『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

 
第11回 薩摩国 揖宿郡 山川郷     (H26.2.16) 

 ※山川郷は鹿児島城下から南へ13里(52`)にある。山川村(山川港)に指宿郷の大山村・鳴川村
  及び頴娃郡の大山村を併せて地頭支配下に置いている。地頭館は山川港にある。

概      要 備  考
<山 水>
山川港  地頭館の前にある。天然の良港で西側海岸は鳴川村に属する。周回およそ1里、瓢の形をして、いかなる大風があっても湾内は波穏やかである。藩内のみならず日本全体で見ても、このような港は稀で、朝鮮や中国の船もこの港に立ち寄り、取り調べの上、長崎の幕府所轄の港へ送ることがある。
 ○川尻湯…成川浜に湧き出る温泉。。
・山川港は噴火湾である。・天文年間に相次いでやって来たポルトガル船も、ここで荷受けや風待ちをした記録がある。
股川洲 マタカワズ。海中の岩山で、今日ではマタゴシと呼んでいる。
長崎嘴 ナガサキハナ。大山村にある岬で、海中に突出し遠望がきく。
<居 処>
薬 園  地頭館の西方3町にある。気候温暖なので南方系の薬樹(龍眼=リュウガンなど)を撰んで植えている。 ・25代島津重豪の頃の開園という。
<神 社>
熊野権現社  地頭館の北4町ばかり、番所鼻近くに鎮座。創建の歳月は不詳だが、紀州熊野社の別当であった東光寺頼仁法印が渡来して勧請したという。慈眼公(島津家久)の琉球征伐の時、19世の頼真法印が祈祷を行い、勝利後に堂宇を再興した。21世からは大崎の飯隈山照信院に属した。
 ○太刀一口  ○中島権現社  ○本地堂…薬師像を安置。
琉球征伐…薩摩藩成立後に家康から琉球を服属させる許可を得る。慶長14年(1609)3月、山川港から出発した。
新熊野権現社  地頭館の南西7町、勧請の由来など熊野権現と同じ。
愛宕権現社  地頭館の東南岡上にある。琉球征伐の時、慈眼公が出航を見送った場所である。
若宮八幡宮  地頭館の北西23町、鳴川村にある。
竹之山神祠  地頭館の東南26町余、山川村の内にあり、祭神は谷山郷の烏帽子権現大天狗である。岩山の山頂と7合目にそれぞれ石の祠がある。すぐ下の海岸に船などを泊めておくのを嫌がり、帆柱をへし折ることがあるという。神灯や太鼓の音などが聞こえるともいう。
神社合記  ○諏訪社…鳴川村。かっては神領ありしが、文禄元年の寺社勘落の時に没収された。 ○霧島権現社 ○鎮守大明神社
海上漁利の祭  大山村の浜児ヶ水浦に佐多御崎権現を勧請して行う神事。俗称を「沖得祭」という。祭事の内容はヒコホホデミ命が海宮より還幸する様を表しているようである。浜辺に注連縄を張り巡らして中に神棚を祭って行う。数番の神楽があり、以下の通り。
 一番 多羅王一人(の舞)  二番 馬水王一人
 三番 雲之王一人       四番 八代龍王一人
 五番 御崎御前一人     六番 后王一人
 七番 色幣王   ※以上の舞い手は社人が行う。
 八番 豊玉王…大鹿を少年と内侍の二人で射る。
 九番 彦火々出見尊王一人
 十番 沖得包丁舞一人…真名板・包丁・箸及び浦人二人持参の魚。浦人が切った魚を少年が魚を刺して舞い、その後諸人が魚を食す。
 十一番 蛭児舞一人…釣り人がメシゲ、杓子、すりこ木を釣り上げたのち最後に女人を釣り上げる。その女人は底津海津見の姫で、喜悦して献杯の応酬をする。
 十二番 船歌・鎧くどき…浦人20人余の舞
