『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

  
第12回 薩摩国 頴娃郡 頴娃郷     (H26.3.16) 

※頴娃(えい)郷は頴娃郡内ただ一郷から成る。このような一郡一郷の例は他に本土では谷山郡谷山郷があるだけである。地頭館は郡村にある。『続日本紀』に「衣評督(えのこほりのかみ)」とあるように、古音は「え」だけで「えい」ではない。
 (注)頴娃郷は(一)(二)に分けて掲載されているが、ここでは分けずに合載する。また、寺社の多くは省略した。

概     要 備 考
<山 水>
開聞嶽  地頭館の南南東1里20町余、東北は宮十町村、仙田村に係り、西南は海に没している。山頂まで1里1町余、山麓の周囲は3里16町。
『三代実録』には「開聞神山」と出る。また旧記には「空穂島」ともある。「鴨着く島」「筑紫富士」「薩摩富士」「海門山」等々の異称がある。
開聞岳…標高は922m。二重式火山で、頂上部は貞観16年(874)に噴出した。
水鳴川  地頭館の西2里余、御領村にある。海口には湾があり、船が入る。この海口と西の石垣浦の間は眺望すこぶる良く、むかし薩摩に測量にやって来た伊能忠敬は「列国の内にかくのごとくなる景勝のところはまた得べからず」と激賞している。 伊能忠敬…66歳にして幕命により全国測量の旅に出る。九州南部は文化7(1810)年のことであった。
上瀑・中瀑
潮鶴瀑
 地頭館の北東23町、集川の中の瀬にある滝。
鏡池  地頭館の南東1里12町、仙田村にある。周回5町ばかり、嘉吉3年(1443)の6月朔日に池になったという。
池田湖  地頭館の東2里余、今和泉郷の池田村に属す。今和泉郷に詳しい。
石籬浦  いしがきうら。地頭館の西2里余、御領村にある。綿打川の海口である。『続日本紀』天平勝宝6年(754)4月、大宰府言「遣唐第四船、判官布勢朝臣人主等、来泊薩摩国石籬浦」と見える。
川尻川  地頭館の南南東2里6町余、仙田村にある。この辺りから山川津までの海浜では漁業が盛んで屋久島まで行くという。
○綱敷天神…開聞岳が海に落ちる岩礁上の天神社。近衛関白信輔公が坊津に流謫の時、ここを参拝して詠んだ歌が残る。
近衛関白信輔…文禄の朝鮮役に自ら加わろうとして勅勘をこうむり3年間坊津に流された。
脇浦  地頭館の南1里余、仙田村にある。かなり広い浦で人家も多い。
花礁  はないそ。地頭館の南1里12町余、仙田村脇浦の海辺にある。岩礁の連なった磯で、潮だまりが多く、その中に土俗で「セイ」と呼ぶハマグリ状の生き物が群生し、出す舌の色形が菊を思わせる。
<居 処>
頴娃野馬牧  地頭館の北2里余、牧之内村にある。周囲3里18町余、毎年馬を選抜するとき、一頭を開聞社へ献納するという。
<神 社>
開聞神社  地頭館の南東1里9町余、宮十町村にある。『延喜式』には「枚聞(ひらきき)」とある。『三代実録』では「開聞」だが、その他の古書ではどちらも用いている。
 祭神は本殿に国常立・大日霊貴・猿田彦の三神、相殿に八座を祀り、開聞九社と呼んでいる。本殿(本宮)と東宮・竜王宮・廻殿宮・聖宮・姉姫宮・天上宮・荒仁宮・西宮を併せて九社というのである。
 『延喜式神名帳』に「薩摩国・頴娃郡一座・枚聞神社」と載っている。祭神を『一之宮記』では猿田彦命、『神社啓蒙一宮記』では綿積神(ワタツミ)とする。『神社選集』『薩隅日神社考』(本田親盈著)には「開聞社は猿田彦大神、西宮は天智天皇並びに后」とある。
 『開聞縁起』では「二龍宮はワタツミ神で、往古よりここに祀っている。これが本社であり、地主神である」とする。また「太古はここが龍宮界であった。ホホデミ(山幸)がトヨタマヒメと出会ったのもここであった」とも記している。
