『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

 
 第5回 薩摩国 鹿児島之六(鹿児島城下旧跡)及び吉田郷   (H25.8.18)

 
 ※この項では、鹿児島城下の旧跡と吉田郷を扱う。

   < 鹿児島城下の旧跡 >

概      要 備  考
<旧 跡>
東福寺城  本府府城の東北、安養院の裏山に当たる。
 旧記に暦応3年(1340)に肝付兼重・中村弾正忠秀純らがここに拠っていたが、翌4年(1341)、島津貞久(第5代)がこれを抜いた。敵はしばらく尾頸小城〉に移って抵抗したが、やがて氏久(第6代)の居城となった。
 その後氏久は大隅の大姶良城に移り、志布志内城を経て再びここに入った。
(※東福寺城址の説明によると、東福寺城の築城者は長谷場永純で永純は藤原純友の4代目という。天喜元年(1053)の築城は三州で最も早いとされる。)
肝付兼重…肝付氏第8代。三俣院を領有していたが、本家を継いだ。南朝方の雄。
氏久…島津氏6代。志布志に入ったのは楡井頼仲死後の正平12年(1357)であった。
清水城  府城の北、大興寺の後方山上にあり、古書に「鹿児島本城」とするものもある。
 志布志内城から東福寺城に移った氏久は手狭なので本城を築こうとしたが果しえず、次代の元久がこの城を築き本城とした。この城は元久(7代)から勝久(14代)までの8代が居城とした。
大興寺…現在の清水中学校一帯にあった。
元久…島津氏7代。大姶良城で生まれている。
・元久ー久豊ー忠国ー立久ー忠昌ー忠治ー忠隆ー勝久の8代。
伴氏館所  下伊敷村の妙谷寺の裏山にあった。伴兼行・行貞・兼貞3代の居館という。
 伴氏の系図によれば、安和元年(968)に伴掾大監兼行は薩摩国総追捕使に就任、翌年鹿児島郡神食村に下向し、そこに「四丁町の居館」を建てて居住した。
 (系図)余那足(内大臣)ー善名(大納言)ー国道(大納言)ー善男(大納言)ー仲用(右兵衛督)ー仲兼(河内右馬頭)ー兼遠(判官代)ー兼行(従五位上・三河守)ー行貞(無官)ー兼貞
 兼行の孫・兼貞は大隅国肝属院を領有して肝属に下り、高山本城に居城した。 
伴兼行…天智天皇の大友皇子の子・余那足から始まる系譜という。その第8世が兼行。
四丁町…4丁×4丁の広さ。丁=町で108b。約16万u(5万坪)。
兼貞…一説に島津庄を開いた平季基の女婿となり大隅に渡ったとする。
催馬楽城 さいばら(せばる)じょう。坂本村にあり、「矢上城」とも伝えられる。
 暦応3年(1340)、肝付兼重らと島津貞久に抵抗した矢上高純の居城で、3年後の康永2年には陥落した。
 この地名は、「催馬楽」という音曲を歌う場所(隼人の居住地)であったことから名付けられた。その東には「たんたど」という地名があるが、「たんたん」も「どんどん」も太鼓(鼓)の音の響きで、躍りながら太鼓や鼓を打つ風俗歌舞が行われた所らしい。
 隼人司の規定では大嘗祭式において隼人は吠声や歌舞を奏することになっており、そういう伝統につながるものであろう。
催馬楽…平安時代初期から庶民の間に起こった歌謡で、これが宮中に取り入れられると楽器を使用する音曲となり、雅楽にもなった。
 基本的には舞いは付かない。
谷峯城  西田村の山王社の裏山にある。
 暦応2年(1341)に島津貞久が東福寺城を落とした時、敵はこの城に移って抵抗し、上山城(府城)を攻撃しようとした。
比志島城  比志島村にある。満家栄尊以来、満家氏代々の居城であった。満家(みつえ)はこのあたりを含む荘園「満家院」から採った名である。栄尊は信州守護・志田頼重の子で配流されてやって来た。
高 城  小山田村にある。「小山田城」ともいう。建武年間に小山田景範が入城して以来小山田氏の居城となる。
 応永21年(1414)に伊集院頼久が小山田城を襲ったことがある。
伊集院頼久…伊集院忠国の孫。福昌寺開山石屋真梁の甥。
野本原  府城の南、武村にある。南北朝時代の文和3年(1354)に、日向守護・畠山直顕が進出して野本・原羅に陣を敷き、氏久と戦ったことがあった。
