『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

 
 第8回 薩摩国 日置郡 郡山郷・串木野郷             (H25.11.17)


  < 郡山郷 >・・・中世・満家院だった地域。建久図田帳(建久8年=1197)には、「満家院
                 130町。地頭は右衛門兵衛尉」とある。地頭館は旧郡山町役場の場所にあっ                 た。

概     要 備 考
<山 水>
花尾山  地頭館の東北1里半、東俣村厚地に所在する。山頂に熊野権現、山麓には花尾大権現が鎮座する。 花尾山は標高540m。
山岳合記  ○八重山…郡山郷の北端にそびえる。霧島の神が祀られている。  ○三重嶽…東俣村、花尾山の南にある。 八重山…677mあり、甲突川の源流である。
河川合記  ○麓川…東俣川に合流する。 ○東俣川…鹿児島小山田村に流れてから麓川を併せ、下流は神月川となって城下に注ぐ。 神月川…今は甲突川と書かれる。
<神 社>
花尾
大権現社
 地頭館の北北東1里10町、東俣村厚地に鎮座する。祭神は正位が鎌倉右大将・頼朝公、右位(向かって左)に丹後局、左位に永金阿闍梨の三柱。
 本社は得仏公(島津氏初代・忠久)の創建で、薩摩藩の守護神と仰がれ、爾来600有余年三州の万民のその恩沢に浴さざるはない。
 丹後の局は忠久公の母で、頼朝公の種を宿して生まれた。夫人である北条政子がひどく妬んだためにひそかに西へ落ち延び、摂州住吉でうまれたのが忠久であった。その後忠久を連れ子として惟宗広言に嫁し、惟宗広言が市来院院司となって市来に来住するとそれに伴った。子の忠久が三州守護職となるに及んで郡山の厚地村・東俣村に丹後の局の「湯沐の邑」と定められた。
 その後、嘉禄3年(1227)に逝去されたので、遺命により花尾山の麓を墓所とした。
 祭神の一柱である永金阿闍梨は俗姓・大蔵氏。丹後の局の帰依が篤く、同様に葬られた。
 中世後半期は戦乱により祭祀が廃絶されたこともあったが、ようやく三州が平定されつつあった15代貴久公の時に、鹿児島の清水に大乗院が創建され、以後、大乗院が花尾廟の香華を運営することになった。
○御供所 ○鐘楼…浄国公(21代吉貴の時代に琉球王・尚敬(第7代)が寄進した鐘が懸る ○随神門 ○祓川 ○丹後局の墓
○丹後局御憩石 ○農民の舞躍り
丹後局…比企尼の娘で、比企尼が頼朝の乳母であったため頼朝の寵愛を受けた。父は比企氏。「丹後内侍」が正式名。
湯沐の邑…トウモクノムラ。直訳すれば、湯あみをするための邑ということだが、中国周王朝の頃、広い意味では「王室の后や王女達のための食邑」。
 日本では藩主や貴族が正室や娘のために「化粧田」を施すことがあるが、同じ意味である。
大乗院…弘治元年(1555)に清水に建立された真言宗の寺院。鹿児島藩ではここが祈願所であった。
 現在跡地には清水中学校が建っている。
一之宮
大明神社
 地頭館の東25町ばかり、東俣村にある。祭神、正位に得仏公(忠久)、左位に丹後局、右位に惟宗広言の三柱。
 主神・忠久公は文に武に徳あり、材質あり、学は和漢に博く内外に通じ、万年不抜の基を開かれた。
 得仏公を一之宮に祭るのはここだけではなく、国分郷の富隈にも大隅の守護神として祭られている。
惟宗広言…これむねひろのり。日向国司・惟宗基言の子。丹後局の前妻との間に忠康と忠季(ただすえ)がいる。
諏方
大明神社
 地頭館の西4町、郡山村にある。祭神は本府の諏方神社と同じタケミナカタ神。郡山郷の宗廟である。
神社合記  ○稲荷大明神廟 ○近都宮 ○諏方大明神社
<仏 寺>
平等王院  地頭館の北北東1里余、、東俣村厚地にある。
 忠久(得仏)公の創建で花尾神社の別当所。大乗院が兼務している。本尊の愛染明王(高さ2寸7分)は弘法大師の作という。
○支坊…曼荼羅寺・本地院・多聞院
仏宇合記  ○真木山寺光院法幢寺…本府大乗院の末寺で真言宗。 ○西光山円照寺…市来龍雲寺の末で曹洞宗。 ○洞源山大川寺…市来龍雲寺の末。川田氏が建立した。
<旧 跡>
川田城  地頭館の東1里6町ばかり、川田村にある。旧名を馬越城という。代々川田村を治めた川田氏の居城で、初代盛佐から12代義朗まで続いた。
 文明17年(1485)、8代立昌の時には島津忠廉(ただかど)と干戈を交えたという記録がある。
・島津忠廉…島津8代久豊の3男・季久(帖佐郷)が始祖の豊州家の2代目。
城跡合記  ○松尾城 ○弥五郎城 ○陣之城 ○毘沙門城 ○聖之城

