『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

     第10回 大隅国 姶羅郡 帖佐郷

  
 帖佐郷は現在の姶良市のちょうど真ん中を占める。地頭館(御仮屋)は帖佐小学校の所にあった。

概       要 備  考
<山 水>
上別府川  上流は蒲生邑で、重富邑と当邑の境を流れ、中津野村で山田川と合流し、船津・三拾町・鍋倉・餅田各村を経て海に入る。
 川幅は1町ばかりあり、上流への船便がある。
現在は別府川という。河口は加治木郷との境にある。
山田川  帖佐郷の北部(山田村)から流れ、上記の上別府川に合流する。
住吉池  地頭館の北西1里余、住吉村にある周囲20町ほどの(2キロ余り)の大池で、深さは測り知れない。池の面で西北の10分の3は蒲生郷に属する。当邑と蒲生邑の灌漑用水池となっている。池の名は近傍に住吉神社があることによる。 住吉池の成因は「爆裂火口」でありマールと呼ぶ地質地形。現在深さは31bとされる。
<橋 道>
帖佐松原  地頭館の南32町、餅田村にある。鹿児島本府から加治木への道が通じている。松原の長さは18町、景勝は素晴らしい。
<居 処>
納屋市  地頭館の東1町ばかり、鍋倉村にある。上別府川に臨んでいる。河口から1里ほどで、船便の河港である。藺弁田・佐志・黒木・宮之城・山崎・蒲生・山田等の人民が米穀を本府へ納める際に利用している。 帖佐の納屋市港は上納米の集積港であったことが分かる。
<神 社>
新正八幡宮  地頭館の北東17町、鍋倉村の平山城址の東に位置する。祭神は山城の石清水八幡宮と同じである。
 弘安年間(1278〜88年)に石清水・善法寺の了清法印が勧請して下って来た。船津村の地名の由来はこの時に着船した所だったからという。
 正祭は10月25日。神楽を演奏しながら帖佐松原への「浜殿下りの式」がある。
浜殿下り…鹿児島では大きな神社で必ずこの浜殿下り(浜下り)が行われる。穢れ払いと思われるが、人間の斎戒沐浴とは違うのか、よく分からない。
正一位高麗
稲荷大明神社
 地頭館の北東2町、鍋倉村にある。朝鮮の役(慶長の役)で、出陣した松齢公(島津義弘)が明軍の火薬庫を攻めた時、赤白二匹の狐の働きで火薬庫に火が着き大爆発を誘引して勝利を収めたという。狐は稲荷神のお使いということで、戦死した狐を祀ったのが、この神社である。
 文政6年(1823)、京都神祇管領・卜部家より正一位の神階を貰っている。
狐は稲荷神のお使い…初代忠久が摂津の住吉大社境内で生まれた時、狐火に先導されて無事だった、という故事もある。
住吉大明神社  地頭館の北西1里13町、住吉村にある。祭神は大坂の住吉大社と同じ。当社は和銅元年(708)に鈴木政氏が勧請したという。
天満天神社  地頭館の北西3町ほどにある。弘安年間(1278〜88年)に大宰府から勧請した。
神社合記 ○甑大明神社 ○愛宕権現社 ○三宝荒神社 ○十六大明神社 ○霧島六所権現社 ○筒口大王社 ○大王社 ○獅子明神社
<仏 寺>
龍護山総禅寺  地頭館の北東2町余、平山城址の内にある。本府福昌寺の末で曹洞宗。文明年間(1469〜87)に島津豊後守季久が建立し、季久の四男・起宗和尚を住持とした。その後起宗和尚は都城の龍峯寺の開山となり、そこで遷化している。
 島津季久は帖佐郷で亡くなり、ここが菩提所となった。
 文禄元年(1592)、島津歳久が竜ヶ水で自害した時、遺骸をここに葬り、祠を建て、位牌を安置したが、祟りが多かったため義久・義弘両公が協議して「釈迦の小像」を作って歳久の形代として境内に釈迦堂を建立している。
