『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

      第9回 大隅国 姶羅郡 加治木郷
(2)          (H24.12.16)

      ※(1)では<加治木名の由来><山水><邑主館><神社><仏寺>と学び、最後の
       仏寺の項15ヶ寺のうち8ヶ寺を残していたので、今回はそこから開始した。

摘        要 備   考
松月山霊鷲院
本誓寺
 邑主館の東南10町余、段土村にある。京都知恩院の末寺で浄土宗。本尊・阿弥陀如来。脇侍に観音・勢至菩薩
 開山は運誉上人。島原の法然寺から八代の荘厳寺を経て天正13(1585)年9月15日、初めて松齢公(義弘)に見えた。同15年、肥後の光明寺から日向の飯野に至り、翌年、加治木に小庵を結んだ。3年後、栗野に願成寺を創建したが、文禄4(1595)年に帖佐に移している。翌慶長元年には鹿児島城下の不断光院に住し、その翌年、加治木上町の寺に永住した。ただ、慶長13(1608)年、本山知恩院から筑後の善導寺第22世を命ぜられ、3年間赴任している。のち、加治木本誓寺に帰任した。
○鎮守堂 ○松齢公御影堂 ○御腰掛松 ○楊梅 ○松齢公御短冊 ○什宝…松齢公の御枕槍。
本誓寺の本尊・脇侍…元々は菱刈郡湯之尾にあり、入来院氏に交渉して譲り受けて来た三尊であるという。
仏寺合記 ○護国山長楽寺普門院 ○定光山応住寺正観院 ○茂柏山真蔵院 
大日堂 邑主館の北北東13町、段土村にある。加治木中央の仏である。
観音堂  邑主館の東南14町、日木山村の黒川崎にある。加治木四方仏の一つで南仏。黒川観音ともいう。
 昔から加治木では紀州や奈良の仏神を多く勧請しており、修験の行者が本場に擬して修行遍歴していた。黒川観音は那智観音にあてられていた。
猪目地蔵堂  邑主館の北1里、小山田村の猪目にある。加治木邑主の第3代久季の嫡子・久連はこの地蔵堂(中央仏)を造立しようとしたが若死し、その室が遺志を継いで正徳2(1712)年8月28日に建立した。御堂の後ろに桜が一株あるが、ここには久連が邦内安全を祈願して修した「鳴弦の秘法」の際に用いた矢を四方と中央に埋めてある。桜はその標として植えられた。 鳴弦の秘法…源頼政が堀川天皇を悩ませた魔物(鵺=ぬえ)を鏑矢の音で退治した故事に倣ったもの。降魔の儀式である。
阿弥陀堂 邑主館の西17町、木田村堂之間にある。西方仏。
網掛地蔵  邑主館の南南西6町、網掛橋の西側にある。昔、漁師が網掛川の底から木造の地蔵をすくいあげてそこに安置した。しかし霊仏の評判が高く、本府に持って行かれた。あとには石の地蔵が代わりに置かれた。 ・網掛地蔵が本府で置かれた場所は後世「地蔵角」という地名になった。
東之木地蔵堂  邑主館から北東へ1里20町、小山田村東之木にある。創建年月は未詳。享保17(1732)年の棟札が残っている。その棟札によると、昔、帖佐に盗賊が入り、追いかけられてある納屋に逃げ込んだ。盗賊は一心にこの東之木地蔵に祈ったが、ついに捕えられ首を斬られた。ところが翌朝、見てみると盗賊の首ではなく地蔵の首だったという。霊験あらたかということで本府にも聞こえ、石屋真梁禅師が石で地蔵を刻み安置したという。 石屋真梁…第10代島津忠国の子。福昌寺の開山である。
毘沙門堂  邑主館の南南東9町、段土村にある。
<旧  跡>
加治木城  邑主館の北北東13町余、段土村にある。本城、古城とも呼ばれる。周回1里ほどの断崖上の城で、高さは60間もある。
 得仏公(忠久)が国に入ったころの城主は加治木八郎親平であった。加治木氏は本姓「大蔵」で、大蔵良長のとき子がいなかったので都落ちしてきた関白・藤原頼忠の第3子・経平が婿に入り加治木家を継いだ。親平は経平の八世に当たる。
 明応4(1495)年、加治木久平は島津氏に背き、敗れて阿多に流されて滅んだ。その後は伊地知重貞を地頭としたが、大永7(1527)年に背いたので梅岳君(島津忠良)が攻め滅ぼした。
