『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

 
 第9回 薩摩国 谿山郡 谷山郷 及び 給黎郡 喜入郷・知覧郷
                                                                     (H25.12.15)   
   ・谿山郡
  < 谷山郷 >・・・中世・伊佐智佐郷および山田郷だった地域。
                 建久図田帳(建久8年=1197)では谷山だが、倭名類聚抄では谿山。
                 地頭館は現在の谷山小学校にあった。

概      要 備  考
<山 水>
烏帽子ヶ嶽  地頭館の南2里5町ばかり、和田村の平川にある。頂上に飯綱権現を祭る。 ・標高は522m。
永田川  伊集院春山を水源とする本川に、中村甑谷からの小流を併せて福本村の柏原で海に注ぐ。
和田川  荒河内を水源とし、慈眼寺境内を流れ和田村を経て海に入る。 慈眼寺…後出。
瀑布合記  ○小瀑 ○大瀑 ○平岩瀑 ○勘右エ門瀑 
七ツ島  地頭館の南25町、福本村の海上にある七つの島を言う。最大の島でも周囲が2町ばかりで、七ツ島大明神社がある。伊佐智佐神社の末社という。
<神 社>
正一位
伊佐智佐
六所権現社
 地頭館の南西15町、福本村神前城の跡に鎮座する。祭神は熊野権現と同じ(イザナミ・速玉男・黄泉津事解男)。熊野本宮と新宮を併せて祀ったため六所権現と称している。
 瀬戸山氏と竹之内氏が奉際して下って来て藺弁田村・志布志月野・佐多を経てここに鎮座した。谷山の総鎮守である。
熊野権現…熊野本宮・熊野速玉大社・熊野那智大社の三社(三所)を併せて呼ぶ。
妙見廟  地頭館の北1里ばかり、宇宿村にある。社司・梶原氏の先祖が紀州那智山から勧請してきて、恕翁公(7代元久)の命で現地に祀るようになったという。
 ○道祖神祠…妙見廟の後方にあり、俗に「さや(さえ=塞)の神」と言っている。
妙見…妙見は北斗七星で、道教的には宇宙の中心とされる。
飯綱
大明神社
 地頭館の南3里ばかりの烏帽子ヶ嶽の山頂に祀られている。飯綱天狗のことである。「由緒記」によると大中公(15代島津貴久)が乱世平定のため長野武蔵坊を籠らせたという。武蔵坊は時に33歳、その後今嶽山天宮寺を建立し、死ぬまで里に下りてこなかった。
神社合記 ○諏訪大明神社…福本村光山  ○諏訪大明神社…福本村。往古、谷山氏が信濃国の諏訪大社を勧請したという。
<仏 寺>
永谷山皇徳寺  地頭館の北北西約1里、山田村にある。能登国の総持寺の末で曹洞宗。谷山郡司・平忠高が創建した。
 「由来記」によると、この寺は元は皇立寺という寺で、肥後の菊池武光が正慶年中(1332〜3年)に征西将軍・懐良親王をここに迎えて守護し、同時に諏訪社と皇立寺を建立した。親王亡き後に皇立寺を菩提寺としたが、至徳年中(1384〜7年)になって親王の遺跡を訪れた無外和尚に帰依した当時の谷山郡司・平忠高が皇立寺を移築して七堂伽藍を再興したものである。
※本文では征西将軍を世良親王としてあるが、割注にはその誤りを正して「懐良親王であろう」としている。
懐良親王…後醍醐天皇の7男で、幼少ながら征西将軍として九州に下り、南朝方武家が糾合する象徴となった。初め谷山に入ったが、肥後の菊池氏の保護下に入ると九州は多く南朝方に傾いた。しかし九州探題・今川了俊の巻き返しで苦戦を強いられた。
 最期は八女の山中で迎えたとされる。
補陀山慈眼寺  地頭館の西南西18町余、福本村にある。福昌寺末で曹洞宗。「由来記」によると、百済国の日羅の開基で、自作の聖観音を安置したのが始まりである。最初は天台宗、その後臨済宗、天文年間に至り曹洞宗となった。
○太刀一振 ○観音堂 ○瀑布 ○御歌 ○稲荷大明神祠
日羅…葦北国の国造・アリシトの子で、父が百済に渡ったのちに生まれ育ち、百済国の臣下では最高の位・達率にまで昇進した。
川龍山寺宝院
常楽寺
 地頭館の北東3町、福本村麓の北の入り口にある。大乗院の末で真言宗。当村の祈願所になっている。
如意山清泉寺  地頭館の南33町ばかり。福本村にあり、川辺宝福寺の末で、曹洞宗。百済の日羅の開基と伝える。
 島津大和守久章の位牌を安置している。
 久章は垂水島津家の6世子孫で、罪有って遠島に処せられるところを反抗し、ここにおいて誅殺された。
島津久章…垂水島津家の始祖・忠将より7世の孫で、新城家の開祖。江戸時代初期のお家騒動と言うべき内訌で誅伐された。
大河内山
西方院妙楽寺
 地頭館の北北西1里24町ばかり、山田村大河内にある。時宗の浄光明寺末。
 ○阿弥陀堂
仏寺合記 ○蔵六軒 ○多福院 ○円明庵 ○江月庵 ○帝釈寺 ○昌寿庵
<旧 跡>
本 城  地頭館の西2里18町余の福本村にある。
 谷山郡司・平忠高の創建と伝える。
 南北朝時代以後は伊集院家の持ち城となったが、応永24年(1417)、伊集院頼久の時に義天公(8代久豊)が攻めて降伏させた。その後、大永7年(1527)には島津実久(薩州家5代)が攻略したが、大中公(15代貴久)の親征により城主・禰寝播磨守を駆遂させ、苦辛城・神前城をも落とし、谷山はことごとく島津氏の支配下に入った。城は他に波平城・椿山城があった。
○御所の原…福本村の見寄に広がる土地。正慶年間((1332〜3年)に征西将軍・懐良親王が入薩後に仮宮を設けた跡である。
平忠高…谷山郡司。出自は不明だが、阿多平氏の平忠景の一類であろう。
禰寝播磨守…禰寝氏の誰であるか不明だが、島津貴久の時代と重なるのは禰寝氏15代清年である。島津氏に降ったのは16代重長。
波平剣匠  地頭館の北20町、福本村波平に居住の刀鍛冶(刀工)。橋口氏と称す。鼻祖を正国といい、一条天皇の御剣を作ったと云う人で、大和国から薩摩に下りここに居付いた。世に知られる「三条小鍛冶・宗近」はこの正国の弟子である。
 宗近は従四位下播磨守・橘仲遠の子・橘大仲宗のことで、法興院殿に仕えていたが、天元2年(979)9月29日の夜に木工寮仕丁・稲丸を闇討ちにしようとして捕えられ、11月に薩摩国に流罪になった人物で、谷山の正国の弟子となって鍛冶を家業とし、宗近と改名した。
 永祚年間(989年)に赦免されて帰京の後は白川に住い、一条天皇の御剣を作り、名匠と謳われた。
 波平という居住区名の謂れは、正国の子・行安が京都に赴く時に、海上で強風に遭遇した際に、手練の佩刀を海に投じたところ、たちまち風波が止み、航路の無事を得たという故事に基づいている。
○三重野…五ヶ別府村にあり、橘大仲宗の入薩後、最初に住んだ場所。後年、畑となり、耕作の農民が金クソ(鉄滓)を掘り出すことが多かった。
一条天皇…第66代。寛弘8年(1011)没。御年32歳。62代村上天皇の孫に当たる。
木工寮…公家令官制では宮内省に属し、大工・細工物の製作を担当した。
仕丁…シチョウ・よぼろ。作業職員のこと。


