『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

  平成26年度 第1回  

    
薩摩国 河辺郡 川辺郷       (H26.5.18)

 
※河辺郡のうち鹿籠郷を除き、地頭を置いている。地頭館は現・平山小学校の下にあった。

概       要 備  考
<山 水>
熊ヶ嶽  地頭館の北東2里17町余に聳える高山。 川辺峠の西2キロにある。標高590m。
永田川  多くの支流(野崎川・清水川・野間川・麓川・小野川・高田川など)を併せて当邑で一本の川(永田川)となり、下流では万之瀬川となって加世田・金峰を潤し、東シナ海へ注ぐ。 数多くの川が一か所に集まる所として「川辺」と呼ばれるようになったようである。
櫻の潭(ふち)  地頭館の北東27町余り、清水村にある。
松ヶ轟の瀑  地頭館の西北約30町にある。
小野の瀑  地頭館の南24町余、小野村にある。
山中瀑  地頭館の東2里ばかり、清水村にある。
鬼穴  地頭館の西南2里余、宮村大久保にある。洞窟の中に虚空蔵菩薩の石像があり、小児の咳によく利くとして洞から湧き出る水を飲ますと卓効があるといい、参詣客が多い。
<神 社>
飯倉新宮
三所大明神社
 地頭館の南15町余り、宮村にある。祭神は天智天皇皇女(中宮)・天智天皇(東宮)・倉稲魂命(西宮)の三座で、当邑の総鎮守。
 和銅年中に勧請したと口伝がある。鐘銘に「薩摩国川辺郡飯倉新宮鐘、寛元五年丁未五月日、鋳師河内佐山太郎、行事平延貞」とあり、少なくとも寛元五年(1247年)までに建立されていたことは確かである。
 初め飯倉山に飯倉大明神(祭神はウカノミタマ)を祭っていたが、その後天智天皇と皇女を併せ祀るようになった。皇女は頴娃開聞宮からの勧請と言い、皇女の姉は知覧へ、妹は川辺へやって来たという。本来の祭神は天智天皇の皇女ではなく海神の娘トヨタマヒメとタマヨリヒメであったのを付会したものであろう。
○奉納品…琵琶(上総介久世の寄進)、福寿花瓶(近衛信輔寄進)、刀、兜、鑓など。
倉稲魂命…ウカノミタマ。稲を神格化したもので、稲荷大明神のことである。
皇女の姉は知覧…知覧の豊玉姫神社のこと。
上総介久世…島津総州家4代目。総州家は5代貞久の子・師久(もろひさ)から始まる。師久は6代、子の伊久(これひさ)は7代を継承した。
諏訪
上下大明神社
 地頭館の西4町余り、平山村の平山城内にある。正祭は9月28日で、この日には平山・田部田・長田三村の農夫たちが舞踊を奉納する。
神社合記  ○恵比寿社  ○飯綱大明神  ○諏訪上下大明神(小野村)  ○高良八幡社(宮下村)  ○若宮大明神(神殿村)  ○若宮大明神(野崎村)  ○川波大明神  ○山神  ○白山権現廟(清水村)…神体は騎乗武者の木像。往古より白馬を忌む。また婦人がこの山に入るのを憚っている。  ○諏訪社(古殿村)  ○一之宮椎林妙見大明神 ・…白馬に限らず白を忌避する伝承は大隅半島にも多い。私見では平家(赤旗)方が源氏(白旗)を忌避したのに基づくと思う。
<仏 寺>
香芳山清水寺
寶光院
 地頭館の北東30町、清水村にある。本府大乗院の末寺で真言宗。かって火災に遭い、旧記など焼亡したため開山の経緯などは不明である。
忠徳山洞岳院
寶福寺
 地頭館の北東2里17町、清水村の熊が嶽の八合目にある。市来の曹洞宗金鐘寺の末寺である。
