『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

   
第2回  薩摩国 鹿児島之一    (H25.5.19)

※本府(城下)鹿児島のことである。藩主の居城「鶴丸城」は城山の下、今日の黎明館の辺り一帯を占めていた。

概      要 備  考
鹿児島郡総説  <鹿児島の文字名義及び旧域>
 鹿児島という文字の初見は『続日本紀』の天平宝字8年12月条に「大隅・薩摩両国の境・・・鹿児島信爾村之海・・・」とあるのが初めてである。
 語義については「ヒコホホデミ命が竜宮に行ったときに乗った<無目籠(まなしかたま)>の籠から」という説や、「ホホデミを祭る鹿児島神宮の後方の山を<鹿児山>と言ったから」という説などがあるが、どちらも決定的ではない。
天平宝字8年…764年。淳仁天皇の代。この年淳仁天皇は淡路島に流され、代って称徳天皇(孝謙天皇重祚)が立つ。
鹿児島之一
<山 水>
多賀山  鶴丸城の北、東福寺城に連なる岡である。多賀神社が建つ。
○多賀神社…多賀山の麓にあり、祭神はイザナギ命。天正7年(1579)近江国の多賀大明神を勧請して建立した。
神月川  源流は郡山邑で、本府の中心を流れる。神月川という名の由来は中流にある宇治瀬神社の神嘗月の祭に因むという。
○伊敷の堰…小野・草牟田・永吉・原良・西田・武・荒田各村々 の田園を潤している。
d木川  吉田郷宮之浦村より流れ、坂元村の稲荷神社・大乗院近傍を経て祇園の浜に注ぐ。
夏箕瀑布  稲荷神社の北一`余りにある。細川幽斎が鹿児島に遣わされた時、歌を詠んでいる。

