『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

     第3回 大隅国 国分郷Bおよび清水郷
      (H24.6.17)

    ※大隅国国分郷の最終回とあわせて清水郷までを学んだ。
     大隅国国分郷の地頭館は現在の国分小学校に、清水郷の地頭館は清水団地にあった。

国分之二 概       要 備   考
<旧 跡>
奈毛木神叢 なげきのもり。地頭館の西北西1里余りの内村にある。古今集では「奈牙木社」と書いている。祠があり「二之宮大明神」と言われる。祭神は蛭児(ヒルコ)
 昔、イザナギとイザナミが産んだが、三才になっても歩くことが出来なかったので天磐樟船で流したのが、ここに漂着したという。「なげき」とは児の足が立たななかったのを嘆いて捨てたことに因むという。
 漂着した磐樟船の樟が根付いて芽を出して大樹となったが、江戸時代の前期まではその枯れ木が残っていたという。
蛭児(ヒルコ)…古事記によればイザナギとイザナミが交わる時に女のイザナミの方から声をかけたので、かたわで生まれた、とある。現在は蛭児神社が建立されている。
気色神叢 けしきのもり。地頭館の西南西15町、曽小川村府中にある。千載集では「気色社」と書く。祠があり、祭神は天満自在天神という。
 地元の古老の話では、気色社はなげき社の枝であるという。
 また一説では、気色社は原天子(もとてんし)としての蛭児神を祭っていたが、誤って天満宮を祭ったともいう。
・原天子(もとてんし)…ヒルコを天子として待遇する考えもあったようである。
隼人城 地頭館の東7町。今は新城、鶴丸城とも言うが、隼人記に見える隼人城のことである。隼人の居城の後、曾の君の国衙のようになったとも云う。
 太閤検地によってこの周囲の5村は6,300石余と計上され石田三成に与えられたが、慶長4年(1599)、朝鮮の役の軍功により島津方へ還付された。慶長9年(1604)、富隈城に居城だった貫明公(島津義久)がこの城に移ったので、新城と言われるようになった。
・太閤検地…鹿児島藩領では文禄3・4年(1594・5)に石田三成・細川幽斎が中心となって実施された。その結果、薩摩国28万石余、大隅国17万石余、日向国諸縣郡12万石余と算出されている。
富之隈城 地頭館の西南西1里7町余。文禄4年(1595)、貫明公が修築して鹿児島城下より移り住んだ。
城営合記 ○隈之城及び笑(えみ)隈…内村にある。隈之城は八幡社の北東にある岡で、高いところを笑隈という。 ○生別府城…小浜村にある。樺山氏の祖・善久が居たことがある。 ○上井城…往古の隼人が使用していた城。上井村にある。 ○渡瀬陣営。
<叢  談
強張躍 ごうちょうおどり。貫明公(島津義久)の年回忌には必ずこの躍りを興行している。
 公が富之隈城に在城の時に始まったと云う。
強張躍…清水郷の項で由来が詳しく述べられている。

 

     清水郷(きよみずごう) 

