最初は福昌寺の末であったが、延宝年間の高原郷からの分離の際、高原の錫杖院に属したが、その後本府の大乗院の末寺となった。宇賀神社の別当寺で、当郷の祈願所である。
朝倉山
海臧寺
地頭館の南5町 前田村にあり。飯野郷の長善寺の末で、曹洞宗。享保元(1716)年の霧島山噴火で焼け、さらに文政5(1824)年5月の火災により古記録類が焼亡したため由来などは不明になった。
<旧跡>
龍虎山城 地頭館の西4町余 朝倉村にある。土地の伝承では元亀3(1572)年に九藤因幡守という者が築城したという。
柳 城 地頭館の東2里半 樋渡村にある。旧記によると、入来院重時がここを守っていた庄内の乱のとき、敵将・倉野七兵衛一党が東霧島を襲おうとしたが重時は見事にこれを防いでいる。 入来院氏…戦国期、北薩の雄族として渋谷氏とともに反島津の先鋒であったが、敗れ軍門に降った。
古城合記 ○木場城…樋渡村にある。陣営の跡である。 ○総城…江平村の原野にある。高い岡の上は平坦になっている。
朝倉野 地頭館の南6町 朝倉村にある。『平家物語』巻20に「島津荘のうち、朝鞍野といふ所」とあるのはここだろうという。

