『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

      平成26年度 第6回  

       
薩摩国 河辺郡 硫黄島     (H26.10.17)

※硫黄島は鹿児島城下からは120`ほど南下した海域にある。山川港からは海路70`余りで到達し、本府から在番官一名を交替で置いている。

概     要 備 考
<総 説>
硫黄島名義  古来硫黄を産出するので「硫黄島」と名付けられた。この硫黄は大宰府に貢納されていた。
 琉球人がこの島の硫黄を「琉球硫黄」という名目で中国(清)に持っていく者も多い。
島 形  島の周囲は3里、中心部に硫黄岳がある。
 住民の男子は主に海釣りを生業とし、カツオの水揚げが多く鰹節にする。畑は女子の仕事で、麦とカライモが多い。
硫黄岳…標高704mの活火山。鬼界カルデラの外輪山である。
土 俗  婦人は一生眉を剃らず、またお歯黒をしない者が多い。
 屋根は茅ではなく笹(ダイミョウ竹の葉)で葺いている。
 島には医者がいないので社司を頼んで祈祷をしてもらう。
古来の事跡  この島には治承元年(1177年)に、丹波少将成経・平判官康頼・大僧都俊寛の三名が流されて来た。また正嘉二年(1258年)には平内俊職が、元徳元年(1329年)には文観僧正が流されている。
 古来この島は流刑地であり、島司の長浜家の古系図によると、長浜氏の祖先は京都の平氏であった。平安末の動乱で流れて来たが、当時貴賤を問わず300名余りいたという。この説によれば京都平氏の一部が漂着し、その後島の守護(島司)となったものであろう。
平安末の動乱…平家滅亡の屋島および壇ノ浦の戦いのことだろう。
 この時に安徳天皇は身代わり入水によって逃げおおせ、硫黄島まで落ちてきたという伝承がある。『図会』ではそこまでは書かないが、可能性は大いにあるとみてよい。
<山 水>
硫黄岳  (省略)
島 港  (省略)
井 水  (省略)
温 泉  硫黄岳の南麓に湧き出て、海に流れ入る温泉があるが、湯船を設けず柄杓ですくって体にかける。あせもの類は二回ほど浴びれば治るという。
<神 社>
熊野
三社権現社
 祭神三座あり、中社にイザナギ尊、西社に事解男命、東社は速玉男命を祭る。当社は治承元年(1177)に流罪となった上記の三名の内、成経と康頼の信心によって勧請されたという。
 長浜氏系図によると、朝鮮の役に出征した長浜権之丞吉延が武功を上げ、松齢公(島津義弘)から報償として社殿の修繕をしてもらったという。
成経と康頼の信心…この時、俊寛は熊野信心に懐疑的であったため勧請には加わらなかった、という。
蔵王権現社  別名、嶽三神と呼ぶ。神体は自然石で古来島の守り神であった。熊野権現と並称して両社権現という。
御祈大明神  おいのり大明神。祭神は俊寛、従神を成経・康頼とする。許されて帰京した成経・康頼がいなくなった後、俊寛一人が取り残されたが、死後に「我が魂をこの島に留める」との俊寛の霊示があり、石塔(墓塔)のあった場所に建立した。
 ○俊寛略伝…俊寛は村上源氏の祖・具平親王の6世の描裔で。源寛雅の子である。平家打倒の陰謀が露見して(鹿ヶ谷事件)、藤原成経平康頼とともに硫黄島へ流された。
 三年後に二人は許されて帰京したが、俊寛は残った。俊寛の在京当時、三人の仕童がいたが、そのうちの有王が奈良に居た俊寛の娘の文を持参して硫黄島に渡った。有王の介護を受けたがその後40日ばかりで亡くなっている。
藤原成経…権大納言・藤原成親の子で正三位・参議。後白河法皇の近侍で、右近衛少将兼丹波守だったため丹波少将と呼ばれた。
平康頼…中原氏。平保盛(清盛の甥)に仕え、平姓となる。のち後白河法皇に近侍し北面武士となった。役職に検非違使を得たため平判官と呼ばれた。
徳躰神社  とくたい神社。石の祠で、軽野大臣(かるののおとど)を祭る。
 祭神の軽野大臣は斉明天皇の頃の遣唐使で唐土に留まった。故あって頭に灯明を載せる「灯台鬼」(歩くランプ)に貶められていたが、息子の参議で遣唐使となった春衡により救い出され、帰朝しようとしたが硫黄島に流れ着きそこで死亡した。
