『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

     第8回 大隅国 姶羅郡 加治木郷
(1)          (H24.11.18)

    ※鹿児島城下から5里半のところに所在する。寛永8(1631)年9月、慈眼公(19代家久)が二男の
     兵庫頭忠朗(ただあき)に当郷を与えた。邑主館は段土村にある。(注)ここでは邑主館をすべて
     「領主館」と記載してある。

概        要 備   考
<総  説>
加治木得名
 の由来
 加治木の名は天盤樟(アメノイワクス)船の舵(かじ)に由来する。太古に蛭児の乗った船がここに漂着し、その船の舵からヒコばえが生じて樟の大木となった。これを「舵の木」と言い「加治木」地名となったのである。舵はまた「柁」とも書き、いま「加治木城」を「柁城」として「だじょう」という場合がある。 ・蛭児…国分郷の蛭児神社の項を参照。
<山  水>
蔵王嶽  領主館の東北11町、日木山村にある。四面は皆絶壁の岩峰である。高さ数十丈。 現在も同じ山名で、標高158m。
五老峯  領主館の西14町余、木田村にある。五つの峰が連なっている。南の岩峰は双耳峰で、山頂には高さ3丈5尺の大岩がある。
諸山合記  ○西別府山 ○金嶽 ○黒川山
黒 川  水源は溝辺郷。日木山村を流れて海に入るので日木山川ともいう。河口は黒川岬。
 第三代加治木領主・島津兵庫久季(ひさすえ)は河岸に桜を植栽させ、桜川と改名した。川の東岸には黒川山が海に向かって聳え、かっては良港であった。風景佳勝で山水画のようである。
 第六代久徴(ひさあき)はこの景勝を大いに愛で、碑文(「黒川記」)にして建てている。寛政13(1801)年2月のことである。
・加治木領主…加治木島津家のこと。1万8千石。藩主島津家久の二男・忠朗が初代。忠朗ー久薫ー久季ー久門ー久方−・・・と続く。
 5代目の久方は本家を継ぎ重豪(26代)となっている。
猪目野  領主館の北1里5町。小山田村にある眺望のよい原野。
網掛川  源流は二流あるが、東の方の崎森川と有川とは合流して「龍門の滝」となって落ちている。また西側の源流は山王川で、こちらは獺?(しんにょうに更)滝(うそぬきのたき)となる。
 「網掛」という名は、昔、漁師が海で地蔵菩薩の像を網に掛けたことに由来する。河口は加治木港となり、大隅の桑原郡・菱刈郡、日向の諸県郡・真幸院などの諸地方の人びとが鹿児島城下に所用の時、この港を経由して行く。すこぶる賑わっている。
 天文23(1554)年、蒲生氏・祁答院氏・入来院氏が連合で加治木を攻めたが、時の城主・肝付氏はこの網掛川で勝利している。
・蒲生氏・祁答院氏・入来院氏…蒲生氏は平姓、後者の2氏は藤原姓で澁谷氏の一族。それぞれの荘官となり土豪化した。肝付氏は高山本家の分流だが、大崎・溝辺を経て加治木城主。
澪 標  みおつくし。当郷の海中にある船路表示の杭。水深を示す。古代から摂津・出雲・大隅の澪標は有名であった。
上別府川  水源は帖佐郷にある。当郷と帖佐郷の境をなす川である。
春日川原  領主館の北西11町、木田村にある。清流で鮎がよく獲れる。
梅ヶ谷  領主館の北東13町、日木山村にある。蔵王嶽の西麓で清水が湧出している。近衛信輔公が都落ちして大隅に来たとき、この清水を硯水に使い「鴨川の水に譲らず」と称賛された。
龍門瀑布  領主館の北19町、小山田村にある。網掛川の上流と中流とを区切る高さ24間、幅10間余の滝で、壮観である。
 昔、唐土の人が当郷に来た折にこの滝を目にし「漢土の龍門の滝を見るようだ」と称賛したのでその名が付けられたという。
