『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

      平成26年度 第7回  

 
薩摩国 阿多郡 阿多郷田布施郷・伊作郷 (H26.11.16)

※ 阿多は吾田とも書く。風土記には閼駝ともあるが、いずれにしても「あた」と読む。薩摩半島随一  の古名である。阿多郷は現在の南さつま市金峰町の南部に当たる。
   地頭館は阿多小学校周辺にあった。

※ 田布施は多布施とも書くが、意味は「田廬」(田作りの時期に田園に設けた小屋)のことである。 田布施郷は南さつま市金峰町の北半に当たる地域。地頭館は尾下の田布施小学校周辺にあっ
  た。

※ 伊作郷は旧吹上町(現日置市吹上町)の中心部で、地頭館は伊作小学校周辺にあった。

 (注)今回は阿多郷・田布施郷・伊作郷の旧跡および叢談の部分のみをピックアップして学んだ。
概    要 備考
阿多郷
<旧 跡>
鶴之城  地頭館もこの城址内にある。島津運久がここに居城していた。
本丸・東之城・南之城・中之城など地形が六つに分かれていた。西側を万之瀬川が流れ堀を成している。
島津運久…相州家二代目。相州家は第9代忠国の庶長子・友久が始祖。ゆきひさと読む。
城跡合記  ○上床之城…浦之名村。上床助六左衛門城主。 
 ○貝がら城…宮崎村。昔、鮫島氏城主。鮫島氏は建久3年(1192)に四郎宗家が頼朝公の命により、鎌倉から下向し地頭となった。『建久図田帳』に阿多郡250町、うち公領195町4段。没官御領は地頭佐女島四郎と見える。 
 ○その他…三つほどの古城があるが不詳である。
鮫島氏…藤原氏後裔工藤氏流という。
建久図田帳…建久8年(1197)成立。諸国の田籍帳で薩摩・大隅・日向の三国は完全に残っている。
桟敷本  さじきもと。地頭館の北西18町、宮崎村にある。天文7年(1538)、梅岳君(島津忠良)は田布施城から南下し万之瀬川を渡って薩州家・島津実久のいる加世田別府城を攻めた時の陣所。今は海からの砂が吹き上げて白浜になっている。 島津忠良…伊作家10代目。始祖は第3代久経の次男・久長。
島津実久…薩州家5代目。始祖は第8代久豊の次男・用久。
打立本  うちたちもと。地頭館の南東15町、花瀬村にある。上記桟敷本に陣営後、加世田城を夜討ちした時に梅岳君が胡床に座って将兵を指揮した場所という。
半月ヶ原  地頭館の北2町、宮崎村にある。相州家の運久の時代からある馬場。ここで大中公(島津貴久)も乗馬の訓練をしたという。 島津貴久…島津本家第15代。田布施の相州家に養子に入った忠良の長男。
田布施郷
<旧 跡>
亀ヶ城  地頭館の東1町余り、尾下村にある。相州家の城址である。島津相模守友久は大岳公(島津忠国)の庶長子であったので、田布施・阿多を賜与されて下向。ここから相州家が始まった。二代目運久には男子がいなかったので伊作忠良が嗣子となり、その子の大中公(貴久)はこの城で生まれている。
 ○御産荒神祠…本丸の西の隅にある。大中公の産所跡。
 ○両石亀 ○御年比松…いずれも大中公の御産祝賀遺跡。
島津忠国…島津氏第9代。6代氏久の次男・久豊(第8代)の長男。陸奥守。
牟礼ヶ城  地頭館の北9町余、池辺村にある。周囲凡そ一里の丸岡で今はすべて畑となった。往年、二階堂氏が居城。二階堂隠岐守が文永年中(1264〜75)に相模から当郷に移り、領有して、海外船の監理をしていた。
 応永12年(1405)に、伊作久義は恕翁公(島津元久)の加勢を得て二階堂氏を攻め落とし、市来に改易した。
伊作久義…伊作島津家第4代。
島津元久…島津本家第7代。6代氏久の子で大姶良城で生まれた。
伊作郷
<旧 跡>
伊作城  地頭館の北東12町余り、中原村にある。亀丸城ともいう。本丸・山之城・東城・西城等の支城がある。高さ60尋、周囲25町ばかり。伊作家代々の居城。
 伊作家は道忍公(島津久経)の次男・久長から始まっている。信州太田の荘神代・津農の両郷と薩州伊作・日置両郷を領有して当城に居住し、伊作氏を名乗った。
 ○天満大自在天神閣…梅岳君の勧請建立という。
 ○射場…梅岳君の時に設置された弓射場。
島津久経…島津氏第3代当主。二代目忠時の次男。下野守。弘安7年(1284)卒。弘安の役の時に鎌倉から下向し、初めて薩摩に入部した。
田中城  地頭館の南29町余、和田村にある。得仏公(島津忠久)の時に和田親純が居城していた。親純は藤原純友の弟・遠純の後裔である。建久8年(1197)の内裏大番御触状に伊作平四郎とあるのは親純の後裔・伊作実澄を指すという。
 平姓村岡五郎良文の4世の孫・伊作平次貞時は九州総追捕使として薩摩・大隅・日向の三国および肥前国を領有し、肥前羽島に居住したが、その4世孫の良道が下向してこの地に入った。良道の長女は肥後の菊池経遠の妻となり、わけあって当郷はその妻の所領となった。
 しかし経遠が没するとその妻は和田親純の妻になったので親純が後継となったのである。
藤原純友…大宰少弐・藤原良範の子。伊予掾の時に瀬戸内海海賊の棟梁となり、諸国を荒らした(天慶の乱)。
村岡五郎良文…桓武天皇の4世孫高望の子。甥の将門と行動を共にしたことがあったが、生き延びた。後裔から千葉氏・畠山氏が出ている。
古城合記 ○打越城 ○三石城 ○皮籠石城 ○亀山城 
西行坂  地頭館の北西1里ばかり、華熟里村にある坂道。西行法師が諸国遍歴の途次、薩摩のこの地にやって来た時に、とある童子に言われた「冬草の夏立枯(なつたつがれ)を刈り取りに行く」という意味が分からず、しばらくしてからその童子が麦を背負って帰って来たのを見て、「夏立枯草」が麦であることが分かり、自分の不甲斐なさに道を引き返した―という故事のある坂である。 西行・…俗名・藤原秀郷流佐藤義清。御所の北面武士。1118年〜1190年。新古今集歌人で自選集に『山家集』がある。「西行の後戻り」説話は諸国にある。
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