平成24年度
         『三国名勝図会』から学ぶ おおすみ歴史講座

   第2回  大隅国  国分郷 A

※国分郷の2回目。今回は神社「韓国宇豆峯神社」から仏寺「国分寺」までを学ぶ。
地頭館は現在の国分小学校にあった。

<神 社> (第1回、神社の続き)
韓国宇豆峯神社 からくにうづのみねじんじゃ。地頭館の東南東1里3町の上井村にある。
 社家の伝えでは春日大明神・ホホデミ尊・若宮八幡を祭る。「延喜式」に、大隅国曽於郡・韓国宇豆峯神社と記載されている。「宇佐記」ではからくにを「辛国」としている。
 当神社は大隅国五社のひとつである。「宇佐記」によると欽明天皇時代に宇佐の菱形池で社司の大神比義という人物の前に三歳の童子が出現し、「我は応神天皇である」と言ったという。
 ここは昔から「韓国城」と言われ、韓神に由縁があった場所であるから、祭神は「五十猛命韓神曽富理神」の三座が正しいだろう。神功皇后の昔に「三韓征伐」を行い次の応神天皇の代には三韓との通交が滞りなかったがゆえに、天皇を異賊調伏の神として祭ったのだろうか。
 社家伝のような祭神が祀られた理由は不明である。
 後世の見識者の解明を期待したい。
・五十猛命…イソタケル命。父のスサノヲとともに韓半島に渡ったが、永住の地ではないと帰って来た。その際に樹の種を持参し、日本中に播いて緑化したという伝承がある。和歌山県の伊太祁曽神社に祭られている。
・韓神…からかみ。文字通り韓を祭る神。
・曽富理神…そふりのかみ。韓国の首都「ソウル」と同義と思われる。フリはフルで沸流(百済始祖の兄)・負児嶽(南漢山)・夫里(町)などが『三国史記』に見える。
早鈴神社 地頭館の西南西2里、小浜村にある。祭神は天照大神。相殿にニニギ尊以下天孫降臨の五伴緒など12神。「早鈴」とは伊勢大神宮の別名を折鈴(さくすず)五十鈴宮と言うことから来たものであろう。
 慶長9年(1604)の大干ばつの時、17代島津義久公が歌二首をよんで奉納したところ、即日の雨となり、干ばつが解消したという。
・五伴緒…いつとものお。ニニギノミコトの天孫降臨に従がった神々。天児屋根命・布玉命・天宇受売命・伊斯許理度売命・玉祖命の五神。
住吉一之宮
    稲荷神社
地頭館の西南西1里余り、住吉村富隈御城の跡にある。住吉神、一之宮神・稲荷神三座を祭る。昔この辺りを住吉崎と言ったので最初は住吉神社だけであったのだが、一之宮(祭神・島津初代得仏公)と稲荷を併せ祀った。
枝之宮 えだのみや。地頭館の西18町(約2`)、野口村にある。祭神不詳だが、日本武尊が討伐した大隅隼人の四肢をここに埋納した故、枝之宮という名が付いたとも云われる。 ・大隅隼人…ヤマトタケルが征伐したとされるのは熊曽タケルであり、隼人ではない。
 大隅隼人の初見は天武11年(682)7月条である。
高塚山神廟 地頭館の東南2里、下井村にある。
 貫明公(17代義久)が富隈城に在城の時、崇敬し、和歌を奉納している。山口・中山・奥山を詠題とした三首が残る。
 <山口>
   梓弓春のとなりに咲き初めて
              山口しるくにほふ梅が香
 <中山>
   白雪のふりつもりたる中山に
              わけつゝ入るや鹿の子いもり子
 <奥山>
   奥山に跡たれてます神垣も
              心やなびくやまとことの葉
・神廟…「廟」とは天子など最高に高貴な素性の人の奥津城を意味するが、神が冠せられる廟というのは稀である。高塚山は寺院の「山号」ではなく実際に山状に盛り土された塚、即ち「古墳」ではないかと思われる。誰を祭ったかのヒントが<中山>詠の「鹿の子」ではないか。「鹿の子」とは「カコ」つまり海の民のことである。