      
        高城郷

  ※三俣院を割いて地頭を置く。地頭館は大井手村にある。三俣院は高城・山之口・勝岡・都城
   各郷を併せた広大な領域を指している。
概       要 備  考
<山水>
高尾丸峯 地頭館の北3里余 宮原村にある。当郷第一の高峰で、山下の古道「鬼山越」からは野尻方面へ通じている。伊東氏の使う山道であった。
国見嶺 地頭館の北北東3里余り 宮原村にある。高岡郷への往還の大道が通じている。島津藩主が巡検されるときに、山頂に東屋を建て、四方を望むところである。
庄内川 上流は都城郷の山中から出て、末吉郷との境を流れ都城・高城・高崎・野尻・高岡の各郷を流れて行く。高城郷では高城川とも水流川とも言っている。 庄内川…現在では大淀川という。
観音湍(せ) 地頭館の北北西2里25町 宮原村にある。庄内川が瀬をなしていて、広さ5,6間、長さ40間の激流である。むかし観音があったらしいが今はない。桜や藤の時節には行楽客が多いという。
<神社>
東霧島
  権現社
地頭館の西2里20町余  東霧島村にある。霧島山系の支脈で東に延びる長尾山の麓にあるゆえ東霧島権現と呼ぶ。物のはじ(端)を俗に「つま」と言うが、この権現社は霧島山系の東の端に当たるので「東霧島権現」と書いて「つま霧島権現」と呼びならわしている。
 祭神はイザナギ・イザナミ命だが、相殿にニニギ・ホホデミ・ウガヤフキアエズ・コノハナサクヤヒメ・トヨタマヒメ・タマヨリヒメの6座を祭る。
 この地はイザナミが火の神カグツチを生み、焼けただれて死んだのをイザナギがカグツチを斬った場所であると伝えられている。その時に使った「十握剣」が神社の神宝となっている。
 南9町余に八幡社があるが、そこは当社の行祠で2月の祭祀の時は神輿を仕立ててそこに至るが、これを「浜下り」という。
 割裂神石…土地の伝承で、イザナギ命が十握剣でカグツチを三段に斬ったその遺跡だという。日向国宮崎郡大島平原村に割石があり、その割れ口などがこの神石にそっくりだという。
 また、出雲の神門郡上町畷里に一奇石があり、俗に霧島山から飛んできたなどと言っているそうである。
東(つま)霧島権現…東を「つま」と呼ぶ説明にはなっていない。「端」(つま)は西にも南にも北にもあるのだから。
 割注に<あずま(東)」の「あ」が省略されたのだろう>とあるがこちらが正解だろう。
春日
大明神社
地頭館の東12町余  大井手村にある。祭神はアメノコヤネ命・鹿島大明神・香取大明神・アマテラス姫神の4座。村上天皇時代の天徳2(958)年に勧請された。この地がニニギ命垂迹の地だからであろう。
 「春日宮」という扁額があるが、これは近衛関白信輔公が薩摩に下向した際に手書きされたものが元になっている。高城郷の総鎮守であり、社司は末原氏。別当寺は東龍寺である。
村上天皇…62代。父は醍醐天皇。
近衛信輔…左大臣、関白。近衛氏の祖は藤原北家。藤原頼通の5世孫の基実から近衛家が始まる。
諏訪上下
大明神社
地頭館の北10町余 穂満坊村にある。勧請年月など不詳。社殿再興の棟札に「願主・藤原忠相並びに忠親」とある。別当寺は文殊寺。 藤原忠相・忠親…都城城主・北郷氏。忠相は8代。忠親は9代目。
神社合記 ○霧島六所権現社…大井手村にある。応永25(1418)年の建立という。 ○走湯権現社…穂満坊村にある。元亀3(1572)年8月、大檀那・時久並び相久の棟札がある。 ○その他、諏訪大明神、三島大明神、若宮大明神、長野大明神、八龍大明神
<仏寺>
東霧島山
金剛仏作寺
勅詔院
地頭館の西2里半 東霧島権現社の東南1町ばかりにある。村上天皇時代の応和3(963)年、性空上人の開基、東霧島権現社の別当となる。
 昔は院号を「錫杖院」と言ったが、元禄年間(1688〜1704)に勅詔院と改名した。またそれ以前の慶長5(1577)年にもと天台宗だったのを真言宗に改めている。
春日山
三摩地院
東龍寺
地頭館の東10町余 大井手村にある。大乗院の末寺で、真言宗。本尊・薬師如来。上記の春日大明神社を勧請の時、建立して別当寺とした。
