『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

    第11回 大隅国 姶羅郡 重富・蒲生・山田・溝辺各郷 (H25.2.27)

【重富郷】 
※地頭館は現在の重富小学校にあった。ここは平松村でもと平松城のあった所でもある。
           
御四家の一つ越前島津家を重富家というのには次の由来がある。初代忠久の弟・忠綱
           は越前の守護代として赴任したが、越前から播磨に移った後の第15代忠長が戦死した
           ため一家は断絶した。それを復興したのが島津本家22代吉貴の四男・忠紀で、重富郷
           を拝領したので「重富家」と言われるようになった。正式には越前家という。

概     要 備  考
<山 水>
白銀山  しらかねやま。地頭館の西南、この山中には街道が通っている。「白銀坂」(しらかねざか)という。 白銀坂は大口・日向筋の要所で、藩政当時の石畳が残り、国史跡である。
諸山合記  ○片甲峯 ○甑岩
脇元浜  この浜は船の発着に適しており、本府城下からの便がある。近隣の村人たちも利用することがある。
布引瀑布  領主館の西南10町、白銀山から流れる沢にあり、高さ18bほどの滝で、巖間のツツジが見事である。
渡瀬川  別名・平松川。源流は吉田郷にある。 現在の思川である。吉田郷は薩摩国鹿児島郡に属している。
船津川  帖佐郷と加治木郷の境を流れている。1里遡った船津村まで船が上る。船津では北から山田川が合流している。
<橋 道>
白銀坂  しろかねざか。坂の長さは1里。途中に薩摩国と大隅国の境を示す木がある。鹿児島城下に近い険峻といえばここを指すが、境の木を過ぎると大隅国の天地が一望できる。
 この坂は種々の妖怪が出るところと言われ、歌舞・歌謡などの音曲は禁忌とされる。
・上記の白銀山の注で触れたように、この坂は加治木町にある「龍門司(たつもんじ)坂」と並び、平成18年に国の史跡になった。
<居 処>
高牧野養馬苑  領主館の北北西30町余。佐多之浦村触田にある。周回は1里22町、馬4,50頭を養っている。
<神 社>
岩剣大明神社  領主館の北西5町余、平松村の岩剣城跡の下にある。祭神は大己貴命保食命。天文11年(1543)の棟札に「大檀那・平重嗣、地頭・重清」と記してある。
 天文23年(1554)10月に義弘公が岩剣城の渋谷一党を攻めた時に、この神霊を白銀坂の陣所に奉際したところ、渋谷氏は戦わずして逃げ去ったという。別当寺は円明院。
大己貴命…オオナムチ。大国主命の別名。
保食命…ウケモチ。記紀神話に五穀や牛馬・蚕などを生成した神とある。
諏方大明神社  領主館の北東20町余、平松村にある。祭神は上社が建御名方命、下社は事代主命。弘治2年(1556)の棟札に「当地頭・三原遠江守重秋造立諏方社一宇…」とある。 建御名方命事代主命…どちらも大国主命の子である。
上九玉
大明神社
 領主館の北1里15町余、船津村にある。祭神は興玉神。永禄9年(1567)11月に造立との棟札がある。 興玉神…天孫を案内した猿田彦という説と、海路を案内した塩土翁(しおつちのおじ)説がある。
下九玉
大明神社
