『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

  平成26年度 第3回  

     
薩摩国 河辺郡 坊泊郷(U)       (H26.7.20)

(前回の続き) 概     要 備 考
西海金剛峯
如意珠山龍巖寺
一乗院
後奈良天皇御宸筆短冊十首
○什宝合記…仏牙舎利・弘法大師手刻仏・画・水精念珠など数多あり。総州島津家文書若干。
○護摩堂 ○五仏堂 ○熊野権現廟 ○白山妙理権現祠 ○関白天神祠 ○奥院大師堂 ○大蘇鉄樹 ○坐輪梅 ○供奉石
○六支院 ○十二景
後奈良天皇…第105代。1557年崩御。
総州島津家文書…坊津は総州家の管轄下にあった。総州家の始祖は師久。師久と子の伊久は薩摩守護(6・7代)であったが、3代後の久林の時に断絶した。
無量壽山西勝寺
大智院
 地頭館の北東11町、泊村にある。開山は日羅という。
東海山海印寺  地頭館の北18町余、伊集院広済寺の末で、臨済宗。泊浦で亡くなった大岳公(島津忠国)の位牌を祭る。当郷の菩提寺である。
清月山廣大寺  地頭館の西2町余、坊津村にある。伊集院広済寺の末。齢岳公(島津氏久)が上京して帰国の時、ここに宿泊し、香華田を寄贈している。坊津港内を一望できる。
海室山清水院
法光寺
 地頭館の北19町、泊村海浜にある。相模国藤澤山の末で時宗である。本尊の阿弥陀像は皇国三絶の一で、霊仏である。 皇国三絶の一…他は京都誓願寺・串間昌福寺の阿弥陀仏。
<旧  跡>
近衛宅地  地頭館の場所にあった。文禄3年(1594)5月、近衛信輔公が謫せられて坊津へやって来た。流された理由は、太閤秀吉が摂政関白に就任するには高貴な姓でなくてはならないので藤原氏を名乗りたいと信輔公に依頼したが、断ったためにその讒言によるという。慶長元年に赦されて帰京するまで3年間を過ごした。
○近衛藤
○白石紺珠
○谷川士清説…士清は信輔配流の理由として、秀次謀反に連座して流された―とするが、秀次謀反は文禄4年7月、信輔配流はその一年前の文禄3年4月であったから、時代が違っている。
近衛信輔…近衛氏18代関白前久の子。天正13年(1585)に左大臣。慶長10年(1605)、関白に就任。同19年没。50歳。
硯 川  地頭館より1町半、一乗院大門の西南に涌く泉のこと。信輔が硯水に使用していた。
大岳公行館址  地頭館の北15町、泊村の海辺にある。大岳公(島津忠国)が琉球を征伐(※)しようとここに行館を設けて準備しているうちに薨去してしまった。墓は加世田別府にある。
(※「嘉吉の乱」(1441年)の反逆者義昭を征伐した島津氏に対して6代将軍義教は大いに喜び、島津氏に報いるに琉球国を以てした。これを嘉吉付庸事件といい、江戸時代の慶長19年(1614)に島津氏が「琉球征伐」する際、この史実が持ち出され、幕府の許可が降りたといわれている。)
島津忠国…第9代。この当主の時に「嘉吉の乱」が起こり、将軍義教を亡き者にしようとした弟の大覚寺義昭は敗れて串間に潜伏したが、知れるところとなり島津氏によって誅殺された。
栄松山興禅寺  地頭館の南5町余、坊津村にある。田布施にある常珠寺の末で曹洞宗。
<叢  談>
三宅国秀の事跡  永正13年(1516)、備中国蓮島の城主・三宅和泉守国秀が琉球国を討とうとして兵船を集めて坊津に到来した。興岳公時の将軍足利義澄の命でこれを打ち破った。
明人・茅国科
の事跡
 慶長の役で勝利した島津義弘には明国の将軍・茅国科が人質となった。拘留したまま大阪まで行ったが、五大老の詮議により放免となり、明国へ送り届けた。
 送り使いの士・鳥原喜右衛門は大いに歓待され、同時に明国との交流にまで発展した。
木下大膳大夫
吉俊の事
 吉俊は慶長の役で諸侯に「虎狩り」を伝達した人物であるが、石田三成の讒言のため、坊津へ流されたが、結局誅せられた。
 