概       要 備   考
<山 水>
諸山合記 ○田代峯 ○高峯 
大津川 上流は日当山。清水郷・日当山郷・国分郷の境界をなし、やがて国分郷に入る。
<神 社>
北辰大明神社  地頭館の東南6町余、弟子丸村にある。祭神は北斗星。往古、源平争乱の頃に勧請したという。
 社より北30間ばかりに入口の広さ5,6丈の洞窟があり、少し入ると洞が二つに分かれるが、どちらもその奥行きは測り知れないようだ。洞からは清泉が流れ出している。社司は谷口氏。
弓箭守公神社  地頭館の東2町、清水城の中にある。祭神は13座。頼朝公・得仏公(島津忠久)・丹後局、住吉神社4神、止上神社6神。清水城の鎮守として建立したものだが、勧請年月は不明である。
 諏方上下
   大明神社
 地頭館の南南西7町余、弟子丸村にある。往古、清水城主であった本田氏の時に造立したという。
智尾神社  地頭館の西8町、智尾山にある。祭神は熊野三所権現。往古この地を領有していた弟子丸氏が建久年間に建立したものである。 建久年間…1190年〜1199年。この8年に図田帳が作られ、今も基礎史料となっている。
神社合記 ○天満神社 ○若宮神社 ○小止上神社 
<仏 寺>
竹林山衆集院
  台明寺
 地頭館の東北東1里5町、山路村にある。国分彌勒院の末で天台宗。阿弥陀如来・観音・勢至の三尊は得仏公(島津忠久)の造立になる。
 この寺は天智天皇の勅願で建立されたという由緒を持つ。
 天皇が皇太子で筑紫へ下向の時、ここを訪れ、名産の青葉竹の貢納を求めたという。
 「台明寺文書」が世上著名であり、当寺の山中にみだりに入るのを禁じるもの、笛竹の貢納に関すること、読誦祈願のこと、寺院改修のこと、など150通もの文書が残されている。
○持仏堂 ○鐘楼並びに鐘銘…建仁2(1202)年、得仏公の造立である。 ○諸文書…長久4(1043)年の「国符」、天喜3(1055)年の「庁宣」など多数あり。 ○日吉山王社…上古はここの地主権現と称していた。 ○本地堂 ○浄水瀑 ○青葉竹林…日吉山王社の境内にある。青葉山と言っている。広さ三畝ほど、青葉笛竹を採るところである。 ○篠田…上古、神武天皇東征の時、矢竹を切り出したと伝える。
『笈埃随筆』…キュウアイズイヒツ。この書に「天智天皇が筑紫に6年滞在している間、九州を巡見し、大隅に来て笛竹を求めたところ、ここの青葉竹が葉のついたまま提供され、その良質なのを賞され、都へ献上するようになった…」というようなことが記載されている。
『笈埃随筆』…この書の筆者は百井塘雨(ひゃくいとうう)といい、京都の商家「万屋]のせがれであったが、兄に家督を任せ、諸国を旅して歩いた。
 九州の中でも日向には8年も滞在している。
 同じ頃の旅行家に橘南渓(『西遊記』の著者)がいるが、交流はあったようである。
仏頂山楞厳寺 りょうごんじ。地頭館の西南西4町にある。越前国の宅良慈眼寺の末寺で曹洞宗である。
 南北朝から室町時代にかけて清水領主だった本田氏が代々崇敬しているが、天文17(1548)年、本田の時に島津貴久方の軍門に降り、本田氏に代わって弟の右馬頭・忠将をここにあてがった。
 ところが忠将は13年後の福山廻城の戦いで戦死してしまったので、この寺に葬り菩提寺とした。
菊林山片岳寺  地頭館の南8町にある。上記楞厳寺の末寺である。
菊銘山真珠院
清水寺
 地頭館の南5町にある。鹿児島大乗院の末で真言宗。
 寺伝によると、坂上田村麻呂が伊勢に賊を退治に行った際、千手観音に祈願して首尾よく行ったので諸人の崇敬が篤くなり、大同2(807)年、京都に清水寺を建立したが、ますます崇敬が大きくなり、全国に千手観音の侵攻が広がった。この清水郷でも城内の山の上に堂を建てて千手観音を安置した。
<旧 跡>
清水城  地頭館の東2町余にある。一名、隈部城。天険の名城である。得仏公(島津忠久)の時代、本田貞親が大隅の守護代となりここに居住した。その後税所氏の所領となったが、南北朝時代後半に島津方に降り、再び本田氏(親治)を据えた。
 だが、天文年間に至り本田董親(ただちか)が謀反を起こしたが、その帰趨は明らかだった。
姫木城  地頭館の西、14,5町にある。 ○金吾石
智尾は高千穂の遺名  この辺りに「智尾」という地名があるのは、高千穂峰の麓だからで、高千穂の遺名であろう。
強張舞踊 ごうちょうおどり。貫明公(島津義久)が文禄の役後に鹿児島からここへ居城を移したが、翌年完成の時に公の面前で祝賀の踊りを催したが、清水郷の士衆だけは甲冑を着けて躍った。その姿が「強張である」ということで「強張躍り」と名付けられ、年々行われるようになった。 ・士躍り…鹿児島では他に高山・加世田・指宿の「坂田踊り」、栗野の「研ぎほし踊り」など多彩である。

   ※平成24年度 第3回 講座終わり                     目次に戻る