 開山は覚卍字堂禅師で、母懐妊の時に胸に卍字の相が現れたのでそれを名に付けたという。京都南禅寺に学び、帰郷の後、加賀の竹窓和尚の下で印可を受けた。このときすでに58歳であったが谷山の烏帽子岳山中でひたすら禅の修行をしていたが、猟師藤田氏の勧めで熊が嶽に庵を結んだ。応永30年(1423)のことという。こののち14年、永享9年(1437)に示寂。享年81歳。『本朝高僧伝』に記載あり。
『本朝高僧伝』…卍元師蛮(まんじげんしばん)という臨済僧が著した高僧の所伝。元禄13年(1702)完成。1662人の伝記から成る。
・垂水家5代目に当たる久章が蟄居させられた寺でもある。
龍豊山玉泉寺  地頭館の西2町、平山村にある。最初は長興寺と言ったが、明応5年(1496)7月に島津用久の妻(法名・玉泉智芳大姉)の菩提寺としたため寺号が玉泉寺となった。 島津用久…持久とも書く。第8代久豊の次男で薩州家の祖である。
飯倉山明王院
大聖寺
 地頭館の南17町、宮村にある。坊津一乗院の末で真言宗。飯倉大明神の別当寺である。
仏宇合記  ○西来院  ○神殿寺  ○観音寺(観音堂)  ○向城寺  ○毘沙門堂  ○薬師堂  ○流曲院観音堂  ○薬師堂
<旧 跡>
平山城  地頭館の後ろの山にある。「内城」とも称している。
 周囲およそ19町(2キロ余)北・東・南は断崖で東南には大河がある。西方は次第に低くなっている。
 上古に平姓村岡五郎良文の4世孫・伊作平次貞時(九州総追捕使として下向、肥前羽島に居住)の4世孫・平次郎大夫良道は伊作を領有し、その子の道房が川辺を領したので川辺氏を名乗った。
 道房の4世孫は承久の乱に連座して没落したが、のちに子の信道はここを再び回復している。ところが南北朝時代の頃にはここを久哲公(伊久)が領有したので、川辺氏はその後の記録からは消えた。
 応永30年(1423)に時の第8代義天公(久豊)は当地を伊集院頼久に与え、のち島津用久の第二子延久が領有し、さらにその子の昌久の代になって円室公(第11代忠昌)に献上された。
承久の乱…北条義時追討の院宣が発せられたが、幕府軍の入京により院政が停止され、後鳥羽上皇(隠岐)・順徳上皇(佐渡)・土御門上皇(土佐)はそれぞれ流された。
城営合記  ○松尾城…野崎村。高城ともいう。天文8年(1539)、島津忠良は島津実久を追って来たが、当城の鎌田加賀守は城を明け渡したので忠良は新納康久を入城させた。  ○佐多城(宮村)…佐多太郎次郎久慶が旧領知覧を去ってここに居城したが、子の忠充の代に再び知覧に戻っている。  ○陣の尾(野間村)  ○茶磨ヶ営(田部田村)  ○猿山営(宮村)
箭掛松  やかけのまつ。地頭館の東6町余、宮下村にあり。
 久哲公(7代伊久)がここで島津家本宗相承の太刀と鎧を恕翁公(7代元久)に譲った。その旧跡に一本の松を植えたものである。
・南北朝時代のこの時期に総州家と奥州家の並立が6代・7代の二代続いた。
近衛桜  地頭館の北北東13町余、野間村にある。近衛信輔が坊津へ蟄居の折に櫻の杖を当地に置き忘れたのから根が着いて大樹になった。 ・近衛信輔の坊津滞在は3年(文禄3〜5年)に及んでいる。
鳴野原  地頭館の北東30町余、神殿村にある。松尾城を巡る伊集院頼久と義天公(8代久豊)との戦乱で、義天公方の和泉直久・蒲生清寛・伊地知将監などの将士が戦死した場所である。
 ○穴弓場(平山城大手口)  ○金山(神殿村)