亀石山
石山寺
地頭館の北1里  石山村にある。福昌寺の末で曹洞宗である。由来記によれば、開山の實庵和尚は遠州浜松の雲厳寺の法嗣で、応永の頃(1400年前後)、この地に来て禅定を修していたが、土地の者に懇望されて堂宇を与えられた。すると「行疫の神」が8人やってきて済度を願った。和尚は機に応じて接化を17日間行ったところ悉く済度したので、「行疫の神」は秘宝と<本源赤身道見天化>という8文字を託し、毎春に民家の門口に張り出せば、その家は疫病に罹らないようにする――と和尚に告げて去った。それから和尚はいつもこの8文字を書いて民家に授けるようになった、ということである。 行疫の神…いわゆる「疫病神(やくびょうがみ)」のこと。
高松山
功徳院
高称寺
地頭館の西2町 穂満坊村にある。相模の藤沢山清浄光寺の末寺で、時宗である。開山は彌阿上人、開基は畠山治部大輔
 北郷忠相文書に「天文11(1542)年、8月20日、高城並びに小山において合戦、・・・伊東・北原之軍衆500余人討ち取り、勝利した。その亡霊のために長田門を高称寺に施入し、末代まで変易あるべからず…天文13年8月20日」と記されている。
・畠山治部大輔…畠山直顕のこと。足利尊氏の命で日向守護職(1340〜50年代)。一時は島津貞久と武家方の双璧だった。
<旧跡>
神世皇都 旧説に、高城はイザナギ・イザナミ二神の皇都であった。東霧島権現社にはイザナギがカグツチを斬ったという跡があり、また、ニニギ命が高千穂の二上の峰に天下ったあと、しばらく皇居としていた所が高城であると言われている。
 ニニギ命は晩年は薩摩国高城(たき)郡水引に遷都し、そこで崩御されたのである。
月山
  日和城
地頭館の背後の山 大井手村にある。高城ともいう。肝付氏の所領であった暦応2(1339)年8月、畠山直顕が大軍を率いて南朝方の肝付八郎兼重を討とうとした。ほとんど陥落しようかという時に、江田式部少輔家定が兼重の身代わりとなり敵の面前で討ち取られ、その間に兼重は落ち延び笠野を経て高山の本城に逃げた。
 その後、城は島津方、伊東方と変遷したが、天文11(1542)年の小山川原での対伊東・北原連合軍との戦いにおける勝利により島津方に帰することになった。
畠山直顕…上記の畠山治部大輔を参照
肝付八郎兼重…肝付氏第8代。三俣氏。肝付氏本家の5代兼石の子・兼市は三俣氏を継いだが、その孫が兼重。
三俣城 地頭館の北西26町 石山村にある。周囲1里、高さ40間。四方に塹壕がある。土地の伝承では肝付兼重の居城という。
 正平13(1358)年、肥後国の菊池武光が三俣城の畠山直顕を討伐に来たが、その三俣城は山之口郷の三俣城である。
古城合記 ○小山城…桜木村にある。伊東氏の守城。 ○肥田木ヶ城…穂満坊村にある。伊東氏の守城。 ○下之城…有水村にある。伊東氏の守城。
大 楽 地頭館の南西5町 穂満坊村にある。天文年間の小山川原の戦いのあった場所で、慶長4(1599)年の庄内の乱の時にも戦場となった。
諏訪街 地頭館の西8町 穂満坊村にある。天文年間に対伊東・北原戦の場所となった。諏訪神社の鳥居の内側に当たっている。
寶 光 地頭館の南15町 大井手村にある。庄内の乱の時、慈眼公(島津家久)の陣営があった。
東霧島
  御陣営
地頭館の西2里19町余 東霧島村にある。御陣営は勅詔院に置かれた。庄内の乱の時、慈眼公は本府を発し、菱刈郷・真幸院を経て東霧島に到着、本営を設けている。その後、山田城を陥落させたのでそこに移っている。
旧跡合記 ○石山越…石山村にある。天文元(1532)年、伊東義祐の武将・八代長門守以下戦死の地で水田の中に塚がある。 ○井之城深洞…下川内村にある。城内に深い洞窟があり、最初は狭いが20間ほど奥に行くとかなりの広さになって30人が列をなして歩けるほどになる。枝穴が3,4本あり、野尻、紙屋城後、平八重などに通じているという。
 往古、源平戦争ののち、平家の4家がこの井之城に隠れすみ、洞窟を利用していたなどともいう。
 

