『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座  (H24.9.17)

     大隅国 曽於郡之二

 ※「曽於郡之一」につづくのが「曽於郡之二」である。この巻では「高千穂の峰」の所在地について江戸時代以降多くなった「高千穂日向説」をさまざまな資料から論難し、都城の西にそびえる霧島山系の高千穂峰こそが記紀に登場する天孫ニニギノミコトの降り立った峰であるとしている。

概      要 備  考
<山水之二>
襲之高千穂
クシ日二上峯
   の余
○高千穂峯真偽弁
 「日向風土記」には高千穂峯は臼杵郡にあるとしているが、霧島連峰にある高千穂峯が正しい。そのことを6カ条に亘って説明している。
 @古書を列挙すれば高千穂峯は霧島である。
 A襲之高千穂峯の「襲」に属するのは霧島である。
 B古風土記について見ると、高千穂は霧島である。
 C襲山・曽の峯の義を明らかにすれば高千穂は霧島である。
 D高千穂臼杵説は妄説である。
 E14条に分けて霧島か臼杵かの真偽を明らかにする。
・「クシ」は木偏に患。
高千穂臼杵説…江戸時代になって勢力を増した説だが、編纂者は臼杵高千穂は記紀神話が出来た後からの付会とする。ただ、霧島の高千穂に降臨したあと、国まぎをして臼杵郡に至った可能性はあるという。
襲之瀑 そのたき。霧島山中にあり、霧島神社の西5町ほど。高さは10丈。
対 瀑 東西に分かれているので対瀑と名付けられた。
千里瀑 高さ32尋(約50m)。霧島川の上流に当たる。この瀑布の近辺には山神の仙区があり、往々にして霊異が起こるという。
霧島川 源は対瀑で千里瀑布を経て、西霧島社の下を通過している。下流には「小鹿野瀑布」がある。
金山川 別名が安楽川。
淵瀬山 霧島川と金山川の合流地点の上にある山。
入水川 上入戸で地中に入って見えなくなり、5町ほど下流で再び地上に出る。下流は清水邑に属す。
池沼合記 ○永池 ○鉢池 ○新燃池 ○折掛池 
<橋 道>
胸副坂 むなそひざか。地頭館の北北東1里にある。
 ここは霧島山の西に当たり、西御在所神社(霧島神宮)への途中にある。この坂を上りきった丘からは薩南の野間岳までの眺望がある。
 この「胸副坂」という名称は『古事記伝』高千穂天降の談によれば、<胸は「空」の意、副は「添(そほり)」と同義で「片方に寄っている」状態を表す。>ということで、空虚の地に片寄っている丘の意味で、これは胸副坂の地形と符合している。
空虚の地に片寄っている丘…こう解説されても全く意味が分からない。空虚が「何にもなく貧しい」というのは分かるが、それが片寄っているというのがどんな地形なのか理解できない。
<居 処>
春山野養馬苑 地頭館より東北東1里にある。往古は佐野牧という名の牧が霧島山麓にあったが、噴火のため現在地に移った。三分の一は清水郷に属している。
<神 社>
西御在所霧島
 六所権現社