島津豊後守季久…島津第8代元久の弟で第9代久豊の3男。帖佐地頭であった。
島津歳久…16代貴久の4兄弟(義久・義弘・歳久・家久)の3番目。
瀧水山心岳寺  地頭館の南南西2里余り、脇元村の竜ヶ水にある。福昌寺の末で曹洞宗。文禄元年7月18日に当地で自害した歳久の菩提所として慶長4年(1599)の春、貫明公(17代義久)が建立した。
 文禄の役の時(文禄元年)、名護屋に入った貫明公(義久)や松齢公に遅れた梅北国兼は肥後の佐敷城を占拠し、八代城まで攻撃した。この事件が発端となり、島津側に後で操る人物がいるとして挙げられたのが歳久であった。
 歳久は太閤秀吉の九州征伐の際に、叛意があったとして太閤の意趣の対象であった。そこへ持ってきて、梅北の反乱に与しているという知らせが入ったため、太閤は貫明公に「朱章(文書)」を下し、歳久の首を所望するところとなった。
 追い詰められた歳久はついに竜ヶ水で自害して果てた。享年56歳であった。
 ○辞世の歌
    晴蓑めが 玉のありかを 人問はば
              いざしら雲の 末もしられず
梅北国兼…島津方の武将であるが、元をただせば肝付方の重鎮であった。
 これには大姶良郷出身の伊集院三河守も連座して殺されている。
晴蓑…せいさい。歳久の雅号。晴れた日に蓑(みの)は必要ない。このような自己卑称は雅号には割合多いものである。
平安山八流寺増長院  地頭館の北東17町、新正八幡宮に隣接する。同宮の別当で、真言宗。当郷の祈願所である。
如意珠山
願成寺
 地頭館の南南西14町、餅田村にある。知恩院の末で浄土宗。初め松齢公(義弘)が栗野から朝鮮の役(文禄の役)に出陣した時に願をかけて建立し、慶長4年(1595)に帰朝の後は帖佐に移している。開山は運誉上人で、朝鮮の役の間、戦勝祈願を執行させていた。
 帖佐の願成寺の地にはもともと平安山松本寺というのがあって、その本尊は霊仏の聞こえが高いので、そのまま願成寺の本尊としている。
戦勝祈願…真言宗(密教)の僧侶に戦勝祈願をさせる武将は多く、わけても義弘は群を抜いている。もちろん戦果が上がれば報酬(寺領や扶持米など)が与えられる。
繁茂山僊岳寺
亀泉院
 地頭館の北東7町余、福昌寺の末で曹洞宗である。
○膝跪?馬の墓…ひざつきくりげ(馬)と読む。(?は「馬ヘンに辛」で、音で「セイ」訓では「あかうま」と読む。これをなぜ「くりげ」と読むのかは不明)。松齢公の愛馬で雌馬。伊東氏との木崎原合戦で松齢公が敵将・柚木原丹後守を槍で刺す時にこの馬が膝をつき、背を低くしたのでやり易かった。感心なこととしてその馬にそう名付けられた。齢83で死に、亀泉院に葬られたという。
蓬莱山天福寺  地頭館の東北東6町、福昌寺の末で曹洞宗。
 伊勢の桑名藩主・松平定行夫人の建立である。夫人の母・御下(おした)は松齢公の娘、また父は伊集院忠真であった。父・忠真は「庄内の乱」を起し、都城から頴娃に改易されたが、数年の後に暗殺されている。この父の菩提を弔う為、夫人が開基したのである。
朝鮮王子の事跡…市来虚白の記したものに「伊集院幸侃が朝鮮に行ったとき、7,8歳の童子を生け捕りにしてきたが、後に帖佐の天福寺の僧になろうとしていた。そこへ朝鮮人が訪ねて来て王子は薩摩に居ると聞いたので探し回っている、と来訪したので天福寺の小僧を見せると、九拝して貰い受けて帰った。」
