『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

 
 第6回 薩摩国 日置郡 伊集院郷・永吉郷・吉利郷   (H25.9.15)

   
< 伊集院郷 >

※鹿児島城下から四里半(18`)、地頭館は谷口村にある(現在の伊集院小学校)。建久8年(1197)の薩摩国図田帳に「伊集院180丁(町)」とあるのが初見である。

概     要 備  考
<山 水>
上宮嶽  地頭館の北、3里14町、嶽村にある当郷第一の高山。昔は山頂に熊野権現宮があったので山の名になった。いま宮は里に下りて祀られている。 上宮嶽…551m。神之川の源流で、東北2キロにある八重山(677m)は甲突川の源流であり、分水嶺をなす。
神之川  上宮嶽から発して当郷を流れ、日置の海(東支那海)に注ぐ。
<居 処>
苗代川  地頭館の西北西およそ一里、寺脇村にある。朝鮮の役後に帰化した高麗人の集落で、陶工多く良い製品を作るので「壺店(つぼや)」ともいわれる。
 慶長の役で島津義弘・忠恒親子の奮戦により敵軍38,000余を討ち取ったが、帰国の時に高麗人22姓・44人を引き連れて来たのが始まりである。最初・本府と串木野に置いたが慶長8年になって当地に移らせた。最終的に全員が移住したのは寛文9年(1669)であった。
だが、それ以前の寛永元年(1624)には男女160余名を大隅の笠野原に移住させている。
 朝鮮陶器の製法を伝える。すなわち足で轆轤を回しながら手で巧みに作っていくやり方である。
 風俗の中で神舞があるが、片手に神刀、もう一方には鈴を持って静かに舞うのと、鶴亀舞と言って数十人が旋回しながら踊るものとがある。楽器は太鼓などは朝鮮伝来のものであるが、普通吹奏楽に使う笛の類はなく、その代わり木の葉を笛にして使うのだが、音律にかなっているのは奇観である。
朝鮮の役…文永の役(1592〜3年)と慶長の役(1596〜7)と2回あり、朝鮮陶工が帰化したのは慶長の役の後である。
笠野原への移住…鹿屋市笠野原。「笠野」は肝付町高山に属し笠野原の語源となった古名。
 ここでも陶器を作り始めたので「壺屋」と言われていた。また人口が増えたため慶応2年(1867)、同市内の南部・萩塚に分住している。
<神 社>
 諏訪上下
  大明神社
 地頭館の南南東半町、谷口村にある。由緒に二説あって決しがたい。一は島津忠国に由来するとするもの、もう一つは伊集院忠国に由来するとするもの。いずれにしてもこの神社は伊集院郷の総鎮守の地位にある。 島津忠国…島津氏第9代。1403〜1470年。
伊集院忠国…伊壽院氏4代目。この10男が福昌寺開山の石屋真梁。
稲荷
 大明神社
 地頭館の西南西5町、谷口村上ノ平にある。天文5年(1536)、伊作島津忠良が当郷を攻めた時に本多慶俊に祀らせたところ城を落とせたので、創建したとされる。
熊野新宮
三所権現
 地頭館の東南東5町余、猪鹿倉村にある。祭神は熊野三社と同じ。由緒は始祖の島津忠久公に因むというが明証はない。
智賀尾
六所権現社
 地頭館の北東2里ばかりの嶽村にある。『三代実録』貞観2年(860)3月20日の条に、「薩摩国、従五位下智賀神、授従五位上」とあるのがこの神だろうとされる古社である。
神社合記 ○多賀大明神社  ○古諏訪大明神社…上記の諏訪神社の伊集院忠国による創建よるとされる諏訪神社。  ○福島大明神社…土橋村にある。足利義教の弟で大覚寺義昭を祭る。義昭は義教に反逆したとして日向飫肥に流されたが殺害された。  ○八幡宮…麦生田村の城下にある。肝付氏族・橋口兼弘が創建した。祭神は大友皇子(弘文天皇)。  ○神明宮  ○諏訪大明神社  ○飯綱大明神社  ○熊野三所権現社  ○大鳥大明神社  ○玉山廟…苗代川にある。世に高麗神ともいう。帰化朝鮮陶工の祭る神社で祭神は檀君。檀君は中国の堯舜の時代に朝鮮に降りて王となり国名を朝鮮とした伝説の君主である。 大友皇子…徳川光圀の『大日本史』では弘文天皇とし、今日でも第39代天皇として措定されている。肝付氏の始祖とする系図が多い。
<仏 寺>
大勝山聖御院
荘厳寺
 地頭館の東北東4町余、猪鹿倉村にある。本府大乗院の末で真言宗。荘厳寺は古来より薩隅日三国の密教系寺院三大寺の一つである。
 第15代島津貴久はこの寺の第七世・俊盛法印に帰依していたので、伊集院本城(一宇治城)から鹿児島の内城に移った時に俊盛法印を連れて行き、新たに大乗院を建立して開山とした。
鹿児島の内城…貴久が伊集院から本府に入った時に最初に居住した城(館)。現在の大龍小学校辺りがその跡地である。
法智山妙円寺  地頭館の北7町余、徳重村にある。丹波の永沢寺末で曹洞宗。
