『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

  
第9回 薩摩国 揖宿郡 指宿郷 (H26.1.26)

<指宿郷>…鹿児島城下の南約10里。指宿郷は揖宿郡のすべてを占め、薩摩半島部に多いいわゆる「一郡一郷」である。地頭館は現在の指宿市宮ヶ浜駅北方の指宿小学校と指宿北郵便局を含む一帯にあった。揖宿郡は「揖」を、指宿郷は現在につながる「指」を使うが、その使い分けは判然としない。名勝図会では「揖」を<天智帝臨幸の時、舟揖(ふなかじ)を宿せる故、名付けるの説あり>として揖宿郡の名称の由来を説くが、それだと指宿郷がなぜ「揖宿郷」ではないのかについて説明がつかない。ここは通説のように「湯の豊かな宿」すなわち「湯豊宿」(ゆぶすき)語源だろう。(違う漢字を当てた理由は分からないが・・・) なお「宿」の「すき」は朝鮮語説(城の意味)があるが、930年代に編纂された『倭名抄』では「以夫須岐」と表現されており、この「須岐(すき)」の「す(須)」は「〜の」で、「岐(き)」は港のことであるから、「ゆぶすき)とは「湯の豊かな港」であり、現在でも砂浜から温泉の湧く指宿の風土を的確に表している名称としてよい。

