『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

 
 第7回 薩摩国 日置郡 日置郷・市来郷        (H25.10.20)


  < 日置郷 >・・・中世は日置北郷だった地域。日置南郷は吉利郷と永吉郷

※日置郷は江戸時代に宮之城を私領とした島津歳久亡きあとに、孫の常久の代にここに領地替えとなって入部した所である。しかしその子の久慶(ひさよし)に念仏宗(真宗)の嫌疑があって世系を抹消され、代りに慈眼公(島津氏18代家久)の第十二子・忠朝が第三世を継いでいる。幕末までに270年・13代を数えた。
 領主館は旧日吉町立日置小学校の場所にあった。

 
概     要 備  考
<山 水>
大 川  日置郷と南の吉利郷の境を画して東シナ海に注ぐ。
帆之港  大川の河口にある港。古老の伝承では、むかし得仏公(初代忠久)が薩摩に下った時に着船し、帆を落とした港なのでこう呼んでいるという。
下リ口浦  一説では上記忠久が上陸したといい、また一説では石屋真梁禅師が着船した場所ともいう。
<神 社>
八幡宮  領主館の東6町にある。祭神の天照大神・ニニギ尊・タクハタチヂヒメは薩摩川内の新田神社と同じである。
 9月15日に正祭があり、そのときには大王面を付けた大きな竹偶人を作り、四輪車に乗せて童子たちが曳いて行く。
・日吉八幡神社の秋の大祭では今日でも大王面姿の「大王殿(デオドン)」が登場する。
熊野
三所権現社
 領主館の北西5町余、日置村中原に鎮座。祭神は紀州熊野権現と同じ。
刀立
大明神社
 領主館の北東9町余に鎮座。祭神は不詳だが、往古は当郷の総鎮守であったという。
○石子塚…境内の山側に大小の石を積んで石垣をめぐらした場所があり、石子塚と呼ぶ。毎年正月に石が石を一つ生むといい、安産のお守りになるという。
・石が生じるという伝承は霧島市の「石体宮」にもあり、やはり安産のお宮となっている。
諏訪
大明神廟
 領主館の北北東12町にある。祭神はタケミナカタ命・コトシロヌシ命。7月23日の例祭に、郷民が太鼓踊りを奉納する。
<仏 寺>
上峯山弥勒寺安養院  領主館の東北東10町余、本府大乗院の末寺で真言宗。
吉富山大乗寺  領主館の東10町余、市来の龍雲寺末で曹洞宗。当寺は大中公(15代貴久)の雪窓夫人の建立で、最初は伊集院広済寺の末だったが、当郷に入部した島津常久が再興したおりに龍雲寺の末寺とした。
零徳山持地庵  領主館の東方9町余、日置村丹花尾にあり、福昌寺末で曹洞宗。開山は石屋真梁和尚で、和尚が初めて開山となった寺である。宝暦8年(1758)、当時の領主島津久定が再興した。 島津久定…日置島津家では久定という当主は不明。8代目の久林のことか?
瑞喜山光禅寺  領主館の南1町にあり。志布志臨済宗・大慈寺の末。慶長7年(1602)開山。開基は島津歳久の室で法名・悦窓永喜田大姉。 島津歳久…島津忠良の三男(兄に義久・義弘がいる)。秀吉の勅勘を蒙り自害した。
日置山桂山寺  領主館の北北東10町にあり、市来の龍雲寺の末で曹洞宗。当郷に入部した島津常久が父・忠隣(ただちか)の菩提所とした。
 忠隣は出水領主・義虎の子で、男子のいなかった歳久の婿に入り、後継したが、豊臣秀長軍との根白坂の戦いで戦死している。
根白坂の戦い…豊後の大友氏を駆逐した島津の前に立ちはだかったのが豊臣軍で、天正15年(1587)4月のこの戦いで島津氏は敗れ、矛を納めた。
<旧 跡>
松尾城  領主館の東北東11町、日置村と山田村の境に跨る城で、一説によると頼朝公の命によって小野小太郎家綱という御家人が入部し、伝世したという。薩摩国図田帳に「日置庄15町、下司小野小太郎家綱」とあるのがそれであろう。
 天文2年(1533)、日置城主・山田有親が島津実久に与したが、伊作島津忠良を恐れて日置を献上したという。
 特に城跡というものはなく、詳しい築城の経緯も伝わっていない城である。
薩摩国図田帳…建久8年(1197)に成立した大田文。日向国・大隅国とならんで南九州三国の図田帳はほぼ完全に伝世されており、中世史研究に欠かせない史料となっている。



