〜『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座〜


第九回  日向国 諸県郡 吉田郷・馬関田郷・加久藤郷

 <吉田郷>…
地頭館は内竪(東内竪)にある。吉田郷は「四国五郷」の境界を成している。
すなわち日向国・肥後国・大隅国・薩摩国の四国で、五郷とは馬関田郷・桑原郡・菱刈郡・伊佐郡・球磨郡である。このような郷は他にない。

概         要 備  考
<山 水>
山林合記 真幸院のうち、当郷はもっとも山林が広く、狩猟で生計を立てるものが多い。それでも東南には平地があり田園が広がっている。
千台川上流 当郷を流れる千台川上流は真幸川と呼ばれている。
吉田温泉 地頭館の北17町。昌明寺村にあり、官が湯守を一人置いている。湯の効能は万能だが、特に切り傷に著効がある。近郷は言うに及ばず、遠くは肥後からも湯治客がある。踊郷の塩浸し温泉に似た効能があるという。
 湯の権現社
を祀っている。ただし、権現社の祭神は不詳である。
踊郷…大隅国の国分地方にある郷。
湯の権現社…指宿の殿様湯の裏に同じ権現社があるが、祭神としてスクナヒコナとオオクニヌシを祀っている。
<神 社>
天満宮 地頭館の東北東10町にある。現在の宮司・境田新左エ門の祖先は伊予国出身だが、弘安4年(1281)の蒙古襲来に武功があった。その4世の孫・河野通安が明徳3年(1392)に薩摩の伊佐郡祁答院境田に居住したが、天神を崇敬すること篤く、ついに小社を祁答院に建てたという。その子の伊予守・通正の代に真幸院吉田に来住して北原氏に臣従し、境田姓を名乗った。 蒙古襲来…蒙古は文永11年(1274)と弘安4年(1281)の二回にわたって襲来したが、幕府軍はよくしのぎ、最終的にはどちらも暴風雨により蒙古軍は壊滅した。
<仏 寺>
南方山福智院
  観音寺
地頭館の北方約6町、昌明寺村にある。府下の大乗院の末で真言宗。天満宮の別当寺で、当郷の祈願所である。
寶涌山昌明寺 地頭館の北方約8町。飯野の長善寺の末で曹洞宗。当郷の菩提所である。
<旧 跡>
松尾城 地頭館の西北西約500b。城は四面が絶壁で天然の要害を形成している。初め北原氏の所領であったが、のち島津氏の軍門に降った。
弓場 地頭館の北にある。松齢公(17代・義弘)が菱刈を征伐するときに軍兵を集めた場所という。

            
 
<馬関田郷>地頭館は東村にある。建久8年(1197)の日向国図帳に「馬関田荘50丁在諸県郡内」とあり、地名の古さを物語っている。
「まぜきだ」と読むのだと思うがこの名勝図会では「まぐはんだ」(まかんだ)とルビが付いている。

概        要 備  考
<山 水>
千台川上流 当郷では「大川」と言っている。
澤原野池 地頭館の南、1里18町、岡本村にあり。加久藤郷に属する飯盛山(846b)の山腹にある。霧島四十八池の一つである。
<神 社>
天満大聖威徳
  天神宮
地頭館の北4町ばかりにある。祭神・菅原道真公。京都の北野天満宮、大宰府の天満宮とともに三天神と言われる。昔、道正という姓の者が京都より勧請したという。
高牟礼
六社権現社
地頭館の南南西30町余りの高牟礼村にある。天津児屋根・天照大神・斎主命・武御雷命の4神を祀る。
 当社は真幸院五社の一つで、ほかの四社は上の天神宮・白鳥神社・一之宮(飯野郷)・二之宮(加久藤郷)であるという。
 当神社の宮司職は往古より日下部氏の嫡職であったことを示す古文書が残されている。そもそも日下部氏は隼人族の一派であり、古来、真幸院の郡司を担当していたので、宮司職の日下部氏も同族であろう。
天津児屋根…天孫降臨の伴の一神で、藤原氏が始祖としている。
神社合記 ○幣田大明神社…柳水流村にある。 ○羽黒権現廟…島中村にある。出羽国から勧請したという。その時期は不詳。
<仏 寺>
花京山宮楽寺
威徳院
地頭館より北北西4町余にあり、天神宮の別当寺で真言宗。本府大乗院の末寺である。
王城山多福院
大円寺
東村の城山下にあり、飯野の曹洞宗長善寺の末。開基の年月は伝わらないが、境内に「馬関田右衛門督(うえもんのかみ)」の石塔と霊牌があり、それに「瑚庵玄珊大禅定門・天文十一年八月二十日」と記されているので、少なくとも天文11年(1542)には建立されていたことが分かる。 馬関田右衛門督…人名の馬関田は「まかんだ」より「まぜきだ」が読みとしては普通だろう。北原氏の一族と思われる。
阿弥陀堂 地頭館より東北東6町余、東村にあり。島津久林の菩提所。久林は居城の川辺郡平山城を去り、のちに北原氏を頼って加久藤の徳満城に入った。永享2年(1430)、島津忠国(第10代・大岳公)に討たれて自刃した。 島津久林…久林は「ひさもと」と読むか。島津一門だが何家流かは不明。
<旧 跡>
城山 地頭館の北側背後の岡の上にある。一書では「東福城」とある。城内には三区あり、亀之城・鶴ヶ城・多福城という。上述の大円寺を建立したらしい馬関田右衛門督が居城していた。
城跡合記 ○新城…東村にあり、北原氏の築城という。 ○見吉城…島中村にあり。
      
      
  <加久藤郷>・・・地頭館は中福良村の小田にある。往古、当地は「徳満」と言った。また加久藤という地名は城の名「加久藤城」に因むが、加久藤城はもと「久藤城」であった。