 貞観16年(874)7月、開聞嶽が噴火して人民が騒動したが、翌8月に都から右大臣藤原基経を勅使として開聞神社へ二千戸の封戸を賜った。鹿児島郡郡元村に一宮を創建したのもこの時である。
 神社選集や地元の伝承で「西宮は天智天皇を祀るが、そのいわれは后の大宮姫が開聞の出身であり、天智帝はここを訪ねて来て死ぬまでの30数年を過ごした」というのは、ホホデミ(山幸)がここ龍宮界を訪れて豊玉姫と結ばれた―という古伝になぞらえたもので、信じるに値しない。
 別当寺は瑞応院。『元亨釈書』に「白鳳元年三月、智通を僧正と為す」とあり、瑞応院の記録にも「白雉3年(652)開基す」とし、開山を智通僧正とするが、この時期の文書に僧正号を賜った僧は見えないので、このような古い開山であるとの確証はない。
『延喜式』…延長5(927)年成立の法令集。
『三代実録』…延喜元(901)年成立。清和・陽成・光孝三天皇の年代記。藤原時平らが撰修した。
藤原基経…藤原北家の6代目で関白・太政大臣を歴任。上記・時平の父。5代後に道長、6代後に頼通がいる。
 妹・娘はすべて天皇の女御になっている。
 最上位の顕官が勅使としてはるばるやって来たということは、当時いかに噴火という現象が「神意」として捉えられていたかが分かる。
『元亨釈書』…げんこうしゃくしょ。元亨2(1322)年、虎関師錬撰。日本の高僧の伝記を記した書。
<旧 跡>
頴娃城  地頭館の東12町、郡村にある。得仏公(初代島津忠久)の時に川辺平次郎当房の次子・三郎忠長が頴娃を領して頴娃氏を名乗った。男子がいなかったので益山兼純の子・忠純を養子にして後継としたが、恕翁公(7代元久)の時、憲純が叛したのでこれを成敗し義天公(8代久豊)を置いた。
 その後頴娃氏一族の小牧氏を置いたが子の代にまた叛したので征伐し、後継に肝付兼政(肝付11代兼元の二男)を据えた。
 肝付氏時代は6代続いたが、天正16(1588)年、久音の時に当郷を没収し、直属とした。
川辺氏…薩摩平氏の一門。
久音…ひさなり。薩州島津家の島津義虎か。
獅子城  地頭館の東23町、郡村にある。義天公(久豊)の時に肝付兼政が入城した。5世孫の久虎の時代の天正15年(1587)、久虎は城を五層とし天守を造り、軒角から四方に鉄の鎖を伸ばして颱風や地震に備えた。また、五層の第三楼を金間と呼んで金泥を施し、結構を極めたという。
 久虎は同年8月に落馬して死んだ。
落馬して死…おそらく事故ではなく島津氏の手に掛かったものだろう。天正15年と言えば5月に島津氏は秀吉に降伏しており、喫緊の事態の中にあった。
九郎塚  地頭館の南東1里4町余、宮十町村にある。久虎の異母兄・兼有を頴娃九郎といったが、久虎の母に容れられず島津貴久(大中公)に仕えていたが、元亀2年(1571)に肝付兼続軍が攻めて来た時に兼有は開聞社に参籠、住持の頼宋法印とともに殺害された。
 その後貫明公(16代義久)の差配で頴娃を収めようとし、久虎の母の一党が指宿城に拠って叛したのを證恩寺に導き入れて殲滅した。これを「證恩寺崩れ」と呼ぶ。
明人張昂
の寄寓
 張昂は明の南京から渡来して頴娃領主であった久虎の庇護を受け、和名を孫次郎として筆硯の役をこなしたという。渡来の理由が「継母の毒殺を恐れて」とあるが、久虎の異母兄と継母の関係に似ている。
 継母の死没したのを聞いて帰ったが、征韓の役に明の将軍は張昂を日本通詞として採用し、しばしば新寨(シンサイ)の島津軍駐地などにやって来たという。
新寨…慶長の役で島津氏の主力・義弘軍がここを拠点にした。明軍38000の首級を挙げた泗川の戦いは有名である。
 
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