   < 市来郷 >・・・中世には市来院が所在した

 ※地頭館は市来港の旧市木町役場辺りにあった。
 
概     要 備  考
<山 水>
重平山  地頭館の東4里、養母村にある。伊集院郷の最奥との境界になっている。  標高は522m。 
箭 峯  やのみね。重平山の北峯で、串木野郷・樋脇郷と接している。
弁才天山  伊作田村にある小山で、山頂に弁才天を祀る。
妙見岡  地頭館の東1里15町、大里村にある。藩主の通行の時にこの岡に御茶屋を建てて休息の便に供す。
神之川  伊集院郷より流れ下り、神之浦に注いでいる。朝鮮の役の時にはこの浦から食糧船を出航させたという。
薩摩渡瀬川  大里川ともいう当郷では一番の川で、串木野郷との境で北東から流れてくる川上川と合流し、河口は良港となっている。近郷屈指の浦で、遠近の船が停泊している。
江口浜  地頭館の南南東1里17町余り、伊作田村にある。重平川から流れ出る江口川の河口で、すこぶる風景が良い。
戸崎嘴  とざきのはな。3町余の岬が海に突出している。
海沙磧  かいさのせき。この辺りの海浜は海砂が積もって長く続いており、南は吹上浜に繋がっている。
湯田温泉  地頭館の東南東1里半、湯田村にある。湯の性質は硫黄泉で、疥癬(かいせん)に著効があるという。 疥癬…ヒゼンダニによる皮膚病。
<居 処>
市来野牧馬苑  地頭館の東方2里ばかり、養母村・長里村・湯田村・川上村に跨っており、周囲は6里1町、馬300余頭を放牧している。
<神 社>
稲荷大明神社  地頭館の東南東1里17町、湯田村にある。祭神は摂津の住吉大社と同じ。初代忠久公の母堂・丹後局が鍋ヶ城に坐した時に勧請したという。 丹後局…頼朝の乳母であった比企尼の娘で、初代忠久の母。
 丹後内侍(ないし)が正しい表記である。
丹後局七社  すべて大里村にある。伝承では、丹後局が鍋ヶ城におわした建仁3年(1203)に、鎌倉の七社を勧請したという。七社とは鶴岡八幡宮・御霊大明神・今熊権現・産湯稲荷大明神・包宮大明神・日吉山王社・安楽権現社である。 鍋ヶ城…後出。
厳島大明神社  地頭館の東方10町余、大里村にある。祭神はイチキシマヒメ・タゴリヒメ・タギツヒメの三神。丹後局が建久年中に勧請して建てたという。 三神…この三柱の女神は宗像氏の祭る三神で航海安全を司る。
春日大明神社  地頭館の東南2里余り、長里村にある。祭神は春日大社と同じ。旧社名は藤尾大明神。 春日大社…藤原氏の氏神アメノコヤネを祀る。
神社合記 ○諏訪大明神社…湯田村、市来院の宗廟という。 ○一之宮大明神社…大里村  ○近尾権現社…養母村 
<仏 寺>
万年山金鐘寺  地頭館の東南東30町、大里村にある。能登国総持寺の末で曹洞宗。丹後局の創建で、局の死後、侍女が尼となって冥福を祈ったという。
 往古は大寺院で寺領が800石もあった。丹後局が勧請した上記の七社のうち、鶴岡八幡・御霊・今熊・日吉山王の四社は当寺の鎮守であるとも伝える。
鳳凰山遍照院
大日寺
 地頭館の東南東2里余り、長里村にある。大乗院の末で真言宗。本尊大日如来は丹後局の安置したものという。
 慶長17年(1612)4月に火災に遭い、旧記が失われたので不詳のことが多い。
