平成24年度
         『三国名勝図会』から学ぶ おおすみ歴史講座

第1回  大隅国・曽於郡・国分郷 @       (平成24年4月15日)

 国分は大隅国の国府のあった所である。大隅国の日向国(古日向国)からの分立は和銅6年(713年)で、曽於郡・大隅郡・肝属郡・姶羅郡の四郡から成っていた。
 国分郷(現在は霧島市に属する)の地頭館は旧舞鶴城の位置にあった。今は国分小学校が建っている。

概      要 備  考
<総  説>
曽於郡の古称 日本書紀などに「襲」「曽」とあるが、現在は「曽於」と書く。「曽国」とあるのは日向・大隅・薩摩の総称であり、今の曽於郡は古来からの遺称である。 ・曽於は佳字二文字で表したもの。
<国分の一> 当邑は東国分郷と西国分郷に敷根郷の持留村を併せた領域である。地頭館は上小川村にある。
国分は国府 大隅国建国(和銅6=713年)以来、ここに国府があったので名付けられた。ただ国府ではなく「国分」としたのは、ここに「国分寺」があったためだろう。
 国分は曽於郡と桑原郡にまたがっているが、国府所在地は曽於郡に属している。
・国分を流れる「天降川」(旧名:大津川)の東が曽於郡で西側は桑原郡になっている。
<山  水>
大津川 現在の天降川のこと。広瀬川ともいい、河口から2里の日当山の辺りまで船が行き来した。
拍子川 水源は隼人城の岩間で、福島村を流れ、小村で海に注ぐ。
村民の言い伝えによると、景行天皇の時代、大人の隼人は大逆無道の行いで、隼人城・上井城に立てこもって王命に従わなかった。景行天皇は副将にヤマトタケルを引き連れて攻めたが、戦運利あらずして一計を案じ、河原で神楽を演奏した。
 するとその拍子に釣られて隼人が姿を見せたので、ある橋に差し掛かったところで隼人を誅殺した。そこを「拍子橋」と言っている。
 また元正天皇の養老4年(720)に隼人が反乱を起こしたが、大伴旅人を持節大将軍として征討に向かわせた。
○放生会…隼人征討に当たっては宇佐八幡宮に神助を祈願したところ官軍の勝利となった。その後八幡神託により、諸国に「放生会」を施行させることにした。
・放生会…知らず知らず無意味な殺生をしてしまう人間だが、その罪滅ぼしの意味を込めて仏寺などで行われるようになった儀式。
 その淵源は隼人への慰霊である。
河川合記 ○上井川 ○鼻面川…大津川(天降川)の支流。
気色の浜 地頭館の西南西1里7町(約4、7`)にある海浜。一名では「住吉神社」の森であるという。
 気色の浜は和歌にも詠まれている。次のは後九条院の詠んだ和歌である。
   かわり行く 気色の浜の 夕烟(ゆうけむり)
        たが深き江に 又霞むらん
住吉神社…旧隼人町の天降川河口住吉にある。
神造島 地頭館の西南1里半(6`)の海中にある島。三島から成っていたが平島は後に海に沈んだ。その上に「大穴持神社」があったが、沈んだため今は小村に鎮座している。
 『続日本紀』によれば、天平宝字8年(764)12月に「鹿児島信爾村の海に三つの島ができた」とある。これが神造島で、宝亀9年(778)には「大穴持という」との記述があり、島が出来てから14年後には「大穴持神社」が創建されていたことが分かる。
大穴持神社・・・国分の広瀬に鎮座。創建が正史に載るのは珍しい。しかも778年は古い。大抵の神社の創建は伝承でしかない。
温 泉 地頭館の北北西へ1里ほど。内村の大津川(天降川)沿いにある。疥癬や癪に良い。 今日の日当山温泉のこと。
<神  社>
鹿児島神社 地頭館の西北西約1里。内村にある。「正宮」とも称される。今は「正八幡宮」という。