 大翁公(勝久)はここで溝辺の肝付兼演を起用して加治木を与えた。しかし天文17(1547)年にはその兼演も島津氏に反旗を翻したが、伊集院忠朗に敗れた。しかし大中公(貴久)は同19年、再び許して加治木を与えている。
 この兼演からひ孫にあたる兼三まで4代続いたが、島津氏が太閤に敗れたのちの文禄4(1595)年、太閤検地により加治木、溝辺・竹子・嘉例川などが太閤方に押さえられ、石田三成の食邑となってしまった。そこで肝付家は薩摩の喜入に移封されることになった。
 だが、松齢公(義弘)の朝鮮の役における大活躍により、旧領は安堵された。
○栫城 ○樋廻砦
肝付兼演…肝付本家第12代兼忠の第3子・兼光が本家を離れ大崎に行き、次の兼固は溝辺に行き、兼演になって加治木を領有した。
 一時、島津氏に反したこともあったが、おおむね肝付本家とは対立関係のまま戦国時代を貫いたため、島津氏からは厚遇され、兼演は梅岳君の娘・於西を宛てがわれた。その子が兼盛である。兼盛の子・兼寛には子がなく、伊集院忠棟の子・兼三が養子に入り、喜入へ移封された。幕末の小松帯刀はその末裔である。
 向陣  邑主館の東南9町、段土村にある。
 大永7(1527)年、梅岳君(忠良)が加治木城を討った時、城主・伊地知重貞が敷いた陣跡。また後の天文18(1549)年に当時の城主・肝付兼演が祁答院・蒲生・菱刈氏らと組んで反旗を翻した時にもここに陣を構えたという。
黒川崎塁  邑主館の東南14町、日木山村にある。
 肝付兼演が背き、討ちに行った伊集院忠朗が築いた塁。
土器園塁  邑主館の東12町、日木山村にある。南北朝の頃、攻めて来た幕府方大将・畠山直顕が築いた塁で、当時の当主・道鑑公(貞久)の子・齢岳公(氏久)はよく退けた。
岩野原  邑主館の北北西1里、木田村にある。
 天文23(1554)年、蒲生・祁答院・入来院・菱刈氏が背き、加治木に攻め入ったが、当主・肝付兼盛は網掛川で防戦、救援の大中公(貴久)の弟・忠将軍により帖佐境の岩野原に追い詰め、撃退した。
城塁戦場等
の合記
○葛原塁 ○陣之尾 ○左箙(えびら) ○運之平
神馬屋敷  邑主館の北10町余、段土村にある。
 国分正八幡の神馬を養っていた加治木氏の屋敷のあった所で、陸田化している。松齢公(義弘)のとき、本城内に移したが、今は八幡宮の社人の管理下にある。
 ただ、祭事の時に神馬を曳いていく役は昔は士分の者が担当したが、今は段土村田中門の農民が行っている。
段土村田中門…(田中)門とは薩摩藩特有の農民支配の在郷組織で「門割(かどわり)制度」と呼ばれる。現在、神馬を担当しているのは木田村である。
銭屋市  邑主館の南南東3町余、段土村にある。
 昔、鋳銭所があった場所である。俗に加治木銭と呼ぶ。
札建  邑主館の北6町ばかり、段土村にある。
 この札立て場は昔、継子いじめに遭った加治木家の子が逃れてこの近くの井戸に身を投げて死んだ場所である。
・前回の「若宮大明神」の項を参照。
貫明公
御行館地
 邑主館の東13町余、段土村にある。
 国分城に居城の貫明公が当地へ光臨されたときに止宿された行館の跡地。加治木島津家初代・忠朗も同地に別業を建てて養老の地とした。
實窓寺川原  邑主館の西北西10町余、木田村にある。
 松齢公(義弘)逝去の際に13名の士がここで殉死した。天明5(1785)年になって加治木島津家第6代・久徴が石灯籠を造立し、灯明料を寺に出して供養の徴としている。
江夏友賢の墓…木田村の實窓寺墓地にある。友賢は明国江夏の人で帰化人。本姓は黄氏。初め川内に住しその後加治木にやって来た。易学の大家で、一翁禅師も友賢に学んでいる。
<物  産>
布帛類  ○紙子…紙製の衣類。当邑の名品である。
器用類  ○陶器…小山田村の高崎。松齢公(義弘)が慶長の役で連れ帰った朝鮮陶工・金海を加治木に住まわせ陶器を作らせた。
 また芳仲という陶工が開いたのが後に「龍門司焼」となって今に残っている。
金海…金官金氏の一族だろう。この系統は「竪野焼」と呼ばれ、御用窯であった。

       加治木郷(2)終わり                        講座の目次に戻る