沖得祭…奇祭と言うべきだろう。名勝図会の編纂者が「ホホデミノミコトの海宮からの還幸」と言っているのは正しいと思うが、十番、十一番、十二番はそれを逸脱しており、むしろ海の豊穣を祈願する漁民ならではの祭事となっている。
 浜辺に注連縄を張り巡らして行うのは、今でも内之浦岸良の平田神社の「夏越し祭」において見ることができる。
<仏 寺>
海雲山正龍寺  地頭館の西4町半にある。伊集院広済寺の末で臨済宗である。創建年代は不詳だが、由来記には小祢寝(根占)の祢寝氏一族の山本氏が、鹿児島湾の中央で釣り上げた魚の腹中に黄金が入っていたのを奇とし、その後発心して山川に正龍寺、小祢寝に東漸寺(宝資山光寿院)を建立した―とある。
 その後廃れていたのを中興したのが虎森和尚で、和尚は京極氏の出で、京都南禅寺の塔頭に居たが、志あって明に渡ろうとして山川に下向した。南禅寺で島津一族の石屋禅師とは修行仲間だったことから、当時の領主・島津元久公の肝煎りで当寺の再興主となった。
 文禄年間の太閤検地の際、寺社領が没収されていく中で当寺の重要性を認識していた細川幽斎は、親書により正龍寺の寺領はすべて元のままとした。
 ○藤原惺窩の事跡
 藤原惺窩は播州細川邑の出身で、冷泉家の一族。最初仏門に入るが、儒学に志し、渡明しようとして鹿児島に到来、山川港から船出をしたが、海路途中の悪天候で硫黄島に流され、山川港に再来し、乗船の日待ちをしている間に、正龍寺で小僧たちが桂庵玄樹創始、南浦文之改訂の「家法和点」という漢文国読法により読んでいるのを目の当たりにして、渡明を止め、「家法和点」を借りて写し取り、それを携えて京都に帰り広めた。
 惺窩は和点を自らが創始したように謳ったため、京師において学者としての地位を確立した。江戸時代に入っては弟子の林羅山をはじめ幕府の学問のトップを輩出したゆえ、江戸儒学(朱子学)の鼻祖と称賛されるのだが、実は鹿児島では文明時代の儒学者・桂庵玄樹が創始以来、同じような読法により学ばれていたのであった。決して藤原惺窩の独創ではないことを忘れてはならないのである。(惺窩がわが薩摩から「剽窃した」と強い口調で非難している)。
南禅寺…臨済宗の京都五山(天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺)のその上に位置する別格の寺。なお、鎌倉五山は建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺である。
 漢文・漢詩を対象とした五山文学は隆盛を極めた。
細川幽斎…細川藤孝。雅号は幽斎玄旨。戦国末に丹後宮津11万石大名。文禄年間に太閤検地の中心人物として鹿児島に入り、太閤尺で算出し、薩摩国28万3千石、大隅国17万5千石、日向諸県郡12万2千石。合計57万8千石を計上した。
 功績で大隅の高隈・岩広等の3千石を受領した。藩政期、肥後細川家の祖でもある。
常住山宝持院 不動寺  地頭館の西南4町余、坊津一乗院の末で真言宗。当邑の祈願所である。
松吟山龍山寺  地頭館の西南西1里18町、大山村児ヶ水にある。頴娃の證恩寺の末で曹洞宗。
 初め、近衛信輔公が坊津に謫居していた時に建立したが、洪水で壊滅後、證恩寺第9世の天応心和尚が再興し、龍山寺と改名した。
近衛信輔…関白左大臣近衛前久の子。自身も左大臣まで昇任したが、関白の座を豊臣秀吉に塞がれ、反発し自ら朝鮮の役に加わろうとして天皇の勅勘を蒙り、坊津に三年間流された。
<旧 跡>
土矢倉城  地頭館の南南西3町の屹立した岡の上にある。昔、頴娃の伴姓頴娃氏の所領であったが、戦国期に山川郷を失っていた。しかし頴娃氏7代久虎の功により、旧に復した。 伴姓頴娃氏…肝付氏11代兼元の二男兼政を初代とする一族。