 祭神は彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)・応神天皇・仲哀天皇・神功皇后。『延喜式・神名式』に「大隅国桑原郡一座。鹿児島神社」と載せてあるのはこの神社である。初めはホホデミノミコト一座であり、神武天皇の勧請と言う。『石清水伝記』に「鹿児島神社、ヒコホホデミミコトなり」。また『神祇抄』には「大隅国正八幡はホホデミノミコトなり。宇佐八幡とは同じからず」とある。
 今の正宮は和銅元年(708)の建立で、それ以前は石体宮の地が宮床であった。社家の説では石体宮をホホデミノミコトの山陵とするが正しいという証拠がない。
 『和漢三才図会』に当社のことを「八流之幡顕座、最初垂迹之地也」(八本の幡が顕示され、ここがその最初の地である)と言っている。
 社家は永和の頃(1375〜9)、北村氏であったが、今は桑幡・留守・澤・最勝寺の4家が務めている。
 別当寺は彌勒院。今(天保時代)の社領は高763石。
 鹿児島神社と言う名の由来は、@ホホデミが海宮に行ったときに乗ったという「無目籠」(まなしのかご)からという説 A当地に多く生息していた鹿に由来する―の二説に分かれている。
石体宮…鹿児島神社の北東3町のうっそうとした森の中にある。地元では神体の石は地軸に繋がっている、と言われている。
神宝…潮満玉・潮涸玉を言う。
隼人狗…神社の宝物殿にある。地元では「御獅子」と言っている。
四所宮…祭神は大御前・若宮・若姫・宇禮姫。
武内宮
三之社…本社の東二町ばかりにあり、祭神は磯良豊姫・香取大明神。『宇佐縁起』には磯童は海神の子でアズミノイソラで、トヨタマヒメは神功皇后の妹という。
ヒコホホデミノミコト…天孫降臨したのがニニギノミコトで、その子がホホデミノミコト。母はカムアタツヒメ(コノハナサクヤヒメ)。山幸彦。兄がホスセリミコトで隼人の租とされる海幸彦。
大穴持神社 地頭館の南南西にある。祭神はオオナムチノミコト。別殿にスクナヒコナと大歳神(オオトシノ神)を祭る。
 上の「神造島」にあるように、天平宝治8年(764)に島が湧出してから、14年後の宝亀9年(778)、今の海岸に近い場所に再建された。それ以前は三島の内で真っ平らな小さな島に鎮座していたのである。
<附:古事記> 今年は古事記が選録されてちょうど1300年。古事記は日本最古の史書であり、歴史物語でもあるので、三国名勝図会に並行して南九州と関連有りそうな記述を取り上げて学ぶことにした。
上巻・序(成立) 『古事記』は太安万侶が和銅4年(711)9月、元明天皇の勅命をうけ、帝紀および旧辞の誤謬を正しつつ上中下三巻に撰録したもので、日本の歴史始まって以来最初の史書ということが出来る。完成は翌5年(712)1月18日であった。
 稗田阿礼が原本を暗唱して読む「勅語の旧辞」を撰録したのだが、上古は言意が朴訥で文章にするのは大変であった。で通じる個所はそのまま、だけで書き連ねたのは長々しくなってしまうので、訓と音を交えて記すことにした。
帝紀…「帝皇の日嗣」つまり天皇の系図を中心に記されたもの。
旧辞…「先代の旧辞」つまり天皇に係わる昔の出来事を記したもの。
訓と音…訓は「天地(あめつち)」のような意味のある漢字を対応させたもの。音は「阿米都致」(あめつち)のように漢字を音として借りただけのもの。
太安万侶 太安万侶は古事記の「綏靖天皇紀」によれば、神武天皇の大和平定後のあとに正妃としたイスケヨリヒメとの間の皇子3子のうち長男のカムヤイミミ(神八耳)の子孫である。 太安万侶の墓が奈良市此瀬町の茶畑で見つかった。中にあった墓碑銘(墓誌)によれば、養老7(723)年7月7日に死んでいるが、実在の人物であったことが明瞭になった。

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