原羅営  府城の西、永吉村にある。野本原と同じく文和の頃、ここに足利方日向守護・畠山直顕が陣営を設けた。
 応永21年(1414)の伊集院頼久の叛乱では頼久はここに追い詰められ自害しようとしたが、許されて伊集院に帰った。
青屋松原  府城の東南、郡本村の海辺。
 観応年中(1350〜52)に谷山郡司・平忠高が反したので、貞久は谷山波平に陣してこれと戦った。一書に康永元年(1342)とする。
康永元年…1342年。この年に征西将軍・懐良親王が谷山に上陸している。
牛 落  谷山街道の途中にあり、東側は海崖である。俗に「牛かけの浜路」と称す。谷山郡司・平忠高の弟・祐玄が陣を敷いた場所である。
紫 原  郡本村。牛落に続いている。
 天文8年(1539)、貴久は谷山本城の城主・禰寝播磨守とここで戦い、播磨守以下を討ち取った。
貴久…島津氏15代。伊作島津家の忠良の長男。鹿児島大龍寺址の内城に居住していた
陣営戦場等
の合記
○四郎ヶ坂…下伊敷にある。伊集院頼久との戦いが行われた。
○青木の叢…武村にあり、野本原合戦の時の首塚という。
○岩崎陣…小野村。  ○烽火台…草牟田村の山岡の上にある。火立て番屋といい、外夷の侵入を発見して中央に知らせる役目があった。
烽火…のろし。これは火を立てるので夜間でも使われたが、「狼煙」のほうは昼間専用であった。
唐 渚  中村にある。昔は海浜で、唐土からの船の停泊地であったので、こう名付けられた。 ・現在は「唐湊」(とそう)として残る。
 桂庵和尚
  の墓
 府城の西、上伊敷村梅の淵にある。
桂庵和尚は周防の山口の生まれで、若くして京都南禅寺に上がり双桂禅師に付いた。参禅の傍ら四書五経をも学び、41歳の時に明国への留学僧に撰ばれ滞在すること7年、文明5年(1473)に帰朝した。
 ところが京都は戦乱の渦中にあり、最初、石見国に出かけ、間もなくして九州に下り、まず熊本の菊池氏に身を寄せた。その後文明10年(1478)、薩摩に招かれ、市来の龍雲寺に入った。しかし円室公(11代忠昌)は翌年和尚を府内に招聘し、一寺を立てて遇した。その寺を「桂樹院島陰寺」という。
 和尚の漢籍に対する学識は名高く、学びに来る者が多数おり、ために文明13年(1481)、ついに家老であった伊地知重貞と計らって「大学章句」を版行することになった。実に日本における四書新注の最初であった。
 長享2年(1488)、和尚は島津忠廉の領有する日向国飫肥に赴任して交易船の許可証や交易品の事務一切を掌握した。日向と薩摩を行き来するうちにも弟子は増え、新注の版行もたび重なって行った。
 延徳4年(1492)、和尚は薩摩に帰り、その後明応9年(1500)に京都東山・龍山(南禅寺)に上がり首座となったが、翌年には再び薩摩に戻り、間もなく上伊敷に「東帰庵」を建立して隠棲した。8年後の永正5年(1508)6月15日に庵にて示寂。行年82歳であった。
 和尚の著した「家法和点」は四書五経を解読するために非常な裨益があり、徳川幕府の儒者の筆頭・林羅山を教えた藤原惺窩も、実は明国に留学しようとしてたまたま薩摩の山川港で船待ちをしている時に正龍寺の学僧が和尚の「家法和点」を利用しているのを見て、大陸には行かずに写してそのまま京都に持ち帰ったくらいである。
市来の龍雲寺…島津氏10代立久が寛正3年(1462)に創建した曹洞宗の寺。
伊地知重貞…本貫は垂水だが、この頃は島津氏の家老職にあった。明応5年(1495)、忠昌の命で加治木地頭になったが、大永7年(1527)に叛旗を翻したので島津忠良(梅岳君=日新斎)に討たれた。
島津忠廉…豊州島津家の2代目。帖佐を領有していたが、飫肥に移された。
藤原惺窩…ふじわらせいか。1561年〜1619年。江戸初期の儒学者。藤原一門の冷泉家の出身。大学頭・林羅山はじめ多数の儒学者に大きな影響を持った。
ノ桓石 へっかんいし。西田村南泉院の近く、通路わきにある。ノ桓は茶湯の宗匠・武野紹鴎の弟子だったが、千利休への皆伝伝授に憤り、諸国を放浪の末、薩摩に来て死んだ。その墓標の石である。

 