守君神社 地頭館の西13町、曽小川村の府中にある。祭神はイザナギ・イザナミ両尊。創建由来は不明だが、大隅国の総社である。 ・守君神社…現在は守公神社になっている。
久満崎神社 地頭館の東南東22町、上小川村にある。祭神は大山祇神。往古は国分の宗廟であったが、慶長年間に貫明公(17代義久)が伊勢大神宮を新城の麓に建て総鎮守としたので、こちらは「産土神」に格下げになった。
 とは言っても、南北朝時代の永徳2年(1382)には33町余の寄進があったほどの大社であった。
久満崎神社…現在もそのまま残るが、祭神については「隼人の神」とだけ記す。
神社合記 ○稲荷社 ○熊野権現社 ○諏訪社 ○乙宮権現廟 ○八龍権現社 ○龍王宮 ○八幡宮
<仏 寺>
鷲峯山霊鷲山寺
彌勒院
地頭館より西北西へ1里半、鹿児島正八幡宮の鳥居の内側にある。正宮の別当寺である。武蔵国東叡山(天台宗)の末寺。性空上人が鹿児島にやって来たのが応和の頃(960年代)で、当寺もそのころの建立と思われる。寺領300石。
○彌勒堂 ○十躰堂 ○白鷺池・弁財天宮
霊鷲山正興寺 地頭館の西北西、31町。内村にある。京都五山建仁寺の末寺である。開山は仏智円応禅師。天文16年(1547)、十刹の列に加える旨の「綸旨」と足利将軍義輝の書簡が蔵収されている。
○山門 ○十境
仏智円応禅師…1252年〜1331年。肥前生まれ。円覚寺・建長寺の住持を勤めた。
梅霊山無量壽院
正国寺
地頭館の西南西1里余り、内山田村にある。西大寺の末寺であるが、亀山天皇の時に元寇があり、その時に詔勅で逆徒征伐を祈願して、諸国に「正国寺」を建てさせた、というが、諸国に亀山天皇の勅願所があったということは聞いたことが無い。
○宝物…亀山天皇宸筆の般若心経。後小松天皇の宸翰。弘法大師筆の弁財天像。雪舟筆の天照大神像。…など。
亀山天皇…第90代。南北朝時代に入る直前の天皇。亀山天皇が諸国に「正国寺」を建てさせたという事績は無いようである。
宝来山成菩提院
  正高寺
地頭館の西北西へおよそ1里、内山田村にある。本府大乗院の末寺で真言宗。
大平山国分寺 地頭館の南西40歩にある。当寺は聖武天皇の勅願で諸国に建てさせた「国分寺」「国分尼寺」のひとつで、天平11年(739)に建立されたと思われる。
 行基菩薩を開山とし、行基自作の聖観音像(木座像。丈は3b50aほど)だが、歳月につれて荒廃し、天文年中(1530年代)に国分清水村の楞厳寺(曹洞宗)の代春和尚が再興して楞厳寺の末寺となった。
 今(天保年間)や寺は主僧ひとりだけの草庵になってしまったが、回国修行僧の納経所であるため参詣者が絶えることはない。
 観音堂の横に五重塔があるが銘に「康治元年(1142)11月6日」とあることから、少なくとも700年の歴史はあるということになる。さらに天平年間の創建から数えると1200年近くの歴史を刻んでいる。
○薬師堂 
仏宇合記 ○文明山龍昌寺 ○五峯山龍護院金剛寺並びに花尾権現社
○鷲峯山勧持院遠寿寺 ○海雲山安舟軒 ○鹿岳山淵龍院
○安骨山徳持庵 ○和光山見隆寺 ○富隈山心王院童蓮寺
○獅子尾山正福院観音寺 ○笑隈山正行寺 ○補陀落山正護寺密常院 ○仏光山正行院常念寺 ○成等山無量壽院正覚寺 ○原照山法禅寺

 
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