朝鮮王子の事跡…朝鮮の役では多数の兵士の他に陶工が生け捕られて到来したことは判明しているが、王子まで生け捕られたらしい。この王子の無事の帰還が当時始まっていた日本と朝鮮の和議がすんなり決まった原因になっていることを縷々記している。
米山薬師堂  地頭館の東4町、岩丘の上に堂宇がある。登ること2町余、そこからは数十里の展望が得られ、まさしく絶景である。総禅寺に近接しており、総禅寺の管理化にある。
 総禅寺所蔵の『薬師由緒記』によれば、「総禅寺開山の起宗和尚の開基で、起宗和尚が諸国遍歴の途中、越後の米山薬師に百日参籠の折り、そこでとある白髪の老人に薬師像を与えられ、霊仏なりと判明して帰郷し、岩丘の上に御堂を建立して安置した」という。
越後の米山薬師…新潟県上越市にある。993mの米山山頂に鎮座。中腹には和銅5年(712)に建立されたという別当寺・密蔵院がある。三河の鳳来寺、日向の法華嶽と並び日本三大薬師である。
日陽山花園寺  地頭館の北2町ばかりにある。修験道の寺である。住持の祖先は米良氏で、子孫代々修験を業としている。
<旧 跡>
平山城  地頭館の北東7町ほどにあり、「帖佐本城」とも「内城」とも称される。東北に堀切、南面は崖、西側は水田に臨んでいる。山上の高さは2町、本丸以下14城からなる。
 昔は京都石清水八幡の神領が点在してあり、弘安年間(1278〜88)に石清水善法寺の了清和尚が下向し、所司であった留守氏等に代わって神領の庶務を掌り、八幡社を建立して神社の西に「平安城」を築き、居城とした。これが当城の始まりである。そして平山村の領家職となり、平山氏を称して土着した。
 子孫も代々領家職を継いだが、9代目の武豊の時(享徳年間=1452〜5)、大岳公(10代島津忠国)に敗れ、指宿へ移封された。また、鹿児島武村にも一族が移されている。
 その後、当地は島津季久に与えられたが、季久は間もなく瓜生野城(建昌城=後述)を築いて移り、ここは嫡子の忠康の居城となった。忠康はのち平山氏を称している。
 明応4年(1495)6月、加治木領主・加治木久平が叛して平山城の南城を奪ったが、帖佐郷の辺川に居た川上忠直が守備に入り、やがて本府の円室公(12代島津忠昌)の援軍により、久平は加治木に帰った。
 大永6年(1526)出水領主・島津実久が叛し、川上忠直も与して新城(=後述)を築いて抵抗したが、梅岳君(島津忠良)と大翁公(15代島津勝久)が出兵して終息させた。その功で梅岳君は伊集院を所領とした。(※)
領家職…荘園領主に任命された役職。平山村の荘園領主は不明だが、おそらく藤原家だろう。
伊集院を所領…一宇治城に居城した。ここで梅岳君の嫡子・貴久はザビエルと面会したと伝えられる。

(※)大永6年より後も、7年には伊地知重貞と、享禄2年(1529)には祁答院重武、弘治元年(1555)には祁答院良重・蒲生範清等との戦闘があり、いずれも島津方が勝利を収めている。
新 城  地頭館の北10町余、東北は平山城のある岡に繋がっている。周回10町、高さ2町ほど。
建昌城  地頭館の南東18町、餅田村にある。別名「瓜生野城」「胡麻ヶ城」という。周回は20町ほど、北は崖で高さ60間、東・南は水田、西は丘に連なり堀切がある。
 当城は上記・平山城で述べたように島津季久が築きその居城であった。嫡子・忠康は帖佐城に居たが度々武功があり、やがて伊東氏をけん制するために円室公(12代島津忠昌)は忠康を日向の飫肥に入部させた。文明18年(1486)のことである。(※)
(※)建昌城は九州道桜島サービスエリアの後方の岡に位置する。