       薩摩国 河辺郡 山田郷

  ※明暦年間(1655〜8)に加世田郷の一部を割き山田郷を置いた。地頭館は中山田村、旧・勝目小学校辺りにあった。

概     要 備 考
<神 社>
王子大明神社  地頭館の東北東6町ばかり、中山田村にある。祭神は開聞宮九社のうち王子宮。割注に、「開聞宮に王子宮と称するものなし。不詳である」とある。 ・現在の竹屋神社。とすればニニギノミコトか?
窟権現祠  いわやごんげん。地頭館の西南20町に岩屋があり、中に権現の小祠がある。
<仏 寺>
妙見山寶性院
光明寺
 地頭館の東南7町ばかり、中山田村にある。坊津一乗院の末で真言宗。開基の詳細は伝わらないが、当郷の祈願所である。
永谷山善積寺  地頭館の南1里2町ほど、上山田村にある。肥後国八代郡曹洞宗明峰派悟真寺の末である。
 開山は東峯正菊和尚だが、年月は伝わらない。そのいわれは毒蛇が里民を苦しめているのを正菊和尚が座禅禅定の功徳を以て救ったのに由来する。道鑑公(第5代貞久)の覚え目出度かったという。
毒蛇が里民を苦しめ…同じことは高山本城に道隆寺を開いた蘭渓道隆の故事にもあった。
<旧 跡>
勝目ヶ城  地頭館の東5町ばかり、中山田村にある。
 土地の者の口伝に、大野氏の先祖が何代か居城していた―とあるが、島津国久の第三子・駿河守忠綱が大野氏の始祖である。父国久は出水・高尾野・阿久根・河辺・山田・鹿籠等を兼領しており、その一つの山田を忠綱が守ったものだろう。
島津国久…薩州家の2代目。
 久豊―用久―国久―重久が嫡流。忠綱は重久の弟。

       薩摩国 河辺郡 鹿籠(かご)

  ※ここは喜入氏の所領であり、領主館は枕崎市の現・枕崎小学校の地にあった。

概     要 備 考
<山 水>
山嶽合記  ○国見嶽  ○宗前嶽…牧場苑にある  ○薗見嶽…牧場苑にある
金 山  領主館の北29町余、鹿籠村にある。天和3年(1683)、初めて採掘し金を採取した。金山の周囲1里20町、世に鹿籠金山という。
大川水  源が一つは当村の宇敷山、もう一つは加世田の津貫村で、領主館の近くで合流し邑治を流れて海に入る。 ・前者を中洲川、後者を花渡川という。
枕 崎  領主館がここにある。海湾の風光に優れた景勝の地である。
立神石  領主館の南西1里ほど、鹿籠村の海中にある。
<神 社>
諏訪
上下大明神祠
 領主館の北西27町余り、鹿籠村にある。祭神は上社が建御名方命、下社が事代主命。「文安元年(1444)閏6月、造立大檀那照久」の棟札あり。麓の鎮守社である。
妙見宮  領主館の北18町余、鹿籠村にある。当郷の宗廟という。破軍星を祭る。勧請年月は不詳。
神社合記  ○九玉大明神祠…鹿籠村山之口にある。事勝国勝長狭を祭る。永享13年(1441)の棟札がある。  ○鎮守神祠…中原にある。永禄2年(1559)、島津尚久(15代貴久の弟)再興の棟札あり。 事勝国勝長狭…ニニギ尊が出会った国つ神で、カムアタツヒメの父である。
<仏 寺>
宝寿山万願寺
神護院
 領主館の北西26町、鹿籠村にある。坊津一乗院の末で真言宗。当郷の祈願所である。
福寿山長善寺  領主館の北28町余、鹿籠村にあり。本府福昌寺の末で曹洞宗。初め喜入にあったがこちらに移った。
<旧 跡>
山之城  領主館の北23町余、鹿籠村にある。喜入季久以来の居城である。大岳公(島津氏9代忠国)の7男・若狭守忠弘は明応年中(1492〜1501年)に喜入郷を封土とした。その2代目を頼久と言ったが、この人は大岳公の10男であり、最初は指宿に封じられた。ところが頼久は忠弘の養子となり、喜入・指宿を兼領した。
 第3代目は頼久の嫡男で忠誉で喜入に居城したが、指宿を頴娃氏に奪われてしまった。4代目の忠倹は喜入を伝領し、子の季久まで続いたが、季久は喜入40町他の領地併せて60町を本家に入れ、その代わり鹿籠の40町を確保した。以来、鹿籠に居城している。但し、文禄年間の太閤による改易ではその子・久道は永吉に移封されたが、後嗣の忠続(季久の末男)が浄光明寺に居たのを還俗させて再び鹿籠40町を回復した。
 ○熊之城…山之城の北側に付随する別塁である。
鹿籠を伝領して来た領主がなぜ「喜入氏」なのかがここの説明で明らかになった。
鹿籠(かご)が「鹿児島」の語源という説もあるが、この郷では取り上げていない。
 やはり鹿児島の「鹿児」は「かこ(船子・水子)」からであろう。

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