『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

    
第7回 大隅国 曽於郡 敷根郷                  (H24.10.21)


 ※敷根郷は霧島市(旧国分市)の敷根地区にほぼ重なる範囲で、地頭館は敷根郵便局の辺りにあった。

概       要 備  考
<山  水>
諸山合記 上之段村に長野谷山・平尾山などがあり、狩猟の場所となっている。
高橋川 源流は上之段・福山牧野で、敷根麓で海に注ぐ。
若尊崎(岬) 地頭館の西18町にある小半島で、松林の中に若尊大明神を祭っている。祭神については不詳である。
 ここで採れる若尊石は築山に使われるそうで、遥か湾を越えて鹿児島本府からわざわざ採りに来るほどである。
築山…ここでは「仮山」と書いている。
 <神 社>
剱大明神社 地頭館の西3町、敷根村にある。祭神は韓国宇豆神社と同じ。本社の東北6,7町に釼巌と云う岩峰があり、別名「宇豆峯」ともいう。
 思うに、この岩峰を宇豆峯と呼ぶのは「韓国宇豆峯神社」に擬しているからではないか。
 当社は敷根の宗社と言うが、敷根氏が入部すると天満神社が宗社となった。しかし江戸時代の寛文10年(1670)11月9日、地頭・桂久武により、当社は敷根郷の総鎮守として旧に復した。
敷根氏…清和源氏の流れ土岐氏が祖。戦国時代に土岐国房が入部し、子の頼房になって敷根の地名を姓とした。
竪山大明神社 地頭館の東2里余り、上之段村にある。祭神は不明だが、元暦元年(1184)に熊谷宗直が陸奥国の桑井津から虚空蔵菩薩を持参してこちらに祀ったという。 熊谷宗直…武蔵国熊谷が出自の熊谷一族。ただし、熊谷直宗の誤記だろう。
神社合記 ○北辰社 ○天満天神社 ○飯富大明神社
<仏  寺>
福如山常光寺
 蓮持院
地頭館の東6町。本尊は愛染明王。鹿児島城下の大乗院の末寺。敷根村の祈願所である。
壽永山瑞慶寺 地頭館の北西50間にある。鹿児島城下の福昌寺の末寺で曹洞宗である。本堂には貫明公(16代島津義久)の位牌が安置されている。
薬師堂 地頭館の北東にあり。門倉薬師とも呼ばれている。此の御堂の創建が変わっている。
 由来を絡めて御堂の創建を調べると、・・・明国浙江省寧波府定海県出身のの董十八官という帰化人が建立した、という。創建年代は不明だが、董十八官の子孫・高石孫三郎という人物が敷根領主・備中守頼兼と天正4年(1576)12月に再建している。
<旧  跡>
長尾城 地頭館の東24町にあり、天険の山城である。
 当城は敷根氏の居城で、土岐国房が敷根を領有し、子の頼房の代に敷根を名乗った。14代頼賀の時代は戦国末期で肝付氏の侵攻を食い止め、島津氏の三州統一後の天正3(1575)年、貫明公(義久)により重富・帖佐に千石が与えられた。
 しかし太閤の九州征伐ののちは垂水の田上に移封された。
土岐国房…清和源氏源頼光の子孫。
頼賀…よりよし。慶長19(1614)年、垂水からさらに市成郷へ所変えとなる。
桂姫城 地頭館の東一里半、上之段村長野谷山と平尾山の中間にある。上古以来、桂姫の居城といっている。城址にはかつら樹があり、土根から何百もの枝が生えている。土地の者は「霊樹」であるとして伐採を禁じてきた。
 伝承に、神功皇后が三韓を征伐したときに桂姫も従軍して武功があったという。
触ヶ野 地頭館の東北東二里3町ばかり、上之段村にある。庄内の役の時に陣触れが行われ、狼煙を上げた場所であるという。