○橘三渓『西遊記』…諸国漫遊中に見た滝では一番と激賞している。
布引瀑布  領主館の北北東11町。当郷の古城の山上から落ちている。高さ60間あり、一筋の布のように見える。 古城…加治木城。網掛川と黒川の間にそびえる山城。大蔵姓加治木氏の築城という。
獺?瀑  うそぬきの滝。領主館の北北西16町、木田村にある。網掛川の支流・山王川の途中にある。高さ60間、幅2間。 ・現在は宇曽ノ木発電所が水を採取している。
<居  処>
邑主館  ゆうしゅかん。加治木島津家領主館。段土村にある。慶長12(1607)年11月、松齢公(18代義弘)がこの地に館を建て帖佐平松から移って来た。公は12年後の元和5(1619)年7月21日ここで逝去した。
 東半分(1町四方)を中丸・東丸と号し、松齢公自身の館跡で、今は柵のある松林になっている。西半分が今の邑主館である。土地の者は「」と呼んでいる。
…館(やかた)と呼ばず城と呼ぶのは、義弘が大隅守として本家18代の当主となった経緯があるからだろう。
牧馬苑  領主館の西北西3里、西別府村にある。松齢公(義弘)の愛馬・膝突栗毛(ひざつきくりげ)もこの牧馬の産だという。
是枝氏並びに
曾木氏の門
 是枝氏の門は国分富隈城の後門だったもので、貫明公(17代義久)から是枝存忠坊へ下賜された。また、曾木氏の門は松齢公が飯野城に在城のおりに大手門だったもので、時の主・曾木播磨重公に下賜された。 ・兄の義久は富隈城から国分城を経て本府へ、弟の義弘は飯野城−帖佐城−加治木と移動した
<神  社>
春日大明神社  領主館の北北西9町余、高井田村にある。祭神は天児屋根命・建御雷命・斎主命・姫大神。
 一条天皇の寛弘3(1006)年、藤原頼忠の第三子・経平がこの地に配流され、加治木郡司の大蔵大夫良長の婿となって加治木家を継いだ。その時に奈良の春日大社を勧請したものである。
 太閤秀吉の時代に寺社陥落の目を見て廃絶したが、慶長10(1605)年、貫明公(17代義久)が御再興になった。別当は春日寺。
 ○末社…山王二十一社・雨之宮・荒人社・若宮大明神社 
・藤原頼忠…藤原北家(始祖は房前)。房前の8世孫。関白・太政大臣。大伯父に菅原道真を追い落とした時平がいる。
高倉八幡宮  領主館の西北西25町、高井田村にある。祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后である。
 昔、大蔵姓加治木氏が領主だったころ、国分八幡宮の神馬を取り扱っていたので、正八幡を勧請したという。
大蔵姓…東漢氏系であり、渡来人。大宰府の官僚になり、原田・秋月・高橋氏はその末流。
天満
大自在天神宮
 領主館の東南6町余、段土村の町はずれにある。勧請年月は不詳。初め洲崎天神と称していた。
新田大明神社  段土村にある。前述の天神社に隣接している。昔、南郷の領主・赤坂氏が今市という地に勧請したが、のち肝付氏の時代に今の位置になったという。
諏訪大明神社  領主館の東南東7町余、段土村にある。祭神、建御名方命・事代主命。勧請年月不詳。
山元権現社  領主館の北、11町、段土村にある。祭神不詳。当社は加治木城の守護神として熊野新宮を勧請したものという。
稲荷社並びに
三宝荒神社
 領主館の敷地内にある。三宝荒神とはスサノヲ・タケ(武)スサノヲ・ハヤ(速)スサノヲである。
伊勢大神宮  領主館の西北西17町、木田村にある。石原某が伊勢より勧請持参したというが、その年月は不詳である。 春日神社より古い勧請とも言われている。
神社合記 ○愛宕神社 市早大明神 蔵王権現 黒川権現 平大明神 弓筈八幡 御霊大明神 老亀大明神 
<仏  寺>
光永山寿福院
春日寺