 
    <串木野郷>…串木野郷は日置郡と薩摩郡に跨っている。串木野村と荒川村は日置郡に
                 属し、その他の村は薩摩郡に属している。地頭館は串木野村上名にある。
概     要 備  考
<山 水>
冠 嶽  地頭館の東北東2里ばかり、串木野村上名にある。三峰に分かれており、西峯が最も高く、その形が風折れ烏帽子に似ていることから「冠嶽」と呼んでいる。また一説に孝元天皇の時に徐福が来てここに王冠を留めたのでそう呼ぶようになったともいう。
○冠嶽三所権現社…東嶽・中嶽・西嶽のそれぞれに権現社があるのでそう呼ぶ。祭神は熊野三所権現に同じ。用明天皇の勅願によって蘇我馬子が建立したと伝える。
○山中名区(名勝)…祓川・花川・仙人岩・不動窟・宝生洞・装束岩・白山岩・不動石・大岩戸権現社・天生蘇我煙草・材木嶽・経塚山・阿弥陀堂・
○東嶽社什宝 ○西嶽社什宝 
○冠嶽山鎮国寺頂峯院…冠嶽三所権現の別当寺。大乗院の末で本邑の祈願所である。当寺の支院は18カ所あったが今は皆廃絶している。この嶽には天狗が棲むといい、山中の怪が度々ある。○頂峯院什宝
○異国降伏御祈祷文書…「冠嶽別当住僧門中」宛て文書。正応5年(1292)12月21日付で左衛門尉(当時は4代島津忠宗)の花押がある。「鎌倉府から異国降伏御祈祷をするよう通達が来たので、各寺社において御祈祷を精進するべし」という内容。
○文詩(詩文)…桂庵玄樹の作。文明10年(1478)に島津太守のお供をして冠嶽に登った時に作られたもの。
徐福…秦の始皇帝に仕えた道士。3千の童男童女と渡海して日本(蓬莱)にやって来たとする伝説は多く、国内で20数ヶ所の伝承地があるという。串木野には「秦波止」という地名伝承があり、徐福の上陸地だという。
蘇我馬子…稲目の子で大臣。聖徳太子とともに物部氏を滅ぼした。
 しかし子の入鹿は中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足によって滅ぼされた。
所崎川  水源は市来郷。当邑との境を流れて海に入る。
五段田川  樋脇郷の山中より流れて当邑に流れ下る。
照 島  串木野村島平浦の海中にある。東西2町、南北1町の小島で島には松尾大明神社がある。祭神はオオナムチノ命。 島平浦…ここは慶長の役の際に、朝鮮陶工を上陸させた場所である。
沖ノ島  羽島村の海上18町にある枇榔島で、船人の漁獲地である。
<神 社>
猪口田
大明神社
 地頭館の東9町余、串木野村の宮原にある。祭神は、饒速日(ニギハヤヒ)命と天香山(アメノカゴヤマ)命。祭司は入枝氏で、入枝氏の先祖が奥州の胆沢郡から負い下ったという。当邑の宗廟である。 饒速日天香山…ともに物部氏の先祖である。陸奥国にも物部氏の落人伝承がある。
諏方上下
大明神社
 地頭館の東1町、亀ヶ城の址にある。社司は入枝氏。文禄元年の朝鮮派兵の時に貫明公(16代島津義久)は肥前に赴く際にここで神楽を奉納し、歌も詠んでいる。
○摩利支天堂…当社の境内にある。
神社合記  ○山神祠…芹ヶ野にある。 ○羽島崎大明神社…土地の伝承に、天智天皇の妃である大宮姫が頴娃に戻る際、鏡をここに残していったのを勧請して創建した。 ○髢大明神社
<仏 寺>
岩水山良福寺  地頭館の南南東1町余、備中国道祖児村にある永祥寺の末寺で曹洞宗実峯派。創建は18代家久公。
○薬師堂…当寺の鎮守で境内にある。
仏寺合記  ○妙智寺 ○安楽寺 ○悟入寺 ○松山寺 ○正福寺 
<旧 跡>
串木野城  地頭館の裏山にある。串木野氏の居城である。串木野氏は初代が平忠直で5代忠秋まで続くが、島津貞久(道鑑公)の時に滅んだ。節山公(10代立久)のころ一族の川上忠塞に串木野を与えたが、孫の代になって出水城主・島津実久に属したが、大中公(15代貴久)が市来を討った時に降り、元亀元年には島津家久が地頭職として入部した。 島津実久…8代久豊の次男・用久は薩摩守を官途したので以降は薩州家と呼ばれるが、その5代目が実久である。
古城合記  ○城之園 ○坂之下園 ○浜ヶ城 ○陣之尾 ○古城
 西洋舶
   の覬覦
 正徳2年(1712)、西洋の大船が海上に出現した。執政の肝付兼柄(かねもと)が衆を率いて串木野まで行ったが去った後であった。
旧壺屋 地頭館の北1里余、串木野下名村にある。慶長の役で松齢公(17代島津義弘)が連れてきた朝鮮陶工を最初は串木野に居させたが、4年後には伊集院の苗代川に移住させられた。
芹ヶ野金山跡  地頭館の南南東16町余、串木野村下名にある。寛永17年(1640)に幕府の許可を得て金の生産が始まったが、やがて採れなくなり鹿籠金山に移った。 鹿籠金山…枕崎市にあった金山。

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