 開山は石屋真梁。真梁が諸国遍歴の途中に某堂宇に宿泊したところ女僧が鬼に打擲される幻を見たので里人に話したところ、その女僧は国主の娘であることが分かり、国主に告げた。国主は深く感じ入り、真梁にその国で娘の冥福を祈るよう願ったが真梁は薩摩に帰国したため、使いを送り、その当時の伊集院領主・伊集院久氏に頼んで堂宇を建ててもらった。娘の法名が妙円だったので寺を「法智山妙円寺」とした。時に明徳元年(1390)であり、その後真梁は福昌寺の開山となったため、妙円寺は愛弟子の竹居和尚が住持となった。
石屋真梁…伊集院氏第4代忠国の子。上の兄・久俊の孫・久道(通)は牛根地頭になっている。
 <伊集院氏の系譜>
 初代・久萬(ひさかず=島津氏第2代忠時の七男忠経の八男俊忠の子)−久親ー忠親ー忠国−久氏
・妙円寺は廃仏棄釈後、徳重神社となった。
泰定山広済寺  地頭館の北北東11町余、郡村にある。京都南禅寺の末で臨済宗。貞治2年(1363)、伊集院忠国の創建で、南仲景周和尚を開山とした。当初は伊集院本城の南の古城村にあったが、南仲和尚が泰定広済禅師号を賜与され現地に移ってからは今の寺名になった。
福寿山梅岳寺  地頭館の東16町余、谷口村にある。天文年間に伊作島津忠良(梅岳君)が創建したのでこの名がある。福昌寺末で曹洞宗。
竹林山
無量壽院
龍泉寺
 地頭館の南南東2町余、谷口村にある。相模藤沢の藤沢山清浄光寺の末で時宗。嘉暦3(1328)年、島津5代貞久公の建立である。
瑞雲山善福寺  地頭館の東1里3町余、谷口村にある。広済寺の末で臨済宗。
久木山破鞋庵  地頭館の東9町余、谷口村にある。川辺の宝福寺の末で、曹洞宗。
泰陽山直林寺  地頭館の東2里14町余、春山村にある。能登総持寺の末で曹洞宗。総持寺の通幻和尚が開山。二代目が石屋真梁和尚。
千秋山雪窓院  地頭館の北西3町余、大田村にある。阿多田布施の常珠寺の末で曹洞宗。永禄10年(1567)、島津貴久公が母・雪窓妙安大姉の菩提寺として建立した。
清泰山普度寺
 来迎院
 地頭館の西1里4町余、寺脇村苗代川にある。高原郷神徳院の末で天台宗。正徳2(1712)年、島津21代吉貴公が再興した。
医王山光明院
 平等寺
 地頭館の北東およそ1里、麦生田村にある。当郷の荘厳寺の末で真言宗。
仏宇合記 ○仙寿院  ○神陀山圓通庵…大田村にある。伊集院久氏の娘が許婚者・澁谷右馬助の菩提を弔う為に尼となり建立した。  ○観音堂  ○地蔵堂(付・賢雄カラス)…谷口村にある。天文13年(1544)、荘厳寺の住持・賢雄法印が冤罪により殺害されたが、その後怪異が起きるようになった。法要の度に出る供物のお下がりを付近の動物が食べると即死するというので、鳥のえさに遣ったところつがいのカラスが来て啄んで持っていくようになった。このカラスには無害のようで人びとはこれを「賢雄カラス」と呼ぶようになったという。  ○釈迦堂
<旧 跡>
一宇治城  地頭館の西3町、大田村にある。伊集院本城または鉄丸山ともいう。伊集院氏代々の居城。
 暦応3(1340)年、城主・忠国は島津5代貞久と戦って敗れ、子城の平城に逃げた。その後宝徳2(1450)には島津9代忠国と伊集院7代熙久が戦い、熙久は肥後に逃れた。大永6(1526)、島津14代勝久は伊作島津忠良にこの城を与えた。翌年になると出水領主の島津実久が攻めたので忠良は息子の貴久とともに戦いこれを退け、伊作城(田布施)からここに移った。天文14(1545)年のことで、ここには本府鹿児島内城に移るまでの5年間の居城であった。
一宇治城…天文18年(1549)、城主・貴久はここでフランシスコ・ザビエルに面会した。その際にはキリスト教の布教を許している。
城跡合記 ○石谷城…石谷氏の居城。石谷氏はその先は町田忠光で、忠光は島津2代忠時公の七男忠経の第三子である。忠光の10世孫・高久が石谷を領有したので石谷氏を名乗った。  ○長崎城…叛徒である島津実久の家臣肥後盛治が居城していた。伊作島津忠良が入来院重聡の援軍を得て攻略した。  ○谷口城  ○内城…古城村にある。伊集院氏初代久萬の父・侍従房俊忠が還俗してここへ入部した。
為朝原  地頭館の南南東約29町、恋之原村にある。昔、鎮西八郎為朝が八丈島に配流の後、ここに遊歴した住居跡と伝える。 為朝…清和源氏。多田満中の後裔で満中の6世孫。義朝の弟で頼朝の叔父にあたる。
遠射の跡  地頭館の東およそ12町、清藤村にある。島津18代家久公が家臣玉川伊予に遠射をさせた所。一本は3町58歩(約)430mを飛んだ。うった場所と矢の落ちた場所に杉を植えさせたので、二本杉と呼んでいる。 玉川伊予…関ヶ原西軍の大将・宇喜多秀家の家臣で、島津氏に召し抱えられた者。