   ・給黎郡
  
< 喜入郷 >
…本府城下の南7里にある。肝付氏の食邑で、その祖先は肝付兼忠の3男兼光である。兼光は大崎、子孫は溝辺、加治木と移動し、文禄4年(1595)に喜入に入部した。領主館は現在の喜入小学校にあった。

概     要 備  考
<山 水>
瀬々串  地頭館の北1里23町余り、上之村の海浜の小村落。ここからは大隅の連山が屏風の絵のように眺められる。
黒地蔵坂  地頭館の北35町ばかり、上之村の海岸に臨む崖の上にある。眺望に勝れ、藩主が通行するとき、必ずここに行亭を建てて休息する場所である。永正5年(1508)建立の石地蔵がある。
八幡川  下之村を水源とし、上之村との境となって海に入る。
緒川合記  ○田貫川 ○米倉川 ○貝底川 
喜入浜  この辺りの海浜はみな砂が柔らかく、行く人の足が沈むため歩を戻しながら進むため、「喜入の浜は1里行けば1里戻る」という俚諺がある。
<居 処>
牧馬苑  地頭館の南南西1里8町余り、上之村にある。周囲は1里半、馬を80頭ほど飼養している。
<神 社>
正一位
三百余社
大明神
 地頭館の西10町にある。祭神は天照大神。正祭は2月11日。
 弘治3年(1557)に、喜入摂津守季久が建立したというが、当社の手水舎鰐口には文明5年(1473)の銘があるので、季久のは重建かもしれない。
 享保21年(1736)に神祇道管領・卜部氏から神階正一位の宗源宣旨の奉納があった。神主は浜島氏。
神祇道管領…卜部氏の流れをくむ吉田家が名乗った称号で、正式には「神祇管領長上」。律令官制下の次官職(長官は白川家)の意味を持つ。
諏方上下
大明神社
 地頭館の南西26町、上之村の麓にある。御神体は鎌で、永禄年間(1558〜70)に喜入季久が再興した。
成木大明神社  地頭館の北西15町にあるが、祭神不詳。
神社合記  ○道祖宮 ○二俣大明神社 ○玖玉大明神社
<仏 寺>
慈眼山花蔵院
常法寺
 地頭館の西10町余り、上之村にある。坊津一乗院の末で真言宗。当所の祈願所である。
鶴頭山不動院
玉繁寺
 地頭館の南南西、上之村麓地区にある。福昌寺の末で曹洞宗。開山は福昌寺二世竹居正猷和尚。肝付氏が初め加治木に建立したが、肝付家移封に伴い喜入に移転した。
仏宇合記  ○地蔵堂 ○薬師堂
<旧 跡>
本麓古城 ほんふもと・こじょう。地頭館の南西20町余に、給黎氏の旧麓があり、そこが居城であった。給黎氏の始祖は伊作・平次郎大夫良道の次男・兵衛有道であったが、のち道仏公(2代忠時)の7男忠経の長男・宗長の所領となった。やはり給黎を称した。
 応永年間に谷山を領有した伊集院頼久はここも手中に収めたが、恕翁公(7代元久)の攻略により軍門に降った。