          山之口郷
 
  ※三俣院に属する郷で、地頭館は山之口村にある。
概      要 備  考
<山水>
東 嶽 地頭館の東南東、山之口村にある岩峰である。
青井嶽 地頭館の東北、山之口村にある。元禄時代に大玄公(21代島津綱貴)が登り、御茶屋を設けている。山頂からは日向灘はもとより豊後水域までも望まれる。船が航行するときの目印になっている。
東嶽川 水源は東嶽。三石城の南麓を流れ、大井手村に入る。 三石城…山之口古城。亀鶴三石城ともいう。
古大内川 水源は山之口村。三石城の北麓を流れ東嶽川と合流する。
上去川 高岡郷を流れる去(さる)川の上流に当たる。
<神社>
走湯権現社 地頭館の東4町余 山之口村の三石城南麓にあり、本社は伊豆の走湯権現である。当社は建武4(1337)年に土肥平三郎實重が建立した。別当寺を修善寺という。
的野
正八幡宮
地頭館の南1里2町 冨吉村にある。本社は国分正八幡宮。和銅3(710)年に勧請。往古は三俣院の宗廟であった。
 正祭は10月25日。当社から南西へ4町余りの御手洗の池のそばに仮殿を設け、三つの神輿を繰り出す。これを「浜殿下り」といい、「弥五郎」という1丈余りの大きな人形を四輪車に乗せ、12,3歳の子供たちに曳かせる。これは昔大隅の隼人を征討した故事に基づくという。
弥五郎…巨大な弥五郎人形は敗れた隼人の首領と言われている。同様の神事は「岩川八幡宮」「田上八幡社」でも行われている。
神社合記 ○諏訪大明神社…冨吉村にある。 ○将軍社…冨吉村にある。 ○天神社…冨吉村にある。 ○熊野三所権現…冨吉村にある。 ○熊野権現廟…山之口村にある。 ○諏訪上下大明神社…花之木村にある。和銅2(709)年の勧請である。
<仏寺>
桂谷山
示現院
修善寺
地頭館の東4町余 山之口村の走湯権現社の西南20歩にある。大乗院の末寺で権現社の別当寺である。天正20(1592)年、北郷時久大施主として千手観音再興の棟札がある。当郷の祈願所である。 ・北郷時久…北郷氏第10代。
桂昌山
地蔵院
十輪寺
地頭館の
東2町
山之口村にある。曹洞宗。本府の福昌寺の末寺。
的野山
花蔵院
弥勒寺
地頭館の
東2町
冨吉村にある。大乗院の末寺で、的野八幡の別当寺である。
補多山
普門院
瑞応寺
地頭館の南1里9町 冨吉村にある。初め真言宗、のち文化12(1815)年、本府の壽国寺(黄檗宗)の末寺となった。
仏宇合記 ○阿弥陀堂…山之口村田原山にある。和銅元年(708)に伊豆三島から護送した阿弥陀を安置したのが由緒である。 ○将軍地蔵堂…花之木村にある。光背に「応永34(1427)年4月16日、之を作る。開眼は6月1日。願主・桜木対馬守公頼」とある。
<旧跡>
山之口古城 地頭館の北東6町 山之口村にある。亀鶴三石城という。平氏の悪七兵衛景清が築いたという。城の左右に山の尾があり、右のを亀の尾、左のを鶴の尾と言い、景清は亀の尾に居住したという。
 その後、建武3(1336)年、日向守護の畠山直顕に随参した土肥實重がまず福王寺に下着、その後三石城に入ったという。
・悪七兵衛景清…藤原景清。平氏に味方して戦ったが、敗れて日向に落ちのびたらしい。大隅国曽於郡末吉郷柳井谷に景清の墓が伝承されている。
三俣城 地頭館の南34町 花之木村にある。別名、松尾城。延文の頃(1350年代)、畠山民部大輔がここを拠点としたという。『太平記』には「延文3(1358)年11月、菊池武光、日州六笠城を攻める。先ず三俣城を落とす」とある。 畠山民部大輔…日向守護・畠山直顕の子。
城営合記 ○古城…冨吉村にある。鶉ヶ城といもう。 ○七浦城  ○尼ヶ城 ○俵ヶ城 ○雀ヶ城 ○追之谷…天文の頃(1530年代)、北郷忠相が伊東家の臣が守る三石城を攻めた時の戦場。
○田原之上…山之口村にある。慶長5(1600)年、庄内の乱の時の戦場であった。


 
          勝岡郷
  
   ※土地の者はこの地を蓼池村と称している。地頭館は勝岡村にある。
概      要 備  考
<山水>
津ヶ尾山 地頭館の東南2里 樺山村にあって、東側は飫肥領に接している。
沖水川 水源は二か所あるがどちらも梶山から流れ出ている。下流は都城の郡本村を通る。
<神社>
諏訪神社 地頭館の東4町余 餅原村にあり、当郷の宗廟である。初めは都城の野之見谷村にあったが伊東氏の支配を離れた時に安永村に移し、さらに天文12(1543)年、地頭の和田越中守がこの地に遷宮せしめた。
神社合記 ○諏訪大明神社○若一王子権現社…両社とも樺山村にある。
<仏寺>
無量山
蓮乗院
長久寺
地頭館の南2町 勝岡村にある。大乗院の末寺で真言宗。開基年月等は未詳。
鶏足山
梁新寺
地頭館の北1町 勝岡村にある。福昌寺の末で曹洞宗。北郷氏第10代時久の四男久村が父時久のために建立した。時久の法名「月庭梁新庵主」から採った名である。
<旧跡」>
城址合記 ○古城…樺山村にある。道義公(島津家4代忠宗)の五男・資久が庄内に封ぜられ樺山の古城に居住したので姓とした。
○豊鷹丸城…勝岡村にある。天文の頃(1530〜40年)は伊東方の武将・海江田氏が、天正の頃(1550年代)は和田氏が、そして庄内の乱の慶長年間は伊集院如辰などが本拠とした。
○鶉ヶ城…勝岡村の飛び地にある。由来不明。
・和田氏…上記の諏訪神社を天文2年に遷宮した和田越中守のことか。

    
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