古城合記 ○臼ヶ城…鳴川村  ○馬脊城…鳴川村
無瀬浜  地頭館の南南西25町余に長さ5、6町の砂浜があり、無瀬浜と呼ぶ。大昔にトヨタマヒメが竜宮から頴娃開聞にやって来たとき、上陸した場所という。また一説には大宮姫が開聞に行く時に船を憑けた所とも言う。 大宮姫…天智天皇の妃で開聞山麓の生まれとされる。
甕破坂  地頭館の西南西19町余、頴娃に通じる坂道である。大昔竜宮城から千年酒を甕に入れて開聞宮に上納しようとして途中で甕を割ってしまった坂道といわれる。
木村重成の墓  地頭館の南南西2町余、往古ここに日蓮宗妙見寺という寺があったが、鹿児島に移転した。その跡に古墓が3つ残り、その内の一つの正面には「智見院隆清尊魂」とあり、左右の年号は寛永6年2月25日と刻まれており、この墓の主は「木村長門守重成」であると古くからの言い伝えがある。真偽は不詳である。 木村重成…豊臣秀頼方の有力武将。大坂夏の陣で戦死したとされる。薩摩への逃亡説では、秀頼が谷山郷へ、また真田幸村が頴娃の雪丸へ逃れて来たという説もある。
 琉球征伐
  出軍事略
 慶長14年(1609)3月4日、薩摩軍3000余が大将・樺山久高・平田増宗の指揮の下、山川港から琉球国へと向かった。琉球の運天港・大灣港を経由して那覇港に入ったのが4月1日であった。水陸から進軍して首里城を包囲し、ついに5日、首里城の尚寧王は降伏した。
 王と三司官達を連れて鹿児島に戻ったのは6月17日であった。7月になって家康から教書で琉球を薩摩領とするよう許可があり、謝恩の意味を込めて駿府に上がり、8月6日、家康に朝見、さらに江戸にまで上がり、8月28日には二代将軍秀忠にも謁見した。
 この薩摩藩による琉球王の上り下りの際には通過する領国の大名たちは道路普請、橋の普請、牛馬の世話等に駆り出されたが、このことは後に参勤交代などの大名行列が通行する際にも恒例となって行われるようになった。
 琉球の検地石高9万石余が薩摩藩に加えられことになった。
尚寧王…琉球中山国尚氏の初代。始祖は日本の文明年間に王位に就いた尚円。
 尚氏王朝では摂政・三司官制度を採用し、初代尚寧王では、摂政に具志頭王子朝盛ほか2名、三司官に浦添親方良憲ほか11名の親方がいた。
 鹿児島城下には「琉球仮屋」が置かれ、琉球からの年頭使(朝見使)が一年交替で勤務した。天明の頃に「琉球館」に改称している。
<叢 談>
柬埔寨国渡海
の御朱章
 慶長年間にはるか柬埔寨(カンボジア)へ官用により渡海することがあり、山川村の大迫吉之丞という者が出航したが、その時の朱印(章)が、吉之丞の子孫の下に残されていた。
 官用とは「磁器」を求めてのことのようである。
 利右衛門
  甘藷の功
 大山村岡児ヶ水(おかちょがみず)の漁師で、寛永2年(1705)に琉球で手に入れた甘藷のツル苗を持って帰った。ここから甘藷の栽培が広まり、薩摩藩における代表的な救荒作物となり、享保17年(1732)の全国的な大飢饉の時でも餓死者は出なかった。
 幕府はその事実を知り、薩摩から苗を取り寄せて、安房や上総の地に植えさせた。薩摩から来たのでサツマイモと呼ばれるようになった。
利右衛門…前田利右衛門と前田氏を付けることが多い。功績顕著だったためだろう。
 今では生誕地である岡児ヶ水に、徳光神社として祭られている。
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