 本府大乗院の末寺で真言宗。春日神社の別当寺として神社再建の慶長10(1605)年に貫明公(17代義久)によって創建された。
○梵鐘…長享2(1488)年2月16日の刻銘あり。
○画像三幅…般若菩薩・聖観音・不動明王の画像がある。
岩屋寺  領主館の西北20町余、木田村にある。寺の後ろの山に洞窟があり、中に観音堂が建つ。岩屋観音と称す。創建の由緒・年月は不詳だが、領主・加治木八郎親平の次男・木田三郎信経が出家して岩屋寺の別当となり、子の上野長順も別当となっており、信経は承元時代(1207〜1211)の人物であるので、少なくともそれ以前の建立に違いない。
松齢山長年寺  領主館の西14町余、木田村にある。本府福昌寺の末寺で曹洞宗。初め当寺は鳳凰山大樹寺と称したが、加治木館の鬼門に位置していたので松齢公が現在地に移設した。寛永14(1637)年のことであった。
 その後、初代加治木領主の忠朗公が寺名を今の名に改め、寺禄100石余を与えている。この寺の境内は五老峯の中峯の東麓にあり、景勝美観は筆墨に尽くしがたい。
遷島山能仁寺  領主館の東南東11町、日木山村にある。福昌寺の末で曹洞宗。
宝珠山吉祥寺  領主館の西南西10町余、木田村にある。飯野長善寺の末で曹洞宗。創建は慶長15(1610)年。開山は松岳和尚で、松齢公が帰依していた僧である。
 松齢公(18代義弘)が慶長の役で朝鮮に出陣の際、松岳和尚に法華経1万部読誦を命じ、慶長3年から同12年まで10年を掛けて完了したという。褒賞として田禄30石が与えられた。
○法華経供養石碑…松岳和尚の法華経1万3千部読誦を記念して建立された。
法華経1万3千部読誦…義弘は1万部読誦を命じたが、実際には3千部多く読んだようである。一層の恩賞に与っただろう。
日木山東禅寺  領主館の東9町、日木山村にあり。福昌寺の末で曹洞宗。当寺は昔、天台宗で支院が12坊もあったという。
 寺の中に足利将軍尊氏の霊牌を安置してある。その由来は不詳である。
太平山安国寺  領主館の南南東11町、段土村、加治木古城の南麓にある。京都妙心寺の末で臨済宗。
 安国寺は暦応2(1339)年に足利尊氏が「一国一寺創建」を指示して全国に造立させた寺の一つである。寺の内には尊氏の霊牌が前代から安置されている。
 ●文之和尚墓…本府の大龍寺にて病を得、国分正興寺に帰る途中、遷化したのでここに葬ったという。もっとも、和尚はかって招かれてこの寺の住職をしていたことがあった。
文之和尚…南浦文之。日向飫肥南郷の人。幼くして出家、延命寺の天澤の元に入門、その後一翁に預けられ、15歳で京都に遊学、のち大隅の龍源寺・昌林寺・安国寺・正興寺を歴任し、鎌倉建長寺貫主になった。晩年は鹿児島大龍寺の開山となった。「文之点」の発明で著名。
萬齢山椿窓寺  領主館の北6町、段土村にある。京都妙心寺の末で臨済宗。
 もと萩原寺と称したが、標記のように改名された。その由来は・・・肝付氏が加治木領主だったとき、梅岳君(島津忠良)の次女・於西(おにし)が肝付弾正兼盛に嫁したが、兼寛を生んだ後に離縁となり実家である伊作に帰り、天正11(1,583)年に亡くなった。兼寛は母の法号「椿窓院妙英大姉」から院号をとって「椿窓寺」と名付けた、という。
 (注)肝付本家16代兼続に嫁したのが、於西の姉・阿南(おなみ)で   ある。阿南は離縁せず、高山で亡くなっている。
・肝付氏が加治木領主…肝付氏本家12代兼連の3男兼光が離反して大崎城へ。その子兼国は溝辺へ、そしてその子の兼演は加治木に入った。
兼演の子兼盛は喜入に移封され、藩政時代の喜入肝付氏は重用された。

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