          
         (坊泊郷は終わり)     



         薩摩国 河辺郡 久志秋目郷

    加世田郷を割いて久志秋目に地頭を置いた。
    地頭館は久志村に置かれた。

<山 水>
山岳合記  
  大久志川  加世田村小春から流れ下るものと、崖下から湧き出るものが合流して久志浦に注ぐ。
清水川  加世田高松より流れ出て秋目を経て海に入る。
 久志港  地頭宅地の前が港で、西と東の浦に分かれている。天然の良港で昔は海外からも船で来て交易をしていた。
 民家は港内の岸に臨んで集落をなし、海岸の諸処には神祠・仏閣がある。
秋目港  地頭宅地の北2里にある。南向きにひらけた海湾で、周回凡そ7町ばかりである。村民は悉く港に臨んで住んでいる。
○天満神祠…秋目港口にある大岩(周回5町・高さ1町)の頂に天満神の石祠が鎮座する。
 【鎮座の由来】秋目村の船人が天神丸という船で琉球へ官米を運送中に嵐に遭い水が尽きようとしている最中に霊夢で船玉様用の花瓶に入っている水を飲むように告げられて渇水を乗り越え、大陸まで流されたのち無事帰還することができた。船人は天神への感謝のため天満祠を建立したという。
悉く港に臨んで住んでいる…魏志倭人伝に描かれた「末廬国」(唐津)の港湾の様子と同じである。末廬国は4000戸もあった。
丸木浦港  地頭宅地の南30町余、久志村にある。琉球への船が時にここで船待ちをしたりする。この南側が坊泊まである。
蒲葵島  秋目港の西北海上1里にある。蒲葵(びろう)樹の多い島である。
 この島に戸柱大明神がある。祭神はスサノヲ尊・稲田姫。
<神 社>
九玉大明神社  地頭宅地の東南1町余、久志港を望む丘の上に鎮座する。祭神はサルタヒコ命。当社は梅岳君(島津忠良=日新斎)が九玉七社を建立する志の一社という。
今峯十二所
権現社
 地頭宅地の西北西1里半ばかりにある山上に鎮座する。加治木の蔵王権現に似ているが、祭神は不明で、琉球諸島を往復する船人は入港すると必ずここに参詣するという。
九玉大明神社  地頭宅地の北3里余、秋目村にある。祭神はサルタヒコ命。勧請年月不明だが、元亀2年(1571)の棟札に「地頭・島津尚久」とある。
 久志村の総鎮守である。
島津尚久…島津忠良(日新斎)の三子。長男は15代貴久。次兄は垂水島津氏祖忠将。
神社合記  ○久玉大明神社 ○愛宕社 ○貴船大明神社
<仏 寺>
古宝山東泉寺  地頭宅地の西北西4町余、加世田の日新寺の末で曹洞宗。
宝亀山阿弥陀寺
 安養院
 地頭宅地の南15町、久志港内博多浦にある。一乗院の末で真言宗。天竺の法幢仙人が渡来して宝亀年間に建立したという。
 当郷の祈願所である。
仏徳山正法寺  地頭宅地の北2里半、加世田の日新寺の末で曹洞宗。初め海臧寺と言ったが、元和6年(1620)に持明夫人が再興して寺禄を給与した。持明夫人の位牌を安置している。 持明夫人…第16代義久の娘。甥の家久に嫁したが、子がいなかった。
虚空蔵堂  地頭宅地の東4町にある。
<旧 跡>
持明夫人行館跡  地頭宅地の北2里余り、秋目村にある。秋目村は夫人の所領で、行館を設けてあった。
亀 石  地頭宅地の北2里、持明夫人行館跡の近くにある大石。近衛信輔公の憩うた所という。
持明夫人納涼石  地頭宅地の西南西2里余、行館跡からは4町ばかりにある大石。海に臨んでおり、高さ4、5間、周りは7、8間、中に洞窟があり5,6人が雨宿りできる。
<叢 談>
女子短冊  秋目村では、毎年8月一日に和歌を短冊に書き、これを生竹の枝に付けて各家の庭先に立てる習慣がある。これは持明夫人が秋目に来た時に寂閑を慰めるため女子を集めて和歌を短冊に書かせたからという。
   
          
          久志・秋目郷終り                     
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