 領主館の北北東1里12町余、船津村にある。祭神は上社に同じ。 弘安年中に帖佐の新正八幡宮の神輿を捧持して着船した場所なので船津村となり、またその時の船玉命を上下二社に祀ったのだという。 船玉命…上社の備考欄のように、九玉神社といえば猿田彦のようだが、本来は船玉、すなわち塩土翁命だったようである。
高権現社  領主館の北西32町余、佐多之浦村の触田山中にある。祭神は高姫命。寛文6年(1666)の社頭造営の棟札がある。
 神社へは崖を攀じ登るような道が通じている。古来、当社は上部の病を癒すとされている。
高姫命…大己貴命(大国主)の娘・下照姫の別名。高天原から遣わされた天稚彦の妻となった。
神社合記  ○妙見宮…脇元村に鎮座。 稲牟礼大明神社…平松村。祭神・猿田彦大神。
<仏 寺>
岩剣山神宮寺
園明院
 領主館の西北西5町、平松村にある。本府の南泉院の末寺で天台宗。昔は真言宗であったが、延享2年(1745)に天台宗に改宗した。
岩剣神社の別当寺である。
吉祥山三祖院
紹隆寺
 領主館の北北東4町余、平松村。初め本府福昌寺の末で曹洞宗であったが、延享2年(1745)に時宗に改宗した。宝暦10年(1759)かっての禅寺・吉祥山三祖院のあった場所から現在地に移った。
<旧 跡>
岩剣城  領主館の西南西1町。一名「剣の崖」という。北東南の三面は高さ1町半ばかりの崖で、西だけが小山に続く。天険の山城である。
 大中公(16代貴久)の時、渋谷氏が守っていたが一度は攻め落としている。
 さらにのち、天文23年(1554)9月には渋谷一族である祁答院氏・入来院氏および蒲生氏・菱刈氏が叛旗を翻し、加治木の肝付兼盛は蒲生範清に攻められ、帖佐は祁答院良重に押領されていた。貴久は岩剣城を南側から攻め、義久・義弘をはじめ忠将・尚久など一族総力を挙げて戦った。この時に忠将は鳥銃を使用している。10月3日、ようやく加治木も帖佐も重富も島津方に帰した。
忠将は鳥銃を使用…鳥銃とは鉄砲のことで、この時の実戦使用はわが国では初めて。
 織田信長が鉄砲隊で実戦使用した長篠の戦いは1575年であるから、その21年も前で、種子島に伝えられてからわずか11年後のことである。
平松城  領主館の地がその城址。周回は378間、高さ8尺ほどの石垣が廻る。岩剣城は険阻な山上であったため、城主は平時はここに居住した。慶長5年(1600)の関ヶ原戦役から戻った松齢公(18代義弘)がしばらく住み、その後は加治木に移った。 領主館の地…越前島津家(重富家)の館。普段は鹿児島城下に住んだ。
狩集御陣営  領主館の南南西10町ばかり、平松村。天文23年(1554)、渋谷氏との戦いの時に陣所とした。岩剣城からは5町余りである。
日当比良
御陣営
 領主館の西13町、平松村。岩剣城からは8町ばかりある。
惣陣鹿倉山  領主館の南南西5町。岩剣城の西5、6町に当たり、平松村第一の高峰。貴久の岩剣城攻めでは総陣が置かれた。
古戦場合記  ○星原 平松原 池島原 八牟礼 焼山 蒲生陣 平松川…いず れも天文23年、岩剣城攻めの際の古塁・古戦場である。
諏方ヶ城  領主館の北北東17町余、平松村にある。帖佐・建昌城の西6町にある山城で、東西に長く、南北は水田に臨んでいる。 建昌城…けんしょうじょう。帖佐郷を参照。