 徳躰(とくたい)は灯台(とうだい)の転訛であろう。また硫黄島を「鬼界島」と呼ぶのもこの「灯台鬼」こと軽野大臣の故事に因むものである。
軽野大臣…伝説的人物としていくつかの書に載るが、具体的な人物像については不明。
 ただ、地元民の伝承が虚説とは思われず、遣唐使で硫黄島に流れ着いて死亡した者がいたことは間違いない。
<仏 宇>
阿弥陀堂  本尊は阿弥陀如来だが、成経・康頼が配流された時に勧請した観音像をも安置している。
<旧 跡>
観音窟  港の西岸の断崖数百丈のところに洞窟があり、そこに前記の観音像を安置していたが、風波のためのちに阿弥陀堂に移した。
俊寛投筆石  矢筈岳という山の崖面にある大石をいう。
俊寛足摺石  都から成経と康籟を連れ戻しに来た船が帰ろうとした時に、一人残された俊寛が赤子のように駄々をこねた時にすり減った石―と言われるが、真実は俊寛が海岸に来て常に坐臥した石のことである。
磯松崎  俊寛に仕えた侍童の有王が硫黄島へ上陸した場所であると伝える。
城ヶ原  海に突き出た広野で、今は島人の畑地となっているが、かって平家の残党が島に落ち延びて来たときに城塁とした場所である。
平家城  島の東北に突き出た岬で、往古平家の城塁があったという。
御前山  原野と陸田のうちに御前山と呼ばれる所がある。ここには古墓が大小30余り有り、平家の墓と言われている。
<物 産>  (・硫黄・椿・ダイミョウ竹などあるが、省略する。)
<叢 談>
成経・康頼
俊寛の配流
 後白河法皇の側近藤原成経の父・成親は大納言であったが、近衛大将の官位も望んでいた。しかしすべて平清盛側に取られ、清盛の長子・重盛が近衛左大将、次子・宗盛が近衛右大将に任命された。さらに清盛の娘・建礼門院徳子高倉天皇に嫁していたから、平氏の勢いは旺盛を極めていた。
 このような平氏専制を打倒すべく密儀を凝らしたのが成親・平康頼・多田行綱・藤原西光等で、大僧都俊寛の鹿ヶ谷にある別邸を集会所にしていたが、清盛の知る所となり、ついに捕縛せられた。
 成親は妹が重盛の妻であったが、備前児島に配流後に殺害。西光も殺害され、成親の子・成経と平康頼・俊寛は硫黄島へ配流されることになった。
 配流されてから二年目の治承2年(1178)に、高倉天皇に嫁した徳子が懐妊した(のちの安徳天皇)ので恩赦が行われ、硫黄島に配流の三名もその対象になったが、俊寛だけは赦されなかった。
平清盛系譜…子(重盛・宗盛・知盛…徳子)孫(重盛に維盛、徳子に安徳天皇)
※重盛の室=藤原成親         の妹
 維盛の室=成親の娘
高倉天皇は後白河法皇の子であるから、安徳天皇は後白河法皇と清盛の共通の孫に当る。
貴界島追討  平家追討のために鎮西の天野遠景を送っているが、平家滅亡の前に薩摩国住人・阿多忠景が勅勘を蒙って逃げ込んだことがある。この時は筑後守家真を差し向けたが、風波のためにたどり着けなかった。 貴界島…鬼界島をこのように書くことがある。
平内
左衛門尉
俊職
 『吾妻鑑』によると俊職は平判官康籟の孫で、正嘉2年(1258)8月に伊具四郎入道を殺害した事件に連座し、硫黄島に流されている。
藤原惺窩
詩集
 藤原惺窩は冷泉家の出身ではじめ出家したが唐土の文物を解明したくて渡海しようとしたが流されて硫黄島に漂着し、本土に帰る途中、薩摩山川の正龍寺に寄寓した際に「文之点」の存在を目の当たりにして写して学び、自家のものとして京師に広めた。

 【惺窩が硫黄島に漂着した時に詠んだ歌一首】
   やまと歌の哀れかけけり目に見えぬ
              鬼の島根の月のゆふなみ
文之点…薩摩儒学の名儒・南浦(なんぽ)文之が完成させた返り点。藤原惺窩の独創ではない。
 
  
 @ 薩摩国河辺郡硫黄島の項おわり

   A (復習として) 大隅国肝属郡 姶良郷(oosumi-rekishi-kouza-6.html へのリンク) のまとめを若干解説した。

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