 
    < 永吉郷 >

※日置郷の内、南郷に属する地域で、日置北郷・南郷は建久図田帳に載る古地名である。
 ここは慶長17年(1612)以降は一所持ち家の島津忠栄の私領となり幕末に至っている。その領主館跡は永吉小学校の一体である。

概     要 備  考
<山 水>
本 川  源流は伊集院郷春山村。高田川、原の口川を併せて海に注ぐ。原の口川は当郷と吉利郷との境をなしている。 ・現在の永吉川である。
<神 社>
久多島
大明神社
 領主館の西20町余、本川河口近くの海浜にある。祭神は天智天皇の皇女。
 俗説に天智天皇の皇后が開聞岳麓に下向した時に海上で皇女を産んだが海に捨てたところ、島が湧出して久多島になった、という。「沖の久多島」という。
 三年に一度、9月1日から3日まで当社の神が沖の久多島へ渡御する神事があり、往来する船中で神楽を奏上する。
天智天皇の皇女…名は示されていないが、志布志湾沖に浮かぶ枇榔島には皇女・乙姫が祭られているので、この祭神と同じと思われる。
黒川権現社  領主館の東1里3町余、永吉村黒川にある。祭神は不詳だが、昔、当地の農夫が肥後から勧請して来たという。文明3年(1471)2月16日付の棟札がある。
神社合記 ○稲荷大明神  ○諏訪大明神社
<仏 寺>
宮山西定院
愛宝寺
 領主館の南西3町余、永吉村草田にある。大乗院の末で真言宗。当郷の祈願所である。創建は不明だが境内に八幡宮があり、その神体後背板に文明6年(1474)5月24日建立の銘があるので、それ以前の創建であろう。
少林山梅天寺  領主館の南南西11町余にあり、福昌寺の末で曹洞宗。石屋真梁の開山で当時は妙法寺といったが、慶長12年(1612)に当郷を私領とした島津忠栄が祖父である家久(法号:梅天長策大禅伯)の位牌を安置してから今の寺名になった。 島津忠栄…祖父の家久は15代貴久の四男。その長男が父・豊久で、関ヶ原に於いて戦死。寛永14年(1637)に、牛根郷の地頭になって赴任している。
慈門山天昌寺  領主館の西北西9町余、曹洞宗で石屋真梁の開山。諸国を行脚してきた真梁和尚が帰って来た際に最初に勝地を選んで建立したと伝える。今は本府福昌寺の末である。
<旧 跡>
南郷城  領主館の北北東1町ばかりにある。当郷が日置郡の南半にあるため日置南郷と呼ばれ、その南郷を城の名としている。
 ここは桑波田氏の居城であったが、島津第14代勝久の時、伊作島津忠良に与えられた。忠良は当時の城主・桑波田孫六にそのまま城を守らせたが、天文2年(1533)、島津実久に与して反逆したので孫六一派を攻めて落城させ、土地の名を永吉と改名した。
桑波田氏…南郷を領有したのは孫六の先祖・覚弁で、覚弁は建久8年(1197)の「内裏大番触状」にその名が見えている。



    < 吉利郷 >

※永吉郷とともに日置南郷を形成する地域で、永吉郷の北にある。大隅の祢寝氏が改易されここに移封された。文禄4(1595)年のことである。領主館は吉利小学校一帯にあった。