        
          福山郷 

   ※ 地頭館は廻村にある。

概      要 備  考
<山  水>
諸山合記  ○七桁山 ○大川内山 ○小椎八重山
湊 川  廻村にある。
<居  処>
福山野牧馬苑 地頭館の東15町余。
 廻村、嘉例川村、敷根・末吉・恒吉・牛根の4ヶ郷に係る大きな牧馬で、周囲10里34町24間に及ぶ本藩第一の馬苑である。馬数1200頭余りを飼養している。
 毎年秋八月、当村および近郷の農民をして2歳馬を捕えさせる。これを「馬追」という。本府からも役人を派遣し、役卒1万1千人余りを使って行う。広大な牧馬から馬を追い立てて「苙(おろ)」という囲いの中に追い込み、その中から優良な2歳馬だけを捕えて別の小さい苙(おろ)へ移す。
 この馬苑は貫明公の時に鹿屋郷の高牧野から馬を移して開始された。天正8(1580)年4月のことという。
○本藩良馬集説…「凡そ世界万国の内にて、皇国の馬は万国に卓越すといへること諸書に見えたり…」として推古紀に見える「馬ならば日向の駒」などを引用している。
 また、宇治川の先陣争いで有名になった名馬「池月」を引き合いに出してもいる。
<神  社>
正一位
宮浦大明神社
地頭館の東南1町余にあり、祭神が13座に及ぶ「式内社」であり、少なくとも800年代には鎮座していた。
 宝歴2(1752)年12月に正一位の宣下があった。当時の宮司・坂元盈富が上京し、神祇道管領の従二位卜部兼雄の執奏により朝廷から勅宣と官幣を賜っている。
 祭式は年中に7度あるが、正月25日が大祭で「神の的」という射法を行う。これは源三位頼政が宮中を悩ました鵺(ぬえ)を退治した故事に倣うものである。由来はかって頼政の子孫である兵庫太郎宗綱と云う者が当地を領有して下向し、歴代が廻城主となったが、厳島大明神を勧請してその射法を祭式の中で行っていたものの、大明神が廃されたのちに宮浦社に引き継がれたという。
諸宝物…剣二振。一は「金剛剣」、一は「獅子王」という。金剛剣は源三位頼政が内裏で鵺(ぬえ)を仕留めた剣だという。代々廻氏の家宝であったが、寛永13(1736)年、廻次郎兵衛頼次の代の時、当社へ奉納している。 
式内社…延喜式に掲載の全国約三千社の「官・国幣社」のことで、大隅国には宮浦神社の他に「鹿児島神社」「韓国宇豆峯神社」「大名持神社」「益救神社」があった。
・源三位頼政
…清和源氏。始祖である経基の7代目に当たる。治承4(1180)年5月、高倉天皇の兄・以仁王を奉じ平家追討の兵を挙げたことで知られる。
小松大明神社 地頭館の北北東二里余。佳例川村にある。当地の産土神だが祭神は清盛の長男・重盛である。 重盛…小松内大臣。小松殿と称された。
<仏  寺>
石上山平等院
不動寺
地頭館の東北東4町余りにある。大乗院の末寺で真言宗。開基の年月は不詳。当地の祈願所である。
永泰山大安寺 地頭館の東1町にある。上州碓氷郡の長源寺の末で曹洞宗。当時は肝付河内守兼久の創建で、初めは高山にあったが、第二世の包山樹心和尚が当村の大廻へ移した。
 移築の謂れは、永禄4(1561)年7月の廻城の戦いで戦死した島津忠将の位牌を安置して弔う為だという。「大安」はその忠将の法名である。また、共に戦死した従臣57名の位牌も安置してある。当村の菩提所である。
肝付兼久…肝付氏14代で1473年から1523年頃の領主。『西藩野史』では高山本城にいた、とある。
島津忠将…島津忠良の二男。16代貴久の弟。垂水島津家の始祖。
<旧  跡>
仁田尾城 地頭館の東北11町余にある山城。廻城ともいう。廻氏の居城である。
 廻氏は治承4(1180)に源三位頼政の孫である宗綱が当地に領地を与えられて下向し、廻氏を称したのが始まりである。同じ年に頼政と父である仲綱が平家打倒に挙兵したが、平等院の戦いに敗れ、両名共に戦死。仲綱の三子は流罪となり、その内の宗綱が当村に流されて来たのであった。世々を経て第15代久元は盲目であり、その子・頼貞も幼かったので、肝付兼続によって城を奪われてしまった。
 これを島津方が攻めたのだが、兼続に味方した垂水の伊地知重興祢寝重長軍勢の前に忠将は家来57名と共に戦死、憤激した兄・貴久と兄の子・義久が奮闘の末にようやく奪還した。
 島津帰城後は山田理安を地頭として治めさせた。
肝付兼続…肝付氏16代で正室は義久・忠将兄弟の姉である阿南(おなみ)。
・伊地知重興…垂水城主。根占領主の祢寝重長とは反島津で一致していた。戦国時代の12代島津忠昌の時、肝付氏と組んで鹿児島を攻めたことがあった。
大塚塁 地頭館の東北東一里余にある。今の福山牧の中、高い岡がそれである。仁田尾城とは深い谷を隔てている。永禄4年の戦いの時に大中公(貴久)・貫明公(義久)の陣営の跡である。
馬立塁 地頭館の東南10町余。島津右馬頭忠将の陣跡。
竹原山 地頭館の東南東27町余。仁田尾城の野首に続く丘。 野首…山城の城内に入る細い通路の部分。
島津右馬頭
忠将の墓
地頭館の東北東10町余。馬立坂の左手、敷石道に石の柵を設け、中に石塔を建ててある。
<叢  談>
廻邑詩歌 廻村を詠んだ詩歌。

島陰集】より
  小春十有一日、藤摂州と日州飫肥の幕に赴く。深更に及ん  で廻浦口に到る。而して僧院に投宿してこの詩をを作れり。
    東行二百里山川  廻浦城陰繋夜船
    両度寇来民半散  僧居雖窄借牀眠

【衆妙集】より
  細川幽斎
    はるばると 国をめぐりの里に来て
              西に入り江の 月を見る哉
・島陰集…儒学僧・桂菴玄樹の漢詩集。玄樹は山口の人。明への留学を経て忠昌の頃に薩摩へ到来し、伊敷に「東帰庵」を建て隠棲。墓もある。前書きの藤摂州は藤原惺窩のこと。
・細川幽斎
…秀吉に重用され、文禄の役の際の梅北の乱を裁定のため薩摩入りしている。その功で高隈に3千石を与えられた。古今伝授の歌人でもある。
山下駒右衛門
殺狼の記
福山牧に狼が出没し、馬を害することが多く、郷士・山下藤左衛門は数多くの狼を捕殺したのでこれが地頭に賞されて米2石を賜ったという。また名を「駒右衛門」に改めている。
農民仙五郎
孝行石碑
廻村重富門の名子・作十と云う者の二男・仙五郎は非常に孝行者で、母には特に孝養を尽くし、また体の不自由な兄の面倒も見ながら、諸役を怠りなくこなした―ということで地頭方にも聞こえ、褒美をもらっている。
 また文化7(1810)年には「孝行石碑」を刻んで建て、世にその至孝を永く伝えることにしたという。
 

         敷根郷・福山郷の項・終り                       目次に戻る