法城山龍雲寺  地頭館の東南東2里3町余り、長里村にある。福昌寺の末で曹洞宗。開山は心巌和尚、開基は節山公(10代立久)。
 寛正3年(1462)、節山公(10代忠国)は市来城主・市来久家を攻めて落とし、その後龍雲寺を創建して菩提所とした。
○節山公御墓   ○阿弥陀堂  ○神明宮
弥陀山来迎寺  地頭館の東南東30町ばかり、大里村にある。龍雲寺の末で曹洞宗。承元年中に丹後局の建立した寺の一つという。
 丹後局の御霊牌を安置すると伝える。また、古墓の中に惟宗広言(ひろのり)の墓と言い伝えるものがある。
○惟宗広言墓
惟宗広言…日向国司惟宗基言の嫡子で、頼朝の寵妃であったと言われる丹後局の夫。
梅巌寺  地頭館の東1町余り、湊村にある。龍雲寺末で曹洞宗。
補陀山潮音寺  地頭館の北1町にある。龍雲寺の末で曹洞宗。明国王室の出身の謙王という人が帰化してこの寺にいたことがあるという。
仏寺合記 ○栄泉寺  ○興円寺  ○西岩寺  ○宗乾寺  ○内山寺
長谷観音堂  地頭館の東北東2里ばかり、長里村にある。地元の伝承では島津氏が市来城を攻めた時に平城は陥落したが本城がなかなか落ちなかったので、大和の長谷観音と摩利支天を勧請してようやく下した。そこでこの寺を建立して観音を祭ったという。 ・市来城を攻めた島津氏とは龍雲寺の項にあるように、島津氏10代忠国であろう。
摩利支天堂  地頭館の東南1里ばかり、長里村の岡の上にある。地元では軍神山と呼んでいる。
薬師堂  地頭館の東南東1里半余り、長里村諏方之原にある。丹後局が勧請したという。昔は松本寺という真言宗の寺があったが、廃れて薬師堂のみが残った。
<旧 跡>
鍋ヶ城  地頭館の東南東30町ばかり、大里村にあった城で、昔、市来院院司としてやって来た市来氏の居城という。
 市来氏には「大蔵姓」と「惟宗姓」とがあり、最初にやって来たのは大蔵姓市来氏である。
 大蔵姓の始祖は後漢の霊帝の後裔である阿智王に始まるという。宝亀年代(770年〜780年)に大蔵政房が初めて薩摩に下向し、市来院郡司となって世系をつないでいた。ところが14世の家房に男子がなかったため女子に外孫に当たる惟宗政家を迎えて院司を譲った。
 この政家からが惟宗姓の市来氏が始まっている。惟宗姓の始祖は醍醐天皇の保明親王(別名・惟宗親王)である。その子孫である惟宗基言は日向国司となり下向したが、その子広言の妻となったのが丹後局であった。
 惟宗姓市来氏の系譜に「惟宗民部大夫広言、晩年、忠久公に従いて薩洲に下向し、市来院を領して城に在り。因りて子孫世々之を伝へ・・・」と見える。また、市来郷吏の提出した文書には「惟宗広言は丹後局とともに薩洲に下向し、鍋ヶ城に居る」等とある。
 また島津一族の山田聖栄の「自記」には
―御養父民部大夫(広言のこと)殿も初めは島津に居住あるか、されば島津殿と申し奉りぬ…―と書いている。
 また、薩摩国図田帳に「市来院150町、島津御荘寄郡、地頭右衛門兵衛尉」とあり、この右衛門兵衛尉は忠久公のことであろう。
 惟宗姓市来氏第4世の氏家は蹴鞠を得意とし、後醍醐天皇の時に内裏大番役で上京した時に「薩摩市来流」と称して名を顕わしたことがある。
