『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

    〜揖宿郷・山川郷歴史散歩〜

※平成25年度の最終回は歴史散歩に当てた。今回のコースは揖宿郷と山川郷、一部で頴娃郷に
またがる南薩でも錦江湾沿いの名勝・旧跡を1泊2日で訪ねた。


  
<4月19日(土)>

見どころ(史跡・旧跡) 内    容
1、清泉寺跡(鹿児島市谷山七ツ島)


優に2メートルを超える巨大な五輪塔
 産業道路に沿う「サンライフプール」を過ぎて川辺方面への信号を右折して「影原」信号に到りまた右折。150mくらい行くと右手に「清泉寺跡へ」の標識があるから右折して道なりに約200mで長太郎焼窯元への下り坂を行く。すると間もなく正面に水源地取水所が見える。その辺り一帯が清泉寺のあった場所である。
 その名の通り清泉が豊富に湧き出している(写真上)
 取水所の向かい側にある金属製の網目の柵の一端が開くので入って行くと小さな清流が岩壁を背にして流れ、岩には2メートルくらいの磨崖仏が彫り込まれている。
 小さな五輪塔(供養塔)類がたくさんあり、竹林の中を上がって行くと正面に巨大な五輪塔が立つ。これが大隅半島垂水市の旧新城島津家を創立した島津大和守久章の墓(納骨五輪塔)である(写真下)
 なぜ久章の墓がここ薩摩半島にあるのか?
 そもそも久章は垂水島津家(永禄4=1561年創立)の第4代久信の庶子であったが、聡明なため祖母の新城様(島津第16代義久の次女・玉姫)に可愛がられて垂水家とは別の新城家を創立していた(寛永13=1636年)。
 藩政期に入り2代藩主光久(島津第17代義弘の孫)の名代として江戸に上がったが、その際に祖母の出である義久流の不遇を訴えたらしく、江戸から帰ると川辺に蟄居を命じられた。
 しかしその後の詮議により「遠島(流罪)」の罪となり、川辺から清泉寺に移され、ここで反乱を起こしたため誅殺されている(正保2=1645年)。
 因みに久章の父・久信も同様の考えを持っていたようで、こちらは精神を病んだらしく、27歳の時に鹿屋に隠居の身となった。しかしその素行行状が領民を害するようになり、26年後の寛永14年(1637)に毒殺されたと言われている。
2、喜入の肝付氏領主館跡
   (鹿児島市喜入町喜入小学校)

 給黎郷(きいれごう)に領地を持つ肝付氏は大隅の肝付氏本家の分流で肝付氏12代兼忠の次男兼光の後裔である。
 兼光流は本家と袂を分かち、一貫して島津方とよしみを通じており、兼光が大崎城主、次の兼固は溝辺城主、次の兼演が加治木城主―というように本家とは離れて行き、本家が島津氏に敗れて阿多12町に改易された後も生き延び、江戸期には島津家の重臣として喜入地方に所領を与えられた。
 島津藩には一門家(垂水・加治木・重富・今和泉)を筆頭に一所持家(都城・花岡・日置・永吉・佐志・宮之城・黒木・市成)と一所持格家(他氏流7家)が最上層を占めたが、この喜入肝付家は一所持格家ではトップに位置していた。
 領主館は現在の喜入小学校の場所にあった(写真上)
 高い石垣が積まれているが、下半分が領主館当時のもので、上半分は明治に入り、一時期、仮屋(郷役所)が置かれた際に増設されたものである。
 小学校の向かい側に「志々目」という表札の武家門を持つ屋敷がある(写真下)が、志々目氏は喜入肝付氏の重臣であった家柄で、元をただせば大隅の大姶良郷獅子目に出自を持つ古い由緒の家筋である。おそらく肝付氏、島津氏土着より前の豪族であったに違いない。よく手入れされた風格ある庭とともに長い歴史を感じさせる一コマであった。

<喜入肝付氏成立までの系譜>
 肝付兼光(大崎)―兼固(かねもと・溝辺)―兼演(かねのぶ・加治木)―兼盛(加治木)―兼寛―兼篤(喜入)
3、海運王・濱崎太平次関連の遺跡
      (指宿市潟口〜湊)

稲荷神社の境内入口のアコウの大木

湊児童公園一角にある太平次の墓
 濱崎家は江戸時代に国分から移住してきた一族で、鹿児島神宮の神主家であったと言われている。
 指宿で海運業を営み、寛政の頃、5代目の太左衛門は九州一の富豪になった。
 しかし8代目の太平次が生まれる頃には家運が傾いていた。 8代目は若くして自ら沖縄航路に就いて体験を深め、家業を盛り返していったが、薩摩藩家老の調所笑左衛門広郷に見込まれてからは薩摩藩との繋がりにより貿易高は飛躍的に伸びて行った。
 だが、藩政改革に多大の貢献をした調所は薩摩藩の行き過ぎた密貿易や贋金づくりなどの嫌疑を幕府から受けることになり、責めを一身に負って自殺に追い込まれた。
 8代太平次はその後も順調に事業を拡大し、長崎・那覇・大阪・江戸・松前などに交易の拠点を設けるまでになった。
 その原動力は何と言っても巨船の運航にあり、指宿には最大で1500石積みの船を三席同時に建造するだけのドックがあったという。
 その太平次も薩摩藩の密貿易に加担した廉で、文久3年(1863)に大坂で変死を遂げた。享年49歳だった。

