『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

   第12回 特 別 講 義「伊都国」を訪ねて  (H25.3.24)

※ 3月21日から23日にかけて講座主は『魏志倭人伝』中の九州島国家「伊都国」に比定されているを福岡県糸島市(旧前原町)を訪ねた。そのため24日(日)に予定されていた通常の講座の準備が間に合わず、今回はその糸島市の現地状況を話すことにした。

 《魏志倭人伝に描かれた倭人の時代は3世紀前半であり、歴史上では主に考古学の分野から解明される時代相で、時代区分からいえば「弥生時代後期後半」ということになる。巨大古墳である前方後円墳の造営され始める約100年くらい前の時代である。
 
  糸島市の旧前原町では倭人伝時代より100年ほど前に「平原王墓」が、それよりさらに100年前には「井原鑓溝(やりみぞ)王墓」が、さらにさかのぼること150年ほど前に「三雲南小路(みなみしょうじ)王墓」という三つの「王墓」が発見されている。

  旧前原町の民間考古学者・原田大六によれば、古い方の二つの王墓は「甕棺墓」であり、北部九州に独特の墓制そのものだが、発掘に全面的にかかわった平原王墓は「割竹形木棺墓」で、これはのちの古墳時代に盛行するタイプの先駆けであるという。

  さらに副葬されていた40枚の銅鏡の中に「八咫の鏡」と同じサイズの巨大な銅鏡と玉類及び剣が見つかったことで、原田は<平原王墓は「記紀神話」に言う「天孫降臨(日向)神話」に登場する人物(女性)であり、そのことはこの前原の地で現実にあったことと考えてよい>と唱え、『実在した神話―発掘された弥生古墳』(昭和41年初版・学生社刊)を著している。

  邪馬台国の所在地について原田は畿内説をとった。というのはこの平原王墓の主(女王)が亡くなったころ、倭国では大乱があり、その原因は平原王墓の主の子または孫がいわゆる「神武東征」を敢行して 畿内大和に最初の王権を樹立したと考えたからである。平原王墓の主を原田は日向神話でウガヤフキアエズ尊の妻とされている「タマヨリヒメ」と特定している。

  邪馬台国が九州にあり、その邪馬台国が東遷して畿内大和王権を打ち立てたとする説(邪馬台国東遷説)は結構多いが、原田はそれより100年位前の「倭国の大乱」こそが「神武東征」の姿であり、畿内大和王権を樹立したあと故地であるここ前原「伊都国」に「一大率」を置いて、九州方面の統治を行ったとみるのである。

  以上の原田説では 
@ 魏志倭人伝では佐賀県唐津市に比定されている「末廬国」からの<東南陸行500里にして伊都国に到る>としてある倭人伝の記事に適合しないこと。もっと言えば伊都国が糸島市なら壱岐国から唐津で船を捨てて陸行しなくても直接糸島市へ入港すればよい―という不審に反論できないこと。 
A 伊都国から大和へは東である。魏志倭人伝ではすべて南と書いているが、南を「東だ」とする根拠があいまいなこと。邪馬台国畿内説では末廬国以下の方角をすべて現在の大和地方こそが邪馬台国であるとしたいが為に、方角を自説に都合の良いように改変しているが、原田説もその誤謬を犯していること。
  などから首肯は出来ないが、それでもなお平原王墓以下の三王墓の存在は糸島に弥生時代を通じて 強大な国家があったことを証明しており、その国家の系譜と列島の統一王権(いわゆる大和王朝)成立  の間に何の関係もなかったとすることは不可能だろう。

  以上のようなことを講義で述べ、魏志倭人伝の伊都国までの行程記事の読み合わせを行った。》

  
以下に、現地の資料館「伊都国歴史博物館」発行の『常設展示図録』からの引用を掲示しておく。
 
弥生時代前期の「支石墓」の分布図。
 支石墓は遼東半島から九州西北部に見られるテーブルストーンを墓標とした墓で、朝鮮半島北部以北は巨石を背の高い支柱石によって支える
形式。それより南は支柱石は著しく低い。
 E里田原支石墓(平戸市) F葉山尻支石墓(唐津市) G原山支石墓(島原市)
糸島市の支石墓

 @志登支石墓 A新町支石墓 B井田用会支石墓 C三雲石ヶ崎支石墓 D石崎矢風支石墓
E長野宮の前支石墓
 上の二枚の地図から察せられることは、支石墓の発見地は著しく海岸近くに
片寄っているということである。航海民の墓制ということができるのではないだろうか。その主体は倭人か。 
原田大六の発掘した「
平原弥生古墳」全景。(昭和40年) 
 原田は左上のような光景を復元し、この王墓の主(女性)に対し、冬至の日の日の出の太陽光線が埋葬された女王の股間に当たるように王墓が造られたと考えた。そのときの日は平原から東南に位置する「日向(ひなた)峠」から出るからである。
平原王墓からは被葬者が女性であることを断定させる数多くの装飾玉類が見つかっている。とくにガラス製品が多いのが特徴である。
圧倒される銅鏡の副葬品。全部で40面あるが、中でも直径46.5センチもある5枚の巨大な「内行花文鏡」(国産鏡)は見るものを圧倒する。この直径だと、円周率を掛ければほぼ「八咫」(親指の先から人差し指の先までの長さを一咫とし、その八倍あるということ)で、これこそがまさに「八咫の鏡」の原型であろうと原田は考えたのである。
 ただ、奇妙なことにこれらの銅鏡は破砕された状態で見つかっており、その破砕は決して土圧によるものではなく、埋葬する前に人為的に破砕したものだということである。その意味は解明されていない。

 以上、図録からは平原王墓関連に限って掲載した。

 糸島市の弥生時代の先進性には目を見張るが、弥生後期になると北部九州では鉄器の副葬が俄然増えてくるのに、平原王墓では素環頭太刀以外に鉄製品が見当たらないのはやや不思議な印象をうける。それこそが「女王墓」の特徴なのかもしれないが・・・。


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