  
 < 吉 田 郷 >


  ※吉田郷は府城の北、4里半。地頭館は佐多之浦村にある。現在の吉田小学校の場所である。

概要 備考
<山 水>
牟礼岡 むれがおか。南は吉野村に接し、この岡全体は吉野牧に属する。
○牟礼大明神石祠…牟礼岡の頂上にあり、牧神である。
三重嶽  地頭館の西、2里1町余、本名村にある低山で、桜樹が多い。
大 川  水源は3ヶ所。佐多之浦村で三川が合して重富郷に流れ下る。
宮之浦川  井出村の山間から流れ出、川上村を通ってd木川となり、祇園の洲で海に注ぐ。いわゆる稲荷川のことである。
<神 社>
王子権現社  地頭館の北北東8町ばかりの王子原にある。祭神は薩陲彦根命。当邑の宗廟である。 薩陲彦根命…さったひこね命。この祭神は見当たらない。猿田彦のことではないかと思われる。
 天孫を最初に導いた国つ神である。
正一位
正八幡宮
 地頭館の南南西1里13町余にある。祭神は八幡宮三神と吉田清存。当社は吉田権現とも称し、吉田城主・吉田位清の弟で自殺をした吉田清存を祭っていたが、のちに八幡神を合祀して若宮八幡とした。 若宮…神社名に若宮が付加されているのは、若くして亡くなった皇子や嫡子を祭る例が多い。
神社合記 ○華尾八社大明神祠…本城村にあり。大檀那・息長泰清・孝清という文明12年(1480)の棟札がある。 ○鎮守大明神祠 ○大位神大明神祠 ○若宮大明神祠 ○白山権現祠 ○八幡(やはた)八幡神祠
<仏 寺>
仏智山津友寺  地頭館の西北西11町余、佐多之浦村にある。福昌寺の末で曹洞宗。元は吉田若狭守息長清正の香華所であった。
 その後、吉田位清が叛したので島津忠治(12代)が出陣したが、陣中で没したこともあり、位清落城後は島津忠治の菩提所とし、寺の名を改めている。
島津忠治…島津氏12代。父は肝付氏を攻めたがうまく行かず、かえって肝付・禰寝連合軍に攻められた忠昌。13代の忠隆とともに短命であった。
清秀山興化寺  地頭館の北西8町半、佐多之浦村にある。志布志大慈寺の末で臨済宗。
如意山東光寺
寶勝院
 地頭館の西6町余にあり、本府大乗院の末。はじめ吉田氏の創建であったが、吉田氏が衰微して荒れていたのを、吉田郷を領有した島津歳久が再興した。正八幡宮の別当寺。
地蔵堂  地頭館の北北東17町余、佐多之浦村峯高にある。
仏閣合記 ○阿弥陀堂 ○不動堂 ○聖観音堂
<旧 跡>
松尾城  地頭館の西8町余、これを吉田の本城と呼ぶ。吉田氏累代の居城であった。
 昔、三位・大蔵行忠一族が何代か居住したが、天仁3年(1110)、国分正八幡宮の執印・行賢が吉田を得て正八幡領とした。しかし間もなく鎮西八郎為朝の次男という源為重に譲られた。為重はまたこれを外孫の長大夫清道に譲ったが、清道は息長皇子の後裔で息長姓を名乗り、吉田を氏とした。
 清道の子の吉清は頼朝公に仕え、その9世の孫・若狭守清正は島津元久に仕えた。のち重用されるも、その5世孫位清(のりきよ・ただきよ)は謀反し、時の島津氏13代忠隆に敗れた。
 永禄5年(1562)に島津歳久に与えられ居城したが、天正8年(1580)には祁答院に移った。その後は直轄地となり、地頭が置かれることになった。
○島津歳久招魂墓…歳久は竜ヶ水で自害したが、怨霊が止まないので承応3年(1654)になってこの地に慰霊の墓を建立した。
島津歳久…島津氏15代貴久の三男(長男:義久、次男:義弘、四男:家久)で、豊臣秀吉の九州征伐の際(天正15年=1587)に不穏な動きをしたことで秀吉にとがめられ、自決に追い込まれた。
上の城  地頭館の南南西1里1町余、本城村にある。吉田清存の居城と伝える。
古石塔二基  本城村下之坊の阿弥陀薬師堂の庭にある。
 鎮西八郎為朝夫婦の墓という。あるいは島へ下る前に為朝が自ら刻んだ石塔(逆修塔)ともいわれる。
鎮西八郎為朝・・・源為義の八男。鎮守府将軍・頼信流の6世孫。琉球に渡って「舜天王」になったという伝承がある。

     この項終り                           目次に戻る