関ヶ原の戦いのすぐあと、家康が軍を差し向けるという噂があり、ここに守兵を置いたことがあったという。
萩峯城  地頭館の南東17町、今は陸田化している。南北朝時代の道鑑公(第5代島津貞久)の時、足利方の畠山直顕が執事を置いた。
 齢岳公(6代氏久)はこの城を攻め、直顕は溝辺城を攻めた。このとき国分正八幡の社人が双方に和を求め、両軍はそれぞれ囲みを解いた。直顕は志布志に行った。
古城合記  ○古城 ○茶臼城 
帖佐の船戦 ちょうさのふないくさ。元亀2年(1571)、肝付兼続(省釣)らは兵船を連ねて鹿児島を襲ったが上陸叶わず、翻って花倉・三船・桜島を侵掠した。帖佐の地頭であった平田昌宗が船を出し、竜ヶ水を拠点としてこれと戦い、退けた。 平田昌宗…島津貴久(16代)・義久(17代)の2代に家老職として勤めている。
松齢公治所  地頭館の北2町にある。文禄4年、朝鮮の役(文禄の役)から帰った松齢公(18代島津義弘)は12月に栗野郷から当地に移り、館を構えた。それが治所で、質素なものであった。
 慶長2年(1597)2月には、ここから再び朝鮮の役(慶長の役)に赴く。加徳島に陣していた嫡子の慈眼公(19代家久)と合流し、「新寨の大捷(タイショウ=大勝)」を得た。この勝負においては明人を葬ること実に3万8千。
 慶長3年(1598)8月の太閤逝去により全軍撤収の命が出されたが、帰路を明軍が遮るのではという憂いがあったものの、この新寨の大勝利によって明軍の間に恐怖感と厭戦気分が広がっていたため、さしたる抵抗もなく、引き上げに成功した。
 この武功を称賛した徳川家康は出水郡等の5万石を松齢公に賞与した。
 明人の著述の中で朝鮮の役の日本側武将を取りあげて「卓越した者は島津義弘と加藤清正」と二公を誉めるものがあり、明史にも「薩摩州兵、剽悍称勁敵」(薩摩国の兵は剽悍で強敵である)との記述がある。「夜叉石曼子」(ヤシャシマヅ)という表現もある。
松齢公治所…島津義弘は祖父・忠良(日新斎)が伊集院を与えられたので、伊作城から移住した先の「一宇治城」で生まれた(父は貴久)。
 栗野には文禄4年(1599)まで、帖佐に移り慶長12年(1607)まで、最後は加治木で元和5年(1619)まで、と転々としている。
・夜叉石曼子…一般的には「オニ(鬼)シマヅ」だが、鬼ではなく「夜叉」であったようだ。
古帖佐屋敷  地頭館の北西3町ばかりにある。松齢公の治所に隣接している。陶工・星山仲次の屋敷があった。星山仲次は朝鮮からの渡来人でもと金海といった。金海の本貫地は星山で代々陶工であったが、渡海して戦った松齢公に付いて一族と共にやって来た。
 朝鮮伝来の細かい陶土を使った「瓷器(シキ)」を焼いたので珍重された。世に名高い「古薩摩」「古帖佐」「御判手」と言われるものがこれであろう。
 慶長12年(1607)に松齢公が帖佐から加治木に移った時も一緒に移り住み、公が元和5年(1619)に亡くなり、公の嫡子・慈眼公(19代家久)が本府に移住した時にも付いて行き、屋敷・細工所を賜り、今に至る「竪野焼」の元祖となった。
星山…セイザン。星州のこと。伽耶山の北東に位置している。
公が元和5年(1619)に亡くなり…義弘は享年85歳。したがって慶長の役当時は65歳ということになるが、この年齢で渡海して戦地に行ったというのは驚きである。
 松齢の法号もそれに由来するのだろう。

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