概      要 備  考
<山 水>
国見嶺 地頭館の北1里、西村に属す。肥後球磨領への往来の大道がこの山上を通過している。 国見嶺…現在では国見山で標高796m。
飯盛峯 地頭館の南方1里30町ばかり、長江浦村にあり。霧島群山の北麓にあり、里に近い独立峰である。 飯盛峯…現在では飯盛山で標高846m。
千台川上流 千台川上流のこの辺りは真幸川と呼ばれている。
出水川 水源は当郷の南・長江浦村の出水である。水源は林の中の田野にあり、湧水箇所はいくつかあって水勢は強い。湧水箇所の川中に岩があり、そこには弁才天が祀られている。
 性空上人の足跡があり、性空堂が建っている。
<居 室>
球磨口関 地頭館の南南西20町、榎田村牧の原にある。球磨領との往還の関所が設けられている。
<神 社>
二宮大明神社 地頭館の西南西23町、栗下村にある。最初は小社だったが慈眼公(18代島津家久)が加久藤城に誕生したので父・松齢公(17代義弘)の崇敬厚く、慈眼公本人も厚く敬い、慶長7年(1602)には神領30石を寄進し、さらに同14年(1609)社殿を造営した。当郷の総鎮守である。
神社合記 ○熊野権現社…中福良村にあり、天明3年(1783)には大信公(25代重豪)の、また寛政4年(1792)には大慈公(26代斉宣)の種々の寄進があった。 ○諏訪大明神社…長江浦村にあり、応永10年(1403)に大願主・式部丞・義兼の棟札が残存している。 ○稲荷神社…吉村にある。 ○山神祠…長江浦村・郷士宅地にある。古鞍三体と大鹿の角が祭られているが、松齢公より拝領と伝えている。 ○若宮…西郷村にある。天正2年(1574)大願主・藤原忠平造立の棟札がある。 式部丞・義兼…係累は不詳だが名に「兼」が付いているので肝付氏族・北原氏の誰かであろう。
藤原忠平
…島津義弘のこと。忠平は幼名。神社祈願の際には藤原姓を名乗ることが多い。
<仏 寺>
高連山福性院
二之宮寺
地頭館の南南西22町、栗下村の上記・二宮神社の後方にあり、神社の別当である。本府大乗院の末で真言宗。もと二宮神社には別当寺がなかったので、慈眼公が建立し、鹿児島文殊院の僧・果融法印を招いて開山させた。
光林山吉祥院
不動寺
地頭館の南2町余、中福良村にある。大乗院の末で真言宗。開基年月は不詳だが、かって北原氏の支配下にあった時、徳満城にあったのを現在地に遷したという。
 寺内に鶴寿丸君の祠堂がある。同君は松齢公の長子であるが、天正4年(1576)に8歳で夭折しており、当寺に埋葬したうえ霊牌を安置した。 不動寺は当郷の祈願所である。
瑞亀山徳泉寺 地頭館の西方3町、加久藤城址の搦め手口にある。飯野長善寺の末で曹洞宗。初め北原氏の菩提所として徳満城にあったが、北原氏没落後に今の地に遷した。 北原氏没落…北原兼幸が串良院から真幸院へ来住してから220年、14代目兼親の時、伊集院30町へ改易された。
聞法山日枝寺
三徳院
地頭館の南24町、栗下村にある。肥後国託麻郡湯田の聞法山光明院の住持・良音院が馬関田郷へ移り、新しく聞法山を加久藤に建立し、光明院を三徳院と改名して開基した寺である。第二世住持・真盛は松齢公に仕え、加持祈祷のほか木崎原の戦いでは隠密を働くなど戦功があった。
阿闍梨山
悉皆院彦山寺
地頭館の西北西30町、西村にあり。飯野郷の白鳥山満足寺の末で真言宗。
地蔵堂 地頭館の南、24町、栗下村にある。
<旧 跡>
加久藤城 地頭館の北6町半、中福良村にある。地頭館の後背の城山である。四面は絶壁で天険の要地となっている。
 北原氏没落後の永禄7年(1564)、松齢公が真幸院に入った時、飯野城が治所であったが、ここに城を築いた。初め久藤城、のちに加久藤城と名付けた。常には公の夫人をこの城に置き、公自身は飯野を居処とした。
 元亀3年(1572)5月、小林を発った伊東義祐軍は飯野城下をひそかに迂回して加久藤城を攻めたが、島津方は上述の三徳院住持・真盛の秘策により攻撃をかわしたあと、木崎原での決戦に勝利し、伊東氏の没落を決定づけた。
加久藤城…城代は一族の川上忠智。
徳満城 地頭館の西32町。往古の真幸院主・北原氏の西の守りの城であった。
 応永2年(1395)、当主・北原範兼はこの城に於いて、同盟を結んでいたはずの相良祐頼と口論となり、両者が差し違えるという事件を起こした。その子の久兼は恕翁公(7代島津元久)に和議し、それを背景に真幸院から相良氏勢を追い出すことに成功し、島津氏によって真幸院を安堵されたことがあった。
新城 地頭館の北7町余、中福良村小田にある。加久藤城の南に当たり、小さな流れを挟んだ小丘である。この城からは山野伝いに小さな道が直接飯野城まで続いている。
一本杉 地頭館の南22町、栗下村の本伝庵という小庵の址にある。加久藤城からも望まれる大樹で、朝鮮の役ではこの杉を旗印にして出陣した。同じ時、宥淳法印に一本杉の下に精舎を構えさせて法華経千部の読誦を行わせている。 朝鮮の役…文禄の役(文禄元年=1592年)では義弘とともに出陣した嫡男・久保が病没した。

     吉田郷・馬関田郷・加久藤郷の項、終わり            目次に戻る