概     要 備   考
<山 水>
魚見峯  うおみのみね。地頭館の東南、1里にある峯。鹿児島湾に突出した岡で、上部は畑になっている。 現在は魚見岳。214m。
摺之浜温泉  すりのはま。地頭館の南南東1里30町、十二町村の海岸部からは温泉が湧き、砂蒸しとして利用する。筋骨の痛みに効能がある。19代光久公の時に行館が設けられたが、元禄16年に廃された。 現在では温泉宿泊施設が立ち並ぶ指宿温泉の中心。
弥次ヶ湯  地頭館の南東30町、十町村にある。弥次という人物が掘って湧出させたので、その名をとる。
二月田温泉 地頭館の南南東16町余り、十九町村にある。文政十年(1827)27代斉興公の時、浴池が設けられ、4年後には行館となった。
 ○湯権現社…温泉行館の西側にある。
・湯権現社の祭神はオオナムチとスクナヒコナ
温泉合記  ○港の湯 ○大牟礼湯 ○三節湯 ○間水湯 ○柴立湯 
湯 峯  地頭館の南1里余り、十九町村東方にある。峯の山腹に湯煙が立ち昇り、麻類を浸しておくと一日で熟す。
知林ヶ島  地頭館の東南東1里余、東方にある島。周回1里、陸継し、10町ばかりで島に渡る。島内には畑がある。
田良浦  地頭館の東南1里余、知林ヶ島の渚に続く浦。
湊 浦  地頭館の南南東1里20町余、十二町村にあり、富豪の船人が多く、賑わっている。 ・湊太左衛門こと豪商・浜崎太平次については触れていない。
宮ヶ浜港堤  地頭館脇の海岸にある。海岸一帯は遠浅のため船舶の繋留に不便だったのを、斉興公が築かせた。 三日月形の突堤は今に残っている。
<神 社>
開聞新宮
九社大明神社
 地頭館の南32町、十九町東方に鎮座する。祭られている九社は開聞神社と同じである。
 社記によると、天智天皇が開聞岳に臨幸の時に経過する神社であり、天皇崩御の後に神霊を勧請して建立したという。
 貞観16年(874)7月に起きた開聞岳の噴火で開聞社が崩壊したため開聞社の神託により当社へ祭神を移したゆえ、一社から九社になった。
 社記の「天智天皇経過の地」とは、天皇が筑前の朝倉宮に駐留されていた時に薩摩地方へ御巡幸された事を云うのであろう。元和6年(1620)の洪水で旧記が亡失したため詳しいことは分からなくなった。
○御腰掛松および水波社 ○新宮山観音寺千手院(別当寺)
揖宿神社社記…現在は揖宿神社と称し、その社記によると、ここは天智天皇の幼名である葛城皇子から「葛城宮」と称していたが、開聞社の噴火による「疎開」で開聞新宮を称するようになり、本来の天智天皇の遺蹟が脇に遣られてしまったようである。検討を要する事案である。
多羅大明神社  地頭館の東1里7町、東方の田良浦にあり、祭神は天智天皇。天智帝が開聞へ臨幸の時、上陸した場所であるという。 ・志布志にも上陸したという伝承がある。
風穴祠  田良浦に面する崖の途中にあり、天智天皇が上陸したのちにここで神楽を奏でられたという。
無足明神  地頭j館の東31町、魚見峯の麓にあり、天照大神を祭る。祠の脇に烏臼樹(コノテガシワ)の大木があり、これを御神木とする。
 祭礼には無足舞を演じるが、その際に御神木を柴竹と綱で纏い「御衣綱」と名付けるが、由来不明の奇祭である。
無足…祭式も風変りだが、そもそも「無足」の意味が分からない。祭神の樹木に足がないのでそう称したのだろうか。
神社合記  ○野首権現社…西方にあり、英彦山三所権現を祭る。天文20年(1551)の棟札(領主・伴兼堅造立)が残っている。 ○諏訪社…西方にあり、康正3年(1457)の棟札(領主・紀氏造立)が残る。 ○間水社 ○天満宮 ○九玉社 伴兼堅…肝付11代兼元の二男兼政から始まる頴娃氏の5代目。
<仏 寺>
西意山宝蔵寺
長勝院
 地頭館の南南東3町、西方にある。坊津一乗院の末で真言宗。初め長松院と称したが、慶長14年(1609)の琉球征伐の際に、この長松院に逗留した17代義弘公が縁起を担いで松を勝に改めたという。当郷の祈願所である。
安泰山源忠寺  地頭館の南南東5町ばかり、西方にある。鹿児島福昌寺の末で曹洞宗。当郷の菩提所。
 ○虚空蔵堂 ○諸院…源忠寺の末寺は五つある。
正平山光明寺  地頭館の南1里10町、十町村にある。福昌寺末で曹洞宗。
 開山は定慧和尚。和尚は中臣(藤原)鎌足の子で、白雉4年(653)に入唐し、在唐27年の後に帰国し法相宗を伝え、文武天皇の元年(697)に当寺を建立した。
定慧…定惠とも書くが、鎌足の長子で弟が不比等ということになっているが、天智天皇の叔父・孝徳天皇の子という説もある。
宝鏡山大円寺  地頭館の南南東1里21町余、摺之浜温泉の後方高台にある。山川郷の正龍寺末で臨済宗。島津氏7代元久が応永20年(1415)に、虎森和尚(京都南禅寺の僧という)を開山として建立した。虎森和尚は当寺で遷化している。
 ○十一面観音堂
虎森和尚…山川の正龍寺の縁起では、和尚は正龍寺の中興開山で、明に渡ろうとして果たさなかった―とある。
丈六山浄真院
西選寺
 地頭館の南1里28町、大円寺と同じ高台にある。坊津一乗院末で真言宗。古老の伝えでは、源頼朝公が日本の四方に阿弥陀仏を据えた一つという。秘仏のため昔から開帳はしないという。
地蔵堂  十二町の湊浦にある。覚右衛門という者の先祖が佐多の御崎で海面に浮かぶ地蔵を引き上げて帰り、祀ったという。
<旧 跡>
松尾城  地頭館の裏の岡上にある。指宿郷の城山である。
 古来、揖宿領主の居城で、得仏公(島津初代忠久)が総地頭として入部した頃には、揖宿五郎忠光が揖宿・頴娃を領有していた。その先祖は伊作平四郎大夫良道の弟・頴娃三郎忠長につながる。
 南北朝時代になると、7代元久公に攻略され、8代久豊公の時に奈良美作守に与えられたが、驕奢であったために領民の叛乱にあい、久豊公の親征により鎮まった。その後間もない応永27年(1420)、今度は頴娃氏が反旗を翻したので再び親征により攻略した。このあと肝付兼元の二男・兼政に頴娃・揖宿を与えたが、8代目の頴娃久音の代に、島津15代貴久公は領地を没収し、直轄地とした。 ○松尾権現社
奈良美作守…割注に「鮫島四郎宗家の苗裔なり」とある。鮫島氏は駿河国鮫島郷出身の頼朝御家人。阿多に下り勢力を張った。
<叢 談>
御旗の古物  当郷の郷士・徳永仙右衛門の先祖に軍船の御用を勤めたものがあり、今にその時の軍旗が残るという。木綿製で縦3尺5寸、横1尺1寸7分。十字の印の下に天照皇大神宮・春日大明神、その下には島津兵庫頭藤原朝臣忠平天正十四年丙戌年二月吉日と書かれている。 島津兵庫頭藤原朝臣忠平…17代島津義弘のこと。天正14年は1586年で、この年は豊後へ兵を進めている。
 ただし翌年秀吉の九州征伐で退却し降伏した。
豊関白の禁榜  当郷士・上野権右衛門家にある。「禁制 薩摩国吉田」と書かれ、吉田郷に入った太閤軍に対して出された制札であるのに、指宿郷に現存するのはなぜか分からない。 制札…兵士への禁止事項を掲げた板札。乱暴狼藉を戒めるのが狙い。