  <ここもまた よし野にちかき なつみ川
           ながれて瀧の 名にやおつらん>

○滝之上観音…石像の千手観音。寛永14(1657)年に造立。
細川幽斎…文禄の役の時に起きた「梅北一揆」へのお仕置き(薩摩御仕置)で薩摩入りした。秀吉から功により高隅3000石を賜った。古今伝授を受けた文化人でもあった。1534年〜1610年。
田上川 源流は犬迫村。最下流の郡元村では新川という。
小山田瀑布 御城の北、小山田村の平城の北にある。高さ5丈5尺(16、5b)
近衛水  御城の西北、坂元村の冷水に涌く霊水。文禄・慶長の頃、近衛信輔公が鹿児島に蟄居させられた時に硯水として用いた故にこう名付けられた。 近衛信輔…文禄の役の時に左大臣でありながら朝鮮に渡ろうとして勅勘を蒙り、文禄3年、坊津に流された。
大磯  吉野村の海辺。万治年間(1658〜61年)、寛陽公(19代光久)が別館を構え、仙巌喜鶴亭と名付けた。 ・観光名所「仙巌園」の由来である。
田之浦  御城の東北、祇園の浜から大磯に至るまでの海辺。大磯の南側に続く海岸で、大磯とはまた違った風趣を展開している。
「夜光る玉も何せん薩摩潟」と言われるように、まさに城を傾けても惜しくないこの地の風景である。
尾畔 おのあぜ。西田村と原良村との境で山の尾根が麓まで延びてきて田の畔に接している様から名付けられた。雅趣に富む。
近衛桜 原良村の島津久誠別邸にある。近衛殿の京都桜御所の糸桜と同種である。天を覆うような数十丈の広がりを見せる。 近衛殿…上記の左大臣信輔。坊津には3年間おり、慶長元年(1596、)許されて京都に帰った。
鹿児島八景  ○南林晩鐘 ○洲崎落雁 ○開聞暮雪 ○南浦帰帆
 ○桜島秋月 ○大磯夕照 ○田浦夜雨 ○多賀晴嵐
福永門八景 西田村の福永門(かど)から眺める八景。
 ○水上晴嵐 ○常盤谷夜雨 ○新上橋夕照 ○築地帰帆
 ○了性寺晩鐘 ○野元秋月 ○尾畔落雁 ○桜島暮雪
松見崎十二景 荒田村松見崎からの眺望を小松清香が品題を選んで和歌にし、京都の日野中納言資枝が唱和して書にした。小松家に所蔵されている。
 ○高隅朝霞 ○桜島春月 ○荒田蛙声 ○燃崎白雨
 ○境川千鳥 ○開聞暮雪 ○洲崎浮鴎 ○隣村夕照
 ○青屋晴嵐 ○松原晩鐘 ○軽沙漁火 ○遠帆連波
小松清香…禰寝(根占)氏第24代。根占氏は17代重張の時に日置郷吉利に改易された。清香のとき、祖先としている平重盛の通称「小松殿」に因み、姓を改めて小松とした。
<居 処>
造士館  府城の二の丸の前にある藩の学校。安永2年(1773)に大信公(25代重豪)が創建した。
 藩の朱子学の歴史は円室公(11代忠昌)時代に桂庵玄樹を招聘した時からのもので大変古い。以後、月渚和尚・一翁和尚・文之和尚・一渓和尚・如竹上人等と知識人が続出している。とくに文之和尚は「文之点」を発明して四書五経の解読に多大の貢献をしている。
 創建の時に大信公は江戸の儒学者室鳩巣の孫弟子に当たる山本正誼(まさよし)を教授として招いた。
○講堂 ○学寮 ○文庫
桂庵玄樹…けいあんげんじゅ。「程朱の学」を日本で始めて体系化して教えた。京都五山出身で足利幕府の命により明国に留学、幕府以外にも各地に招かれ、最後は鹿児島の伊敷に「東帰庵」を建てて隠居し、帰幽している。
演武館  造士館の北隣にある。安永3年(1774)大信公の創建。文武二道に精通した士を育てるために設置。
明時館  造士館の東南、中福良にある。安永8年(1779)に創建。 ・今日の繁華街・天文館は明時館に因んでいる。
医学院  安永3年(1774)、造士館の斜め向かいに創建。
○神農廟…中国伝説の医術の祖・炎帝神農氏を祀っている。
琉球館  府城の東北、新橋の近傍にある。藩の所轄である琉球国の吏員が常在している。 ・薩摩藩は慶長14年(1609)に兵士を送って琉球を統属した。
佐土原邸 日向佐土原藩は薩摩藩に属しており、藩主や使者が来鹿する時に宿泊する邸宅。 佐土原藩…垂水島津家2代以久が入り、三男忠興からは幕末まで続いた。
吉野馬牧  吉野村の内にあり、周囲は7里ほどもある。牧の広さにおいては福山牧には適わないものの、ここの馬追いは壮観で福山牧を凌ぐ勢いがある。
○ペルシャ牧…異国の馬種が囲われている。
ジャガタラ馬牧  比志島村にある。
薬園  吉野薬園。大信公が安永8年(1779)に造らせた。
<橋 道>
西田橋  府城の西南、西田村にある。甲突川にかかる欄干橋で青銅の擬宝珠には「慶長17年(1612)6月吉日」と刻銘されている。城内と城外の境目をなし、橋の東側には郭門がある。城外の商店街の人出と賑やかさは目覚ましいほどである。
○新上橋・高麗町橋・武之橋…新上橋は西田橋の上流側、他  の二橋は下流側にある。
・これらの四橋は弘化年間(1844〜1848年)に相次いで石橋に改修された。さらに上流の玉江橋を加えて「甲突川五大石橋」といった。
 しかし平成5年(1993)の8・6水害で新上橋と武之橋は流失し、無事だった三橋も撤去されて石橋公園に移築された。
新橋  琉球館のある地区の堀割に架かる欄干橋。西田橋と同じ時期に架けられた。西田橋は城下の西南、新橋は東北を画する要の橋である。
孝行橋  坂元村の浜町に住む池田正右衛門という人物は、中風で身体の不自由になった母を介護して30年怠らず、ついに孝行者として褒賞を受けた(宝永4年)が、新しく与えられた家が堀割の向こう築地に建てられ、その近くに橋も架けられたので「孝行橋」と呼ばれるようになった。
 『重建孝行橋記』(じゅうけんこうこうばしのき)という石碑が建てられている。(安永5年=1776年に造士館教授・山本正誼が碑文を書いた。)
・山本正誼が「重建」としているのは、褒賞された宝永4年(1704)にまず最初の橋が架けられ、その後70年余りして、新しく付け替えられた橋だからである。
永安橋  d木川の下流、多賀山の麓の祇園神社と抱真院との間に架かる。最初は抱真橋と言われたが、天保13年(1842)の春に石橋に改修されてからは永安橋となった。。 天保13年…『三国名勝図会』の完成は翌天保14年。これはもっともタイムリーな記事であろう。
鼓橋  d木川上流の吉野村実方にある。板石を重ねて渡すだけの柱無しの石橋である。
鳥越  吉野村にある。諏訪神社の左手から登って行く道で、昇降屈曲しながら大磯に至る。大磯への海岸道ができる前はこれが本道であった。 諏訪神社…府内の宗廟と言われる。信州諏訪大社を勧請。祭神・タケミナカタ命。
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