 領主・小松氏(旧祢寝氏)の略系図(嫡流のみ。清重から清直までの30代)は次の通り。
  平清盛(太政大臣)ー重盛(小松内大臣)ー維盛(左中将)ー高清(幼名・六代丸 出家名・妙覚)
 ー清重(祢寝氏初代)ー清忠ー清綱ー清親ー清治ー清保ー清成ー清有ー久清ー清平ー元清ー重清
 ー尊重ー重就ー清年ー重長(しげたけ)ー重張(17代・吉利郷へ改易)ー重政ー福寿丸ー重永ー清雄
 ー清純ー清方ー清香(24代・平重盛の異名「小松内大臣」を採用して小松氏へ改名)ー安千代ー清行
 ー清穆(きよやす)ー清猷(きよみち)ー清廉(きよかど=小松帯刀・肝付家から入り婿)ー清直

概     要 備  考
<山 水>
山岳合記 ○諸正岳…伊集院郷との境をなす。  ○深固岳
諸川合記 ○境川…日置郷(旧日置北郷)との境を流れる。  ○森川
吉利十二景  吉利領主・小松清行が久多島神社のある海浜をめでて絵を描かせ、和歌を平松時章に依頼して詠んだのを十二景にまとめた。 小松清行…祢寝氏は24代清香の代に小松を名乗った。清行は26代。
<神 社>
御霊大明神社  領主館の東北11町余にあり、鎌倉権五郎景政を祭るという。景政は鎌倉権頭景成の子で、源義家の後三年の役に出陣した時、敵将のために右眼を射られたが屈せず、そのまま相手を射殺したという人物である。
 本田親盈の『薩州神社考』には一説として非業の死を遂げた八人(早良親王・伊予親王・藤原大夫・吉備公・文屋宮田丸・橘逸勢・藤原広嗣・菅原道真)を祭るとしてある。
源義家…八幡太郎。奥州平泉の藤原氏と清原氏間の紛争に出陣し、清原氏を誅した。頼朝の父・義朝の曽祖父に当たる。
平野大明神社  領主館の北1里余、城屋敷にある。京都平野神社の第二殿「久度社」の神を祭る。久度社の神は平姓の家神で、元禄11年(1698)に領主で小松氏第21代清雄がここに勧請した。
※割注に、『公事根源』を引用し、久度神は平氏の守護神で「平氏神者、仲哀帝也」と記してある、と載せる。
平氏神者、仲哀帝也…平家の氏神は仲哀天皇である。源氏は守護神として八幡すなわち応神天皇を祭ったが、応神の父が仲哀であった。
神社合記 ○鬼丸大明神社…勝手ヶ城に鎮座。祭神は祢寝氏第16代重長(しげたけ)。小祢寝(現・南大隅町根占)を領有していた祢寝氏だが、吉利に移封される前の最後の当主。死後の怪異が多く、神社として祀ったが、吉利にも分霊して社を建立した。  ○建部大明神社…鬼丸神社の横にあり、祭神は大己貴命。根占からの分祀。
  ○山王権現廟  ○帆大明神社  ○池の王権現社
勝手ヶ城…鬼丸神社の建つ岡が城址のようだが、由緒は不明。
<仏 寺>
宝資山勝雄寺  領主館の東北東11町余、御霊神社の右手にある。本府大乗院の末で真言宗。文禄4年(1595)、改易転封の際に小祢寝より移設された。この寺は祢寝氏の初代・清重が父・高清の冥福のために創建した。 高清…幼名・六代丸。平家一門の嫡流のため仏門に入って妙覚を名乗り捕縛を免れるが、13年後に殺害された。
清浄山園林寺  領主館の北10町余にある。越前興禅寺の末で曹洞宗(不見派)。応永年間に川辺で戦死した祢寝氏10代清平の菩提寺として小祢寝に建立したが、当郷へ移設した。
幽遠山深固院  領主館の東北東1里10町余、吉利村岩井田にある。本府福昌寺の末で曹洞宗。開山は石屋真梁和尚。
<旧 跡>
領家宅地  領主館の東北東13町ばかりにある。
 旧記によると「日置北郷境地図」に公家領と武家領の区割りが載っているが、そこには公家・武家双方の現地事務所(政所・地頭所)が置かれた。その公家側の事務所用地の跡を領家宅地といった。
 この辺りを里人は「道上」と呼ぶ。それは公家方の領家政所のことらしく、この北半町ばかりには武家方の地頭所があったようで、門割名の「地頭所門」がある。
公家領と武家領の区割り…鎌倉時代になって武家方の地頭が進出し、各地で公家方の荘園経営と衝突するようになった。これを仲裁して地図上で区割りをしたが、それを下地中分と言った。

         この項終り                          目次に戻る