  
<今和泉郷>・・・指宿郷の北隣が今和泉郷の領主館所在地で、現在は今和泉小学校になっている。ここは延享元年(1744)に揖宿郡の内の小牧村・岩本村・十九町村西方・頴娃郡内の池田村などを併せ、22代継豊公の弟の忠郷公に与えられ、今和泉家とした所である。
 4代忠宗公の第二子の忠氏公が出水に封ぜられながら、応永24年(1417)の川辺合戦で戦死し、継嗣が無くて廃絶していたのを復活させ、今和泉郷と名付けた。
 この8代目忠剛の実の娘・於一(おかつ)こそが、徳川13代将軍の正室となった天璋院篤姫であった。
概      要 備 考
<山 水>
鬼門の嶽  池田湖の西北14、5町、池田村にある。東南部は高さ3町ほどもある崖で、緩やかな西北からは登ることができる。頂上部は平らで、すこぶる眺めがよい。 ・現在の名は鬼門平(おんかどびら)。池田湖カルデラの外縁である。
池田湖  領主館の北西1里23町余、周回4里30町、深さは測り知れないという。地元では池田湖は開聞岳湧出の跡であると言う。
 湖の西北10町余に九玉の神社がある。ここからの眺めは佳く、遊客の立ち寄る所でもある。
 ○池王明神…池田湖の東岸にあり、湖に2町ほど突き出ており先端の松の巨樹を神木と崇めている。昔、その湖畔を過ぎようとした者が人頭龍身の者と出会い、短刀で傷付けたところ祟りで死亡したため、村人が池王として祀るようになったという。
 ○名馬「池月」…寿永年間に頼朝の陣中に居た佐々木四郎高綱は宇治川の先陣争いで梶原景季に勝ったが、その功により頴娃郡池田の牧から名馬「池月」を賜った。
深さ…池田湖の最深部は中央やや東寄りで230mを数える。
東岸…南岸の誤り。東岸は尾下集落、北岸に大迫集落がある。
佐々木高綱…近江源氏。子孫の乗綱は文永弘安の役に功があり、大隅西俣を与えられた。その子孫が山川郷大山に移った大山巌家である。
<神 社>
中宮大明神社  領主館の南3町余、岩本村にある。祭神はトヨタマヒメ。天徳4年(960)岩本村領主・甲斐守公秋の建立である。
 ここは開聞本社の神領に係るため開聞神を招聘し、ホホデミの中宮であるトヨタマヒメを祭ったのでその名を称したのであろう。
甲斐守公秋…出自不明。
稲荷大明神社  領主館の南南東2町ばかり、岩本村にある。
八幡宮  領主館の南南東17町、新西方にある。
大和大明神祠  領主館の東南東9町余、岩本村にある。島津久章の霊を崇める。
 その由緒は、江戸時代の初期に江戸に伺候した新城島津家当主・久章が藩命に逆らった廉で帰任後に川辺に幽閉され、その後遠島のために谷山清泉寺まで移動した際に反抗したため殺害された。その墓に詣でると疱瘡除けになると言われていたが、明和9年(1772)に疱瘡が流行した時、墓のある清泉寺から久章の御魂を神輿に乗せて歌舞をしながら歩くと疱瘡が治まると信じられ、ついに岩本村に分社が建立されたーという。
島津久章…垂水島津家4代久信の嫡子。乱心と言われた久信の隠居後に、正室の玉姫(16代義久の二女)は実子の久章のために新城家を起こしたが、結局報われず、久信(義久流)の血脈は絶えた。
<仏 寺>
慈雲山永泉寺
福寿院
 領主館の西27町余、小牧村にある。大乗院の末で真言宗。宝暦8年(1758)志布志大慈寺内の安楽院という廃寺を再興移転して名を改めて福寿院とした。当郷の祈願所である。
道熙山壽祥院
光台寺
 領主館の南南東5町余、岩本村にある。相模の時宗藤澤山の末で、本府浄光明寺の管轄下にある。
松台山啓運院
日潤寺
 領主館の南25町、新西方にある。法華宗。
仏寺合記  ○不動堂 ○観音堂…金銅製の観音像は琉球国王子から献上されたもの。 ○日蓮堂 
<旧 跡>
麓 城  領主館の領主館の後背にある。築城主などは不明である。
清見城  領主館の南29町、仙田村利永にある。清見なにがしの出城だったという。昔、肝付氏の軍兵により襲い取られたことがあった。

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