 今その跡を偲ぶものはほとんど無いが、わずかに指宿市潟口に、ドックのあった湊地区とを結ぶ運河の跡が残され、また湊には建立したという「稲荷神社」(写真上)が現存するばかりである。
 生家は旧電電公社(NTT)となり、建物の横にそう碑が立つ。
 また、墓は旧専売公社跡地に作られた児童公園の片隅にあるが、まことにささやかな墓塔でしかない(写真下)
 「一航路の積み荷で蔵が建つ」と言われた幕末期の海運最大の事業主であった8代濱崎太平次の墓にしては寂しい限りである。
 
 
  
<4月20日(日)>

見どころ(史跡・旧跡) 内    容
4、山川港(指宿市山川町)


河野覚兵衛家の墓塔群
現在も存在している正龍寺の門前で。
 山川港は藩政時代から「鶴の港」と呼ばれ、風光明媚な上、海上交通の要衝でもある港湾だが、この湾の成因はわずか5千年前の噴火によるものである。
 港町散策はあいにくの雨でよくはできなかったが、津口番所跡・薬園跡(旧山川小学校があった)・山川郷仮屋跡などを眺め、そのあとに指宿市指定文化財「河野覚兵衛家墓塔群」と隣り合う「旧正龍寺墓地跡」を訪れた(写真上)
 河野家は山川港を本拠に海運で財をなした。出自はおそらく瀬戸内海水軍であろう。現在でも家系は続いており、昭和48年建立の墓記には10代河野覚兵衛とあった。
 続いて正龍寺墓地跡と正龍寺を訪れる(写真下)
 海雲山正龍寺は室町時代に根占の夫婦が海で獲得した仏像を祀ったことから始まるとされる。その後、禅宗に宗旨替えされ、沢山の僧侶が修行をしていた。
 江戸時代に近い頃、ここ山川港から明国に渡ろうとした藤原惺窩が、船待ちの間に正龍寺を訪れたところ、僧侶たちが漢文の典籍を声を出してスラスラと呼んでいるのに驚き、確かめたところ、読本には返り点などが施されていたという。「これがあれば明に渡って漢籍を修めるまでもない。読めるではないか」と書写して帰京し、以後、これをもとに教えを広め、「漢学の藤原惺窩」の名声を得て徳川幕府にも聞こえるようになった。
 惺窩自身は幕府の要路に入っていないが、弟子の林羅山をはじめ何人かが取り立てられて儒教宣布の立役者になったので、師である惺窩もおのずと高名を馳せるようになったのである。
 薩摩藩の『三国名勝図会』では、惺窩が山川で学んだ漢文の「訓読和法」は薩摩藩の儒学者桂庵玄樹の創始であり、惺窩がそれを剽窃しておのが手柄のように唱えるのは許し難いと、口を極めてののしっている。
  
5、前田利右衛門の墓(徳光地区)
 前田利右衛門は山川町徳光生まれの漁師(船子)で、琉球に行った折に、サツマイモの有用性を見てひそかに苗を持ち帰った。
 地元に栽培を広めたところ大きな成果が上がり、以後、サツマイモの栽培が広がって薩摩藩内の救荒食品となった経緯があり、人呼んで「カライモおんじょ」と言われるようになった。
 サツマイモはその後幕府方にも奨励され、次第に普及していった。幕府官吏である青木昆陽等がその中心人物である。
 鹿児島では琉球から船で到来したので「唐イモ」と言うが、江戸幕府方では薩摩藩から献上されたので「薩摩イモ」と言う。それぞれ出処を明示しているわけである。
 写真は一介の船子の墓にしては立派な「山川石」製の利右衛門の墓。
6、枚聞神社(指宿市開聞町)