  
【蒲生郷】 ※地頭館は久徳、現在の姶良市蒲生町総合支所の場所にあった。

<山 水> 概     要 備  考
山岳合記  ○真黒岳 黒岩岳(白輪村) ○はさま山(西浦村)
諸川合記  ○前川…水源は入来村 ○後川…水源は漆村
瀑布合記  ○中山瀑布(西浦村) ○広瀑(漆村) ○左箙(えびら)ノ瀑(白輪村)
<居 処>
青色野馬牧  地頭館の南南東32町余。久徳・米丸および山田郷・帖佐郷に係り、周回2里半、養馬60頭ばかり、春駒を採る。
<神 社>
正八幡若宮  地頭館の北1町余、久徳村。祭神は三座あり、中央が応神天皇、左は仲哀天皇、右は神功皇后。社記に由緒が書かれており、
 鳥羽天皇の保安四年(1123)、藤原舜清(ちかきよ)は大隅国に下り、若宮八幡を奉祭して現地に勧請したという。
 さらに伝承では、父の教清は宇佐八幡の留守職として下った際、宇佐神宮の大宮司の娘を娶ったその子が舜清で、その縁から宇佐八幡を勧請したという。
 藤原舜清は当地に根付き、名を「蒲生上総介舜清」と改め、蒲生氏の祖となった。
大隅国に下り…藤原舜清がまず最初に入部したのは垂水であった。荒崎の山手にある垂水元城は舜清の居城と伝えられている。
神社合記  ○愛宕宮 ○楠田大明神社 ○山之神祠 
<仏 寺>
精水山授福寺
神守院
 正八幡若宮の右隣りにあり、宮の別当寺である。本府大乗院の末で真言宗。
大定山護法院
永興寺
 地頭館の北東2町余、久徳村。能登国の曹洞宗総持寺の末で、当郷の菩提所である。当寺は蒲生清寛の開基で明徳年間(1390〜1394)という。寺禄は54石。
東光山仏生寺
千手院
 地頭館の東南東9町余、本城より東北の麓にある。本府大乗院の末で真言宗。
 大中公(16代貴久)が蒲生を攻略して手に入れたあと、城の鬼門に当たるとして創建し、祈願所とした。
愛宕山仙霞寺
神護院
 地頭館の東13町余にあり、本尊は勝軍地蔵で運慶作という。この本尊地蔵は坊津一乗院に二体あったのを、一体をここに移したものである。
仏寺合記  ○瑞応山法壽寺(臨済宗) 
<旧 跡>
蒲生古城  地頭館の南南東12町余、本城とも呼んでいる。蒲生氏累代の城である。
 蒲生氏の出は藤原氏で、従三位藤原通基の子・教清が豊前宇佐郡に入部した歳、宇佐八幡大宮司家の娘を娶り、舜清(ちかきよ)をもうけ、のち舜清が大隅に下って蒲生に入り、土着した。それ以降は蒲生氏を名乗って18代、範清の時に島津氏の軍門に降った。
 城は本丸以下五城から成り、総じて「龍ケ城」と言われている。
蒲生氏累代の城…初代・舜清から数えて18代目の範清まで居城とした。
尼ヶ城  地頭館の南南東25町余り、大中公が蒲生攻めの時に本隊を陣営させた。
北村城  地頭館の北北西3町余、北村にある。蒲生の支族・北村氏の居城である。
旧跡合記  ○荒平 ○向城 ○馬立の陣 、○菱刈寨(陣) ○切手園陣
 ○弟子丸播磨守戦死の石塔 

【山田郷】 ※当郷は帖佐郷の北西および蒲生郷の北東を割いて新立した。地頭館は山田小学校の場           所に置かれた。

概     要 備  考
<山 水>
鉢の峯  地頭館の北3里20町余り、甑村にある。急峻な独立峰である。 現在の県民の森よりさらに北にある烏帽子岳(703m)を指しているか。
大 川  源流は黒木村(薩摩郡)。甑村を流れ下り、帖佐郷に入る。 現在の山田川。
<神 社>
黒島大明神廟  地頭館の北東26町余、山田村上名の山腹にある。祭神不明。昔、鈴木三郎と云う者が勧請したと伝える。麓に拝殿があり、神廟は1町ほど登った所にある。古来、女人禁制である。
 はじめは山頂にあったのを寛永6年(1629)6月に流失。しかし神体は山中で見つかり、現在地に祀った。社司は川俣氏。
神廟…廟というからには墓所のことである。祭神が不明なのも、古代以前の現地首長クラスの人物の墓だったからだろう。
<仏 寺>
宝珠山勝高寺
正田院
 地頭館の西9町余、山田村下名にある。本府大乗院の末で真言宗。本尊薬師如来。眺望がよく、ここへ足を運ぶ者は吟情を述べたくなるところである。 観音堂・白山権現社がある。
玉城山禅福寺
陽春院
 地頭館の東13町余、山田村上名にある。福昌寺の末で曹洞宗。
先住の和尚の夢に「吾は鎮西八郎為朝なり。法号を日照東本という。この伽藍に位牌を安置し菩提を修せよ」とあり、夢のままに〈日照東本〉という木の位牌を作り供養している。
鎮西八郎為朝…源為義の八男で、九州に下ったので鎮西八郎を称した。頼朝の叔父にあたる。
 下記、玉城山に詳しい。
仏宇合記  ○瑞龍山東光院来福寺…相模の藤沢山時宗の末。
<旧 跡>
松坂城  地頭館の西北西2里14町余、木津志村にある。蒲生氏18代範清が叛いたとき、ここを中村某が守っていた。弘治2年(1556)10月、大中公(貴久)はじめ義久・義弘・忠将・尚久諸将が攻め、蒲生範清と渋谷良重の連合軍と戦って壊滅させ、その勢いでついに蒲生氏は陥落した。
玉城山  地頭館の東17町余、山田村上名にある。俗に鎮西八郎為朝の居城と伝える。為朝の来歴について確説はないが、為朝は六条判官為義の八男で武勇絶倫に過ぎ、13歳で鎮西に追放同然でやって来た。鎮西八郎と称し、また九国(九州)の総追捕使を自称した。肥後の阿曽平四郎忠景の三男・忠国の婿となり、15の年には九州各地を攻略して回った、という。 為義…八幡太郎義家の孫。長男・義朝を筆頭に10人の男子がいる。
阿曽平四郎忠景…薩摩藩の旧記にある阿多平四郎忠景のことか。
為朝城  地頭館の北16町余、山田村上名にある。
野神牧址  地頭館の北3里余り、甑村にある。『三代実録』に「貞観3年(861)10月8日、大隅国吉多・野神の二牧、馬多く蕃息して、百姓の作業を害するに縁りて廃す也」と見える。今の北山牧はその跡である。 三代実録…藤原時平らの撰修。清和・陽成・光孝三代の天皇紀。延喜元年(901)成立。六国史の第六(最後)である。