   < 知覧郷 >・・・建久図田帳には知覧郷40町と見える。島津氏4代忠宗の第3子であった三郎左衛門忠光が領有して佐多氏を名乗り、三代を過ごしたが、4代目の親久の代に知覧郷に転封した。
 領主館は郡にあり、現在の南九州市役所がそれである。

概     要 備  考
<山 水>
山水合記  ○母ヶ嶽…最も高く秀抜な山。517m。 ○白嶽
麓川  水源は四周の山々で、合流して麓地区を流れ、西へ流れて海に入る。 ・下流は万ノ瀬川といい、加世田で海に入る。
加治佐川  水源は頴娃郷の狩俣山。南流して門之浦に注ぐ。
門之浦港  領主館の南南東3里33町、加治佐川の河口にある。
浦港合記  ○長澤津港 ○松ヶ浦港 
<神 社>
中宮
三所大明神社
 領主館の西南西11町、郡村にある。祭神はトヨタマヒメ。
 当社の創建は不詳だが、元亨4年(1324)の古文書が残っており、それには「薩摩国知覧院鎮守・開門中宮大明神御神領…、平忠世」とある。当郷の総鎮守で、別当は持宝院である。
諏訪大明神祠  領主館の南10町余り、永里村櫨立にある。
 勧請年月は不詳。川辺郷の宝福寺の火の守護神という。
神社合記  ○稲荷明神祠 ○戸柱大権現祠 ○稲荷大明神祠 ○諏訪大明神祠
<仏 寺>
中宮山万福寺
持宝院
 領主館の西11町半、郡村にある。一乗院の末で真言宗で、当郷の祈願所である。また中宮大明神の別当でもある。
極楽山松峯院
西福寺
 領主館の西北西4町半、郡村にあり、福昌寺の末で曹洞宗。佐多氏義は石屋禅師の愛弟子・覚隠禅師に帰依し、わが子を覚隠の弟子に入れた。その名を明宝昌暾といった。
 長子の親久が佐多から知覧に移封されると寺も移転し、覚隠禅師を開山として再興した。
 
仏宇合記  ○桂雲山栄仙寺…西福寺の末で曹洞宗。日向の国合原(くにあいばる)において戦死した佐多左馬之助忠直(注:備考の最初の大きな戦乱=延文4年=1359)の愛刀を持ち帰った敵兵の家で怪奇現象が続いたので桂雲比丘に返還したという因縁のあった寺院である。 国合原…国合原での大きな戦いは二度あり、ひとつは延文4(1359)年の、庄内を占有した人吉の相良氏と島津氏久(第6代)との戦いで、この時は不利に終わり、佐多忠直・彦四郎兄弟が戦死している。
 二つ目は天正元(1573)年の肝付氏と島津氏との戦で、末吉を攻略しようとした肝付氏は島津側の北郷時久・相久・忠虎の親子を中心とする都城軍に四面を囲まれて大敗を喫した。この戦いで肝付氏側は430名を超す死者を出し、結局この戦いが肝付氏の滅亡を決定的なものとした。
<旧 跡>
知覧城  領主館の南南西13町余り、永里村にある。得仏公(初代忠久)の頃、頴娃三郎忠長の3男四郎忠信は知覧院の郡司となり、土着の後家名を「頴娃」とした。その後、平忠世が郡司となり、文和年間(1352〜6)になって足利尊氏が佐多忠光の軍功により知覧を宛がった。
 忠光は道義公(4代忠宗)の3男で初め伊敷村に入り、のちに大隅の佐多の郡に行った。その3代後の親久の代になってようやく知覧郷に転封して来た。
 代々承継して来たが、11代久慶の時に台命(太閤秀吉の命令)によって川辺郷宮村に移封されたが、20年後の慶長15年、12代忠元の時に旧に復した。16代の久達の時に島津氏の名乗りを許された。
城営等合記  ○為朝陣…鎮西八郎為朝が渡海の前に陣を構えた址という。 ○千人首塚…永里村芝立にある。往古の戦死者を埋めた場所という。


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