 しかしこの市来氏も第6世の久家の時に節山公(10代立久)によって滅ぼされた。
○古墓…鍋ヶ城の中央にある。高さ6尺、周囲6尺だが刻時は無く誰の墓かは不明だが、土地の者は惟宗広言のものと言っている。
本文の割注…広言の先室は畠山重忠の姉であり、忠康が生まれている。先室が早くに死んだので後添えに丹後局が入り、忠季を生んだ。忠季は得仏公(忠久)の異父弟であったが、島津氏を名乗り、若狭国の守護となった。
 しかし広言の実子である忠康も忠季も承久の乱で戦死を遂げ、広言には頼朝公の御落胤である忠久しか残らなかった。(母の丹後局が頼朝の正妻・政子の嫉妬を恐れて摂津に逃れて住吉大社で忠久を生んだが、さらに地頭としての赴任地が鎌倉をはるかに離れた南九州になったのも丹後局の意向が強く働いた―という説もある。)
鶴丸城  地頭館の東南東1里34町半、長里村の中心にある。西に平城、西北に番屋城、北には大根城があるが鶴丸城が最も高い。
 南北朝の混乱時に当主市来時家は南朝方として戦駆ったが、島津第5代貞久(道鑑公)によって平定されている。その後寛正3年(1462)に第6世の市来久家は再び島津氏と戦い、今度は節山公(10代立久)によって駆逐された(上記鍋ヶ城を参照)。
 天文年間、島津実久が反旗を翻して攻めて来たとき、大中公(15代貴久)は入来院氏・樺山幸久・島津忠俊・蒲生氏などの働きを得てこれを平定した。
○大日寺口  ○湯田口…湯田村から城内に通じる大手口
○総陣ヶ尾…鶴丸城の東南5、6町。大中公の陣営した所。
島津実久…薩州家島津氏の5代目。薩州家は8代久豊の次男である用久を始祖とし「薩摩守」を官途名として代々出水地方を領有した。
初代・用久―2代・国久―3代・重久―4代忠興―5代・実久
湊町旗揃へ所  地頭館の北北東1町半、肥前の竜造寺隆信を攻めた時の旗揃えの場所という。
光明寺跡  地頭館の東南東6町余、長里村にある。丹後局が在郷の時に建立した四ヶ寺の一つで、寺内に得仏公の霊牌を安置して供養を修させていたという。上記鶴丸城の東方に連なる一山の中腹にあり、得仏公を祀る御廟があったゆえ得仏城と呼んでいる。
丹後局休憩石  地頭館の東南東2町余、大里村木崎にある。渡瀬川の渡瀬橋の5、6町東である。
 丹後局が下向して来た時にここで食事を摂ったが、そのときに腰を掛けた石であるという。林の中に幣帛を立てて標としている。この辺りの土地を局の従臣・重信某に与えられたので、ここを重信宅地と呼んでいる。(幕末の)今でも重信門の農民は毎年その石を祭っているという。
重信某…重信氏の名は伝わっていないが、JRの市来駅の近くを流れて大里川にそそぐ川を重信川というのは、単なる伝承でないことを示すか。
<叢 談>
海 笑 (「海笑」と書いて「つなみ」(津波)と読ませる。)
寛延元年(1748)9月2日、当郷に津波が押し寄せて陸地に上がり、地頭館内に収めてあった旧記等がみな流出してしまった。そのために往古の事績が詳しく分からなくなったようである。
・寛延元年の津波に関する詳しいことは不明。「海笑」を津波の用語として使っているが、当時の用語か―珍しい。


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