 舞殿の前で。相変わらずの雨の中
 開聞神山の麓にあり、往古は開聞岳そのものを祀る場所だったと思われるが、鹿児島の神社縁起で多くみられる「和銅の頃の創建」譚にあるように、奈良時代に入るころすなわち律令制の開始とともに建立整備されたに違いない。
 ところが貞観16年(874)に開聞岳が大噴火し、神社施設は悉く壊滅してしまった。この時に祭神を遷して仮宮となったのがのちに見学した揖宿神社である(詳細はそこで)。
 『三国名勝図会』には驚くことが書かれている。奈良政府はこの噴火を鎮めるために開聞社に神領2000戸を封じたのであるが、その時の勅使が右大臣。藤原基経だったのである。本土南の最果ての地方まで、当代最高位の高官と言ってよい基経が直々にやって来たということは、いかに当時の人びとが自然の脅威を神意と捉えていたかを示す史料と言えるだろう。
 ※基経は藤原房前(北家)の6世孫。基経の5世孫が道長。
7、成川遺跡(山川町成川)  昭和32年に発見された弥生中期から古墳時代にかけての遺跡。国指定。
 立石式土壙墓という独特の墓制下に、300体以上の人骨が眠っていた。副葬品のほとんどは鉄製の刀・鏃で、戦士たちの墓ではないかとされる。
 現在、石の標識が立つだけである。
8、橋牟礼川遺跡(指宿市橋牟礼)
 大正年間に中学生が採取した土器片から、考古学者の発掘につながり、ある明瞭な火山灰層の上と下では土器の質やデザインが違っており、縄目紋様のある土器の方が古い時代に作られたものであることがはっきりと判明した。そのような重要性によって国の指定を受けた遺跡である。
 また、開聞社を壊滅した貞観の大噴火の火山灰が当地の当時の畑などに積もったことも分かっている。
9、光明禅寺(指宿市南十町)
 指宿市立南中学校から北へ300mほど行くと「柳公民館」が見え、そこを左折して100m余り、やや上り坂になる左手に光明禅寺はある。
 ここには「湯豊宿」と刻まれた山川石製の石碑(写真上のガラスケースの中)があり、指宿が湯豊宿から転訛した地名であることを証明している。この石碑は戦国期にここの地頭であった伴姓津曲若狭守兼任が作らせたものである。肝付氏配下の津曲氏は高山町野崎の出自と言う。

 『三国名勝図会』には「源忠山光明寺」とあり、その開山を藤原鎌足の子で出家して唐に渡り仏教(法相宗)を学んで帰朝した定慧上人とする。
 これが本当だとするとこの寺の前身「光明寺」の建立は奈良時代以前となり、後述の揖宿神社の天智天皇来訪譚とも重なり、謎が謎を呼ぶ譬えの通りになってくるから面白い。
10、揖宿神社(指宿市東方)

 社記によると、揖宿神社は古名を「葛城宮」といい、後に天智天皇となる葛城皇子を祀っていた。
 ところが開聞岳の噴火で枚聞神社が大被害を受け、祭神を一時ここへ遷して祀ったが、いつしか「開聞新宮」と呼ばれるようになり、あたかも開聞神社の分社のようになってしまった。上述のように、本来の祭神は「葛城皇子=天智天皇」だけであった。
 神社拝殿で参拝の後、社司の話を聞き、裏手へ回る。
 そこには開聞神社からの遷座の神々(ヒコホホデミ、トヨタマヒメなど)に並んで「天命開別尊」(あめみことひらかすわけのみこと)を祀る「西宮」が鎮座している(写真下)
 これこそが天智天皇(葛城皇子)を祀るお宮で、本来なら正殿に祭られてしかるべき祭神である。
 社記にはこのほかにも斟酌すべき内容が盛り込まれており、大隅半島に多い天智天皇の事跡・伝承とともに調べて行く必要に駆られる。先の光明寺の定慧開山伝承もこれに加えて考えてみたいと思う。

 なお、揖宿神社には樹齢千年という楠の大樹が7本ばかり叢林を成しており、これだけでも見るに値する。
11、今和泉島津家墓地
         
(指宿市今和泉)


 今和泉島津家は江戸時代の第4代藩主・吉貴の7男・忠郷(たださと)(写真上は忠郷の墓塔)が、延享元年(1744)、途絶えていた和泉(出水)家を復活したもので、頴娃軍の一部を割いて領地に宛がわれて成立した。
 島津一門家の四家の内では最も遅い創立である(他は垂水家=1561年、加治木家=1625年頃、重富家=1737年)。
 第5代の忠剛(ただたけ)の娘・篤姫(幼名・於一)は島津斉彬の養女になり、次いで近衛家の養女となって徳川将軍13代家定の正室になっている(写真上は忠剛の墓)
 篤姫こと天璋院は肝付尚五郎こと小松帯刀と同年生まれで、篤姫の実家の領地であった今和泉と、肝付尚五郎の実家の領地であった喜入とは隣り合っているため、先年のNHK大河ドラマ『篤姫』では、幼なじみとして今和泉海岸で遊ぶシーンがあったが、あのようなことは有り得ない。

 今和泉家の領主館跡は現在の今和泉小学校の敷地にあった。白砂青松の美しい海岸の傍らにあり、篤姫が幼い頃に避寒の地としてやって来たであろうことは想像に難くない。
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