『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

  平成26年度 第2回  

    
薩摩国 河辺郡 坊泊郷(T)       (H26.6.15)

  ※加世田郷の内、坊津村・泊村を割いて地頭が置かれた。
   地頭館は坊津一乗院跡の南側にあった。

概     要 備 考
<山 水>
坊津港  地頭館の目前にある。「唐港」「房津」と書く例もあるが、「坊津」が正しい。坊の語源は一乗院が「上坊」「中坊」「下坊」の三坊舎に分かれていたからである。
 北隣りの泊港とは「西尾」と呼ばれる岬によって隔てられている。西尾の尾根筋に「番所(ばんどころ)」があって、出入りの船を監視している。
 古来、坊津は博多津・伊勢の阿濃(あの)津とともに「日本三津」と呼ばれ、その名は唐土(中国)にまで聞こえていた。
 地頭館のある港と西尾との間に中島があるが、寛永の昔、屋久島で捕えられた西洋人を一時ここに幽閉していたことがある。この人は後に長崎から江戸に送られ、数年後に獄死した。

 ○坊津八景…中島晴嵐・深浦夜雨・松山晩鐘・亀浦帰帆・鶴崎暮雪・網代夕照・御崎秋月・田代落雁
番所…遠見番所・五人番所などと云う湊が多い。藩の役人が詰めている。
捕えられた西洋人…イタリアの宣教師シドッチのこと。江戸送りの後、新井白石の尋問を受け、その応答を基に白石は『西洋紀聞』『采覧異言』を著した。
泊 港  地頭館の北17町、泊村にある。湾口は一つだが西尾によって分けられている。その港内に「丸木浦」があり、深さはこちらの方が深く、琉球方面への出船が風待ちなどをするに適している。
耳取嶺上  みみとりみねがみ。地頭館の東13町、坊津・鹿籠(かご=枕崎)の間の通道にある。頂上からの眺めはすこぶる良く、東の開聞岳からは手前に屈曲した海浜が連なり、開聞岳の南側には大隅佐多の半島が海中に伸びている。海色は得も言われずして絶景である。 耳取嶺…現在の耳取峠。
諸山合記  ○春日峯 ○飯盛峯 ○車峯 
諸水合記  ○奥院川 ○泊川
<橋 道>
太鼓橋  奥ノ院川に架かる。この橋に柱は無く、通路部分だけが直接川をまたいでいる。山成りになっているので太鼓橋と呼んでいる。
<神 祠>
九玉大明神  地頭館の北西13町、泊村の宮崎にある。祭神はサルタヒコ大神。梅岳君(島津忠良=日新斎)が建立したという九玉七社の一つ。
神社合記  ○祇園神社 ○一之宮大明神
<仏 寺>
西海金剛峰
如意珠山
龍巖寺
一乗院
 地頭館の北2町余りにある。京都の仁和寺末で真言宗。
 開山は百済の日羅。当寺の由来記を見ると、敏達天皇12年に百済から日羅が渡来し、名山を遍歴したのちここに坊舎・仏閣を造営したという。そして自ら阿弥陀像を刻んで三坊に安置し、龍巖寺と号した。敏達天皇(30代)と妹で33代の推古天皇はここを祈願所とされた。
 長承3年(1134)、鳥羽上皇は紀州根来寺の別院とされ、祈願所として「如意珠山一乗院」の勅号を賜った。
 文和3年(1354)、梅岳君は京の足利将軍尊氏の許可を得て寺院再興を目指し、延文2年(1357)に竣工を見た。
 天文15年(1546)、大中公(島津15代貴久)は畠山中務大輔重国と一乗院8世・頼忠法印とを京師に上せ、後奈良天皇から勅願所の指定を受けた。その際、「西海金剛峯寺」の勅額を拝領した。
 坊津とこの龍巖寺一乗院は当郷のみならず本藩中の名刹であり、日本全土に於いても類い稀な寺院である。

○諸扁額…如意珠山・龍巖寺・勅願場・太上皇殿・西海金剛峯
○弘法大師法印大和尚位宣旨…清和天皇による宣旨。貞観6年(864)3月27日の日付がある。
○鳥羽上皇勅願院宣…長承2年(1133)11月3日付。
○後奈良法皇勅願綸旨…天文15年(1546)3月4日付。
○同上御歌…頼忠法印へ下賜の御歌20首(短冊)宸筆。
日羅…谷山郷の清泉寺も建立したと言われる。日羅は僧侶ではなく百済に渡った熊本葦北国造・アリシトの子で百済王に仕えて「達率(タッソツ)」という臣下では最高の地位にまで上り詰めた政治家であった。
 敏達天皇紀によれば、天皇の諮問にこたえるために日本に渡ったが、付いてきた百済人によって暗殺された。
畠山重国…出家した後、近衛信輔公に従がって坊津に来たが間もなく一男二女を残して死亡。一男は出家したが、島津の重臣となり、名を長寿院盛淳と改めた。関ヶ原の戦いでは島津義弘の影武者として戦死した。
          
         河辺郡坊泊郷(1)終り                       
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