【溝辺郷】
 ※地頭館は大字・有川の石原にある。旧溝辺町役場のところと思われる。

概     要 備  考
<神 社>
鷹大明神社  地頭館の東南東29町、溝辺村にある。祭神ははっきりしない。古来、神体神秘の旨あると言い、窺うことを許されない。
 社伝には応永18年(1411)に勧請したとある。社殿造立の宝徳3年(1451)の棟札が存在する。当郷の宗廟で、社司は宗像氏である。
宗廟…総廟に同じ。廟は墓であるから貴人が祀られているに違いない。
・宗像氏…北部九州の航海民が祀っている貴人とは?
蔵王権現社  地頭館の南南東2里22町余、崎森村にある。金峰山の蔵王権現を祀る。享徳2年(1453)の棟札がある。
神社合記  ○一之宮大明神社 ○熊野権現社 ○福玉大明神祠
<仏 寺>
祥峯山梅谷寺
大定院
 地頭館の北3町余、有川村にある。本府大乗院に末で真言宗。当郷の祈願所である。本尊、不動明王。肝付氏の創建のようである。 肝付氏…ここに入部した肝付氏は本流を離れた兼光で諸県郡大崎郷を経てやって来た。
瑞泉山心慶寺  地頭館の南南東1里9町余、溝辺村にある。福昌寺の末で曹洞宗。本尊、地蔵菩薩。肝付兼光が建立し、菩提所とした。心慶は兼光の法号らしい。正徳年間に火災に遭い、文書などが焼失した。 肝付兼光…兼光は肝付氏本家12代兼忠の3男。2代は兼国、3代は兼演、4代は兼盛。兼盛の時、喜入郷を私領とし、以後島津氏の重臣となった。
<旧 跡>
看初城  地頭館の東南1里8町余、溝辺村にある。心慶寺の後ろの山で、四面ともに岩壁を成している。「看初城」と書いて「みそめ城」というが、その由緒は分からない。諸記に溝辺城という名は出てくるので、もとは「みぞべ」が「みそめ」に変化したのだろう。
 延文3年(1358)、足利方の畠山国顕が加治木に、また帖佐・萩原城には執事の野元秀安がいて、ともに溝辺城を攻めようとしていた。溝辺城に居たのは島津氏久(第6代)の執事・本田重親であった。両者睨み合いの頃、正八幡の社司が和議を仲介して来たので双方の囲みは解けたという。
旧跡合記  ○高松城…北原氏(肝付氏流)の居城という。 ○玉利城 ○曽我石…曽我兄弟のうち兄の曽我十郎の許嫁であった大磯の虎女の発願石という。  大磯の虎女…曽我十郎の許嫁。十郎の死後、各国へ曽我石を置き、供養としたという。

   大隅国・姶羅郡・重富、蒲生、山田、溝辺各郷の項、終り。       目次に戻る