(霧島神宮)
地頭館の北北東2里20町余、田口村に属す。
 祭神は正殿に四座(ニニギ・ホホデミ・ウガヤ・神武天皇)、東殿に一座(クニノトコタチ・タカミムスビ・イザナギ・アマテラス)、西殿に一座(オオナムチ・クニノサヅチ・カシコネ・カムスメヒコ・イザナミ・スサノヲ・マサカアカツ)の十五座。
 ところが鹿児島城下の神官である本田親盈の『神社考』『神社選集』には、「西御在所霧島六所権現は祭神六座、ニニギ・ホホデミ・ウガヤ・コノハナサクヤヒメ・タマヨリヒメ・神武天皇是なり」とあり、現在の祭神と大きく違っている。
 そもそも「霧島六所権現」は天孫三代つまりニニギ夫婦・ホホデミ夫婦・ウガヤ夫婦を祭り、多くは六所権現と名乗っている。それが十五座とは後世に付会したものであろうが、その由来は不明である。後考を待ちたい。
 この社は中世以来整備されてきた「霧島権現六社」の一つであるが、藩公の覚え目出度く宮殿も壮麗で、世間で霧島宮といえば当社のことである。
 当社は別当寺である華林寺の寺記によれば、欽明天皇の時代(540〜572年)で、慶胤上人が創建したという。その後噴火のために焼亡し、200年ほど後の村上天皇時代(946〜967)に性空上人によって再興された。性空上人時代は天台宗であったが、園室公(12代島津忠昌)の天明年間に兼慶上人が出て真言宗に変わっている。
 現在の社殿は正徳5年(1715)に22代藩主・島津吉貴が寄進したものである。
 『続日本後紀』に「承和四(837)年、八月、日向国諸縣郡、霧島岑神、官社に預かる」とあるが、おそらくこの西御在所神社であろう。同じ『続後紀』には「承和十(843)年、日向国無位高智保皇神、奉授従五位下」ともあり、郡名がないので不詳だが、これは霧島北麓の小林にある「霧島山中央六所権現瀬多尾権現社であろう。

○什宝(省略)  ○本地堂  ○十一面観音堂  ○鎮守堂
○多宝塔  ○香堂  ○護摩堂  ○不動明王石像
○税所祠…社記によれば、宇多天皇の皇子・篤房親王の5世孫正五位下藤原篤如が後一条天皇の時に国分正八幡と霧島神社の神職となり、治安元年(1021)3月、大隅国に下向。神領の租税を掌ったので「税所」を姓とした。その篤如を祭るという。
○待世行祠…祭神は本社と同じ。  
○野上六社権現…祭神は本社の祖神という。
○天子明神社…本社の西1里にある。祭神は蛭児(ヒルコ)命・アメノオシヒ・オオクメの三座。
○稲葉神社…本社の西南1里余にある。祭神、コノハナサクヤヒメ・ウカノミタマ・サルタヒコ。この地は天地開闢後はじめて稲が生じた所という。
○市岐明神社…祭神はキシニホ・アメノヒカミの二座。
○七社明神社…祭神はヤソマガツヒ・カムナオヒ・オオナオヒ・アメノイザフタマ・アメノウワハり・アメノセヲ・フツヌシの七座。
○亀石坂  ○風穴  ○御手洗川  ○両度川  
○長州本平家物語抄…丹波少将成経は鹿ケ谷事件に連座し、鬼界ヶ島に流されたが、その談に「…日向国西方島津の庄に着きたまふ。かの庄内に朝鞍野といふ所に、一つの峰高く聳へて煙り絶やせぬ所あり。日本最初の峰・霧島の嶽と号す…」とある。
○釈覚恵・霧島紀行抄…鹿児島城下の大乗院住持・釈覚恵が書いた紀行文。
霧島岑神…きりしまみねのかみ。文字通り霧島峰にある神。諸縣郡に属するように書かれているのは、当時は高千穂の峰の高千穂と御鉢(火口)の間の背に鎮座していたからである。
 その後御鉢の噴火で北側の小林郷瀬戸尾に降ろされたが、西南にも参拝所が生まれ、それが今日の霧島神宮に繋がり、島津藩公の庇護や地の利から今日の隆盛を迎えたのであろう。
税所祠…現在は霧島神宮の本殿に向かって右手の階段を上った所にある。
天子明神社…ヒルコはイザナギ・イザナミ両親の子あるのでツキヨミ・アマテラス・スサノヲとは兄弟であることからして「天子」としたのだろうか。
長州本平家物語抄
 …「長門本平家物語」と同じ。
鹿ケ谷事件…治承元年(1177)、京都鹿ヶ谷において平家打倒の密謀が発覚し、首謀者の丹波成経・平康頼・僧都俊寛が捕えられ、鬼界ヶ島に流された事件。
止上六所権現社 とかみろくしょ権現社。地頭館の東12町。重久村にある。
祭神は六座で、中央にホホデミ・トヨタマヒメ、左にニニギ・コノハナサクヤヒメ、右にウガヤ・タマヨリヒメ。
 創建は不詳だが社記の伝承では「景行天皇が熊襲征伐にやって来たとき、六所権現の神霊が大鷹となって現れるとたちまち叛徒を平定することが出来たので、その神霊を祭った」という。
 中古まで当社には「王の行幸」という儀式があった。毎年正月7日に神輿を出し、22日には4ヵ所の行廟において種々供物を献じて祭を行ったという。
 また社記によると得仏公(初代忠久)のころ、本藩に七社と称する神社があり、序列の一位は開聞神社、二位は新田八幡宮、三位がこの止上神社で、四位の鹿児島神宮、五位の霧島神宮より先に数えられていた大社であった。

