〜『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座〜

第十回  大隅国 熊毛郡 種子島


種子島鹿児島城下より東南39里の海上にある。領主は種子島氏。領主館は西面村(現在の      西之表市)にある。

概        要 備  考
<総 説>
島名諸字  『日本書紀』に「多禰」、『続日本紀』に「多ネ(ころも偏に執)」とあり、どちらも「タネ」と読む。今、種子島と書くが、これが島名の本義に近い。 浦田大明神社の項を参照。
多ネ(ころも偏に執)  上古は今の屋久島と口永良部島とを併せて一国を成していた。大宝の頃、益救(屋久島)を併せ、益救・能満二郡を設置した。天平時代には島に熊毛郡・益救郡・能満郡の三郡があることが見えている。
 『日本後紀』によると天長元年(824)十月、タネ(種子島)国を廃止して大隅国に付属させた。この時郡も「熊毛郡」「馭謨郡」の二郡となった。
・馭謨郡…ゴムと読む。大隅国はこれ以前に最初の4郡(大隅・曽於・肝属・姶羅)に加えて桑原・菱刈が郡立していたので都合8郡になった。
南島の泛称 ・なんとうのはんしょう。南島の記事で日本書紀に登場するのは、天武天皇の8年(680)に、「倭馬飼部造・連を大使として多禰島に遣わした」とあるのが最初である。
古書抄 『続日本紀』…文武天皇の2年(698)夏4月に文忌寸・博勢ら8人を南島に派遣。同大宝2年(702)、薩摩・多禰に官吏を置く。同大宝3年(703)、タネ・ヤク・アマミ・トクらの貢献。…など。
島 主  中古、高野入道・野間入道・能満入道という者があった。また熊毛入道という者が種子島の主宰であったが、鎌倉幕府が開かれてより、種子島500町と大隅深河院150町、財部院100町合計750町が島津御荘(新荘)で、領家は近衛殿(地頭・尾張殿)であった。地頭の尾張殿とは北条時政の孫・名越時章に当たる。
 今の種子島氏の太祖・時信(入部後、信基と改名)は平行盛の子で平家が壇ノ浦で滅びた年に生まれ、難を遁れて北条時政の養子となり、本島に知行地を与えられ入部してきた。その5世孫の対馬守・頼時からは島津家に臣従するようになった。
 その後さらに8世孫の左近太夫・久時の代、文禄4年(1595)に封を知覧に移され、種子島は島津征久に与えられたが、5年後の慶長4年(1599)、再び久時は本島に復帰した。寛永9年(1632)、家久公により本島一円は種子島氏に安堵され、幕末に至っている。
・平行盛…清盛の弟・基盛の子。元暦2年(1185)3月24日の壇ノ浦の戦いで、大叔父の経盛・教盛、叔父の知盛などと共に戦死している。
・島津征久
…ゆきひさ。島津日新斎忠良の次男忠将の子。垂水島津家の2代目。
<山 水>
国見山  領主館の北2里。国上村にある。
馬毛島  領主館の西の海上5里。周囲3里弱、鹿が多い。
甲女川  水源は西面村の山中。
赤尾木港  領主館の西7町。港にアコウの古樹があるので地名となった。
浦田港  領主館の東北へ3里余。国上村。
山水合記  ○湊の川 ○才京川 ○安納川(以上は国上村) ○熊野浦・浜田浦…南北に連なる浦。熊野浦には熊野神社がある。○竹崎浦
<居 処>
蘆野牧  領主館の南へ3里余。住吉村安城にある。天和3年(1683)、島津氏20代綱貴(大玄公)が当主・種子島久時に牛馬5頭を与えたが、その後繁殖して馬50頭となる。
牧野合記  ○大町野牧
<神 社>
浦田
  大明神社
 領主館の北2里余。浦田港にある。祭神はウガヤフキアエズ命。島の宗廟である。
 伝説に、イザナギ・ナミ両神が最初に産んだ島が種子島であり、天孫のホホデミ命が竜宮城に長期間行った後、帰る時に5穀の種を求めて持ち帰り、この島に初めて耕収の道を教えた。その場所が浦田大明神のある「浦田」である、という。
熊野権現社  領主館の南8里余。由久村の熊野浦にある。祭神は熊野権現。
 当主・種子島幡時(はたとき)が寛正年間(1460年代)に建立したと伝えられている。
・種子島幡時…初代信基の9世孫。
神社合記  ○山神…国上村の3カ所に「奥山」「中山」「端山」があり、大樹が生えている。 ○宝満宮…茎永村にある。祭神はタマヨリヒメ。神田が一枚あり、そこで取れるコメは籾の色が赤い。他の田からの米を播いてもみな赤色になる。ここの籾が絶えたら島の北の浦田神社の籾をもらい、逆に浦田神社の籾が絶えたらここのを差し出すという。 ○真所八幡宮…中村真所にある。
<仏 寺>
 華蔵山
  慈遠寺
 領主館の西北西7町。京都本能寺・摂津尼崎の本興寺の末寺で法華宗。大同4年(809)の開基で、初めは律宗であったが、長享元年(1487)に法華宗に改宗された。当寺は島の祈願所である。
○梅樹 ○春日山 ○池之坊
 吉祥山
   本源寺
 領主館の西、1町。上記寺と同様、法華宗。
 龍華山
   大會寺
 領主館の西南9町余。西村にある。上記寺と同様、法華宗。応安年中(1370年前後)、種子島頼時(8代)の没後、菩提のため夫人が建立した。
<旧 跡>
袈裟掛松  領主館の南南東15町ほどの海辺にあり。島における法華宗の開祖・日典の墓がある。日典は初め律宗僧だったのだが、法華をよろこぶ首謀改宗者だったため、僧俗から嫌悪され、ついには餓死したという。
可惜経 あたらしきょう。領主館の南10里余、茎永村にある。種子島が法華経に改宗になった時、それまでの律宗の経典が全島から集められ、埋められた場所である。 ・改宗により不用になった経典(書物)がまとめて捨てられたのだが、俗に言う「焚書」に近い。
形 杉  領主館んも南10里余、茎永村にある。タマヨリヒメの御衣を染めた所という。
<叢 談>
鳥 銃  天文12年(1543)8月27日、当主・時堯(ときたか)の時、南蛮船が漂着し、船主ムラスサより鳥銃2丁が貢納された。翌年、再びやって来たとき、金兵衛清貞は製法を学び、新たに数十丁をこしらえた。島人の松下五郎三郎が伊豆に漂着し、海賊に襲われかかった際に、鳥銃で賊を数人撃ち倒したことから国中に広まった。
 中国の史書『経国雄略』などには「鳥銃は倭人から伝来した。十発中九つは命中し、飛んでいる鳥も撃ち落とすほどで<鳥銃>と名付けられた」という記述があり、日本の技術が逆に西方に広まったことが分かる。
 慶長年中の南島征伐の時も、南島の住民は鳥銃のことを知らず、「棒の先から火が出て人を倒す。何とも抵抗のしようがない。」と恐れられた。
・南蛮船…ポルトガル船のことで、門倉岬に漂着した。
金兵衛清貞…八板金兵衛。おそらく鍛冶師。娘の若狭を船主の妾に差し出して技術を習得し、大量に製造した。・慶長年中の南島征伐…慶長14年(1609)の「琉球征伐」のこと。


       (種子島の項・終り)                    
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