『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

  第4回  大隅国 曽於郡之一(1)         (H24.7.15)


 これまで3回(4月・5月・6月)にわたり、すでに曽於郡については『三国名勝図会』巻31・32で国分郷・清水郷などを学んできたが、続く巻33で改めて「曽於郡」が記述されるのは順序が逆のように思われる。しかし、この巻33の「曽於郡之一」は結局のところ<高千穂峰>と<霧島山>についてだけしか書かれていないことが分かる。
 幕末に盛んになった国学の内でも皇国史観的な歴史の見直しが特に盛んとなったが故、天孫降臨の霊地である高千穂・霧島についてこのように多量の筆を走らせる結果になったのであろう。
 明治以降に国分が襲山村と命名されたことがあったが、その由来は霧島山系が「曽の峯」と呼ばれたからであることがよく分かる。
 曽於郷と川北村を併せて地頭が置かれた。その地頭館は重久村にある。

 <山  水> 概      要 備   考
襲之高千穂
   ?日二上峯

(?は木偏に患)
・そのたかちほのくしひのふたかみのみね。
 日向国諸縣郡と大隅国曽於郡に跨った山岳で、常に霧島山という。
 古事記・日本書紀に見える「筑紫日向襲之高千穂くし日二上峯」とある。太古の昔、皇国開闢の初めに天照大神の皇孫・ニニギノミコトが天上より初めて降臨された皇国第一の霊岳である。
 『日本書紀』では概略
「天上から真床追衾に包まれて降臨したのがニニギノミコトで場所は日向の襲の高千穂峯であった。その様子は、二上峯に架かる天浮橋から平らな所に降り立った。その後、膂宍の空国を頓丘から国を求めて行き、ついに吾田長屋笠狭之岬に到った。
 そこで事勝国勝長狭という首長と出会い、都をつくるべき良い場所を訪ねたところ、「どうぞ、どこへなりとおつくり下さい」と受け入れられ宮を建てた。」
 というストーリーになっている。
 【高千穂の名義
 「高」は崇高秀出の義。千穂は皇孫天降りのとき、稲を千穂播いて明るくした、ということに基づく。

霧島山の名称
 『旧事大成経』では「切嶼山」と書いて「きりしまやま」と読ませるが、これは東霧島神社(高城郷)にある<イザナミ命が火の神カグツチを生んだ時に火に焼かれて死んだのを怒ったイザナギ命がカグツチを切った証拠の大石>に因んでそう書いたのだろう。
 それより霧島山の周囲は水に恵まれているため、寒暖の差により霧がよく発生するが、そのことから「霧の山」に「島」(雲海に浮かぶ様子)を付けて「霧島山」と名付けたとみたい。
 「霧島」が史料に現れる最初は『続日本後紀』の承和4年(837)であり、そこには「霧島岑神、預官社」(霧島の岑の神、官社に預かる。」とある。
 また『続日本紀』桓武天皇の延暦7年(788)では「火を曽の峯に発す」と、まだ霧島ではなく曽を使用している。
 したがって、曽から霧島への通称の転換は788年から837年の約50年の間に行われたことになる。

○天の逆矛
 あまのさかほこ。矛峯(現在の高千穂峰=1594b)の頂に現存する。この逆矛は高原郷の錫杖院の管理するところである。
 思うにこの矛はオオナムチ命がニニギノミコトに授けた広矛であろう。
 オオナムチは「私はこの矛で世を治めることが出来た。天孫もこの矛を用いれば、必ず国を平安のうちに治めることが出来るでしょう」と言って渡したのである。

西峯発火
 現在の新燃岳は古来より噴火を繰り返してきたが、記録に残るもので天保年間までに13回あった。
1、桓武天皇の延暦7年(788年)…『続日本紀』
 <秋7月己酉、太宰府言す、去る3月4日、戌の時、大隅国曽於郡曽の峯の上に当たりて、火炎大いにあがり、響くこと雷動のごとし。亥の時におよんで火光やや止みて、ただ、黒煙を見るのみ。然る後、沙を雨のごとく降らし、峯の下5、6里は沙の積もること2丈なるべし。その色たるや黒し…>
2、鳥羽天皇の天永3年(1112年)
3、四条天皇の文暦元年(1234年)
4、後奈良天皇の天文23年(1554年)
5、正親町天皇の永禄9年(1566年)
6、 〃  天皇の天正4〜5年(1576〜1577年)
7、後陽成天皇の慶長3〜5年(1598〜1600年)
8、後水尾天皇の元和3〜4年(1659〜1660年)
9、後西院天皇の万治2〜寛文元年(1662〜1663年)
10、〃天皇の寛文2年〜霊元天皇の寛文4年
11、中御門天皇の享保元年(1716年)
12、 〃天皇の享保2年(1717年)

13、後桃園天皇の明和8〜9年(1771〜1772年)
・ニニギノミコト…漢字では「天津彦火瓊々杵尊」だが、ここではニニギノミコトで通したい。
・膂宍の空国
…そじしのむなしくに。ソジシは猪の背の肉のことで、全体として「猪の背中の肉が僅かしか無いように、産物とて何もない様な空っぽの国」と解釈し、南九州の窮乏した様を表現した言い方とされる。
・稲を千穂播いて
…「日向国風土記逸文」の臼杵郡智舗郷の条に記載がある。<稲千穂を播いたら>云々をニニギに勧めたのは土豪の大鉗と小鉗であったという。
『続日本後紀』…しょくにほんこうき。平安時代半ばまでに編纂された「六国史」の第4番目の国史。
 因みに成立年を掲げる。
1、日本書紀(720年成立)
2、続日本紀(794年)
3、日本後紀(819年)
4、続日本後紀(855年)
5、日本文徳天皇実録
         (879年)
6、日本三代実録
         (901年)








  
・西峯発火
…西峯とは、図会の編纂者によれば「高千穂峰の西1里余にある高峰で韓国岳を指す」というように書くが、1里だと新燃岳が該当する。
 また「発火」とは「噴火」のことで、江戸時代には「噴火」という用語はなかったのである。
・新燃岳の噴火…平成23年1月26日の午後、大噴火があり、風下の都城市に多量の灰を降らせたことは記憶に新しい。
 『三国名勝図会』に載せる大噴火は左記の本文概要の通りだが、中でも1の桓武天皇時代、11、12の中御門天皇時代の噴火は大変なものであった。
 1では山麓の5,6里まで火山灰が2丈(6メートル)も積もったとしている。
また11、12は割注を入れ、山麓の寺社が悉く焼けたことや、遠く諸縣郡内の田畑13万6300余筆(枚)が降灰の被害を受けている。
 
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