○神の唐櫃…王の行幸の祭具が入っている。
○本地堂  ○若宮  ○隼風神社…隼人平定の「隼風鉾」を収む
○大隅神社…鳥居のそばにある。大隅国の地主神と言われ、祭神はホスセリ命。鹿児島神社の境内にも大隅神社がある。
○隼人塚…止上社の西南316間(約600b)の水田の中にある。隼人の首塚だという。
○尾群山…山頂に止上権現の元宮があった。
○華表田  ○御手洗井  
○乗林寺…大乗院の末寺で真言宗。尾群山頂上に止上神社があり、それを遥拝する拝殿のあった場所の跡に建立された。
七社…残りの六位は妻神社(日向国佐土原)、七位は稲荷神社(日向国都城)である。
隼人塚…史跡・隼人塚は隼人町にあるが、こっちの隼人塚が本物だろう。隼人町のは旧国分尼寺の跡に作られたモニュメントに過ぎないようだ。
神社合記 ○天照大神宮  ○熊野社
<仏 寺>
霧島山錫杖院
華林寺
地頭館の北北東3里20町ばかりにある。大乗院の末で真言宗。霧島神社の別当寺である。
 寺禄は540石余で、西海第一の名刹である。
金峰山橘木寺
吉祥院
地頭館の南西15町余。重久村の橘木城の麓にある。大乗院の末で真言宗。当村の祈願所である。
吉水山光明院
念仏寺
地頭館の北北東2町。相州藤沢山清浄光寺の末で時宗である。
仏寺合記 ○十聲寺  ○慈恩寺  ○林高寺
<旧 跡>
橘木城 地頭館の西12町余にある。
 往古、税所氏の居城であった。建久9年(1198)の記に、「曽野郡司篤守」、また建治二年(1276)8月、石築地の賦の書に「大介兼税所藤原」と守護代の次に書いてあるので、格式高い家柄であることが知られる。南北朝の頃は官軍に属して盛んであったが、応仁の乱以降の戦国時代になった文明15年(1483)、帖佐城の島津氏を攻めたところ、逆に敗れて降伏することになった。
税所氏の系譜…この橘木城の解説には「その先、敦實親王に出づ。第八世の孫を正五位下篤如といふ。治安元年に…云々」とあり、霧島神宮の項の中の税所祠の始祖の説明とは違っている。
夕暮関 ゆうぐれのせき。地頭館の西20町にある。
往古、六所権現の浜下りの時、帰るころになるとこの辺りで日の暮れることが多く、夕暮れの関と名付けられたようである。
鶴ヶ城 地頭館の西北西28町余。松永村にある。
 地元の伝承で「豊後の兵がここを占拠していたが、城が陥落しここから1里余りの大窪村の王子坂で城兵は悉く戦死した。それで今は豊後坂と呼び、手前には豊後塚という塚がある。また、近くの水田を豊後田と呼んでいる」というが、事実関係は不詳である。
豊後の兵…豊後(大分県)からここまでやって来た兵は、720年の隼人反乱の時か、1587年の秀吉の九州征伐の時しかない。
 後者とすれば秀長軍の一党だろうが、島津方で抵抗した形跡はない。
茂杜 しげりもり。重久村にある。『名寄集』に見えている。
  名寄
    深山なる しげりの杜の 下紅葉
             いづくをもりて 染めるしづくぞ 

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