『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

     第4回  薩摩国 鹿児島之四
    (H25.7.21)


※『三国名勝図会』巻之五は薩摩国・鹿児島之四「仏寺の二」で玉龍山福昌寺のみを取り上げて  いる。福昌寺は薩摩藩主の菩提寺でもあり、曹洞宗の禅堂で西国の巨刹として名高く、藩政時代には僧侶・学僧など1500人が修行していたという。


概      要 備   考
玉龍山
福昌寺

(曹洞宗)
鎮座地…鹿児島(鶴丸)城の北。坂本村、長谷場にある。
創建時期…応永元年(1394)。創建者は恕翁公(第7代元久)、開山は石屋真梁(せきおくしんりょう)。
開山・石屋真梁(第一世)
 石屋真梁は島津一族の伊集院忠国の子として伊集院に生まれた。母は阿多氏。貞和元年(1345)7月17日に誕生。
 6歳で伊集院の広済寺に入門、15歳の時に京都南禅寺に就学、剃髪した。27歳で諸国行脚を開始し、丹波国の永沢寺の通幻和尚のもとで開悟した。
 その後、下野国宇都宮・能登国総持寺に遊学し、40歳の応永元年に郷里に戻り、第7代元久の篤い帰依を得て長谷場氏の居城であった場所に福昌寺を開いた。恕翁公は寺禄1350石(宇宿村)を寄進している。
 応永30年(1423)5月、最大の師匠であった通幻和尚の33回忌法要が丹波永沢寺で行われた時に出向き、斎会(法事)を執行したが、この時に諸衆に対して「私が今日までかろうじて生き永らえたのは、今日の先師の法要のためであった。もう願いは叶った。」と、5月11日に斎戒沐浴ののち安座したまま世を去った。行年79。
竹居和尚(第二世)
 竹居正献。真梁の高弟。長氏。応永23年(1416)、後嗣となる。
寛正2年(1461)遷化。行年82。
仲翁和尚(第三世)
 島津守邦。恕翁公(第7代元久)の嫡男。恕翁公は仏心が篤く、嫡男ではあったが出家を許した。当然、藩臣の中には世継の出家に反対する声があったが、自ら「富貴栄達より三界の大導師になりたい」との強い意志を覆すことはなく、島津家第8代は叔父の久豊(義天公)が就任した。
創建の由来
 第7代元久(恕翁公)が出した印文にこう記されている。
<始祖の忠久以来ここに7代を数えるが、三ヵ国に寺を一宇も領持していないので、初めて福昌寺を創建した・・・云々>
 戦国期を迎えて寺運が衰微したが、大中公(15代貴久)の時に再興され、宇宿村の寺禄も回復された。
勅願所となる
 天文15年(1546)、後奈良天皇より勅願所の綸旨を賜り、時の住持・忍室和尚は「仏照大円禅師」の号を貰った。
 また、天明3年(1783)からは、住持の代替わり毎に将軍への拝謁が行われるようになった。これは将軍家より宥邦公(第22代継豊)に嫁いできた浄岸夫人(竹姫)の法事を斎行したことから始まっっている。その背景には朝廷の勅願所としての格式があった。
105代後奈良天皇(在位1526〜1557年)の綸旨
「当寺、勅願の浄場と為りて、宜しく(天)皇家再興を祈り奉るべきの由、天気(天皇の心)候ふ所なり。よって執達くだんの如し。
  天文十五年三月八日
     福昌寺住持和尚 」
・鎮座地…現在の池之上町。鹿児島市立玉龍中高一貫校がその一部である。
・伊集院忠国
…伊集院氏の4代目。伊集院氏は始祖を久万(ひさかず)といい、久万は島津氏二代目の忠時七男忠経の八男。
 島津忠久ー七男忠時ー八男忠経ー久万ー久親ー忠親ー忠国ー石屋真梁(〜1423年。79歳)
久豊(義天公)…島津氏第8代。元久の弟。父は第6代氏久。
※三国名勝図会では藩主の名は書かず、総て法号(戒名)で表しているのでここに初代忠久からのを記しておく。(公は省略)
 忠久(得仏)忠時(道仏)久経(道忍)忠宗(道義)貞久(道鑑)氏久(齢岳)元久(恕翁)久豊(義天)忠国(大岳)立久(節山)忠昌(円室)忠治(蘭窓)忠隆(興岳)勝久(大翁)貴久(大中)義久(貫明)義弘(松齢)家久(慈眼)光久(寛陽)綱貴(大玄)吉貴(浄国)継豊(宥邦)宗信(慈徳)重年(円徳)重豪(大信)
斉宣(大慈)斉興(金剛定)斉彬(順聖)
忍室和尚…にんじつ。第十五世住持。天文18年にヤジローを伴って鹿児島城下にやって来たイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルと宗教問答をしたことで有名。福昌寺門前がザビエルの説教場になったが、大目に見ていた。
将軍への拝謁…これを<一住一度独礼並びに乗輿格式>という。「住持が就任したら挨拶に来なさい。輿に乗って江戸城に登城してよろしい」というもの。
竹姫…第5代将軍・綱吉の養女。

三国名勝図会より「福昌寺(其の一)」
門前と池(智日池)

「福昌寺(其の二)」
…方丈伽藍の図

         
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