『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

      平成26年度 第5回  

       
薩摩国 河辺郡 加世田郷(2)  (H26.9.18)


※ 加世田郷は今日の南さつま市に属する。島津氏の中興の祖と言われる忠良(法号 日新斎)の出身
 地で子の貴久が本家に入って15代を継ぎ、その子の義久・義弘・忠将・尚久の代に三州を統一した。
 藩政時代の地頭館は旧加世田小学校の場所に置かれていた。


概    要 備 考
<神 社>
鷹屋大明神
(前回の続き)
高屋山陵一説
 加世田の鷹屋神社の後ろを鷹屋山といい、山頂は二手に分かれ南と西に頂きがある(周回13町20間、高さ80間ばかり)。
 その内の南の頂は広さが二畝ほどで巨岩がたくさんある。土地の伝承では古来草木の生えない所だそうで、今でもその通りである。
 これは神代のヒコホホデミ尊の御陵(霊場)であろう。昔は神社そのものがここにあったと言い伝えられている。
 ヒコホホデミの山陵は大隅国の内之浦の高屋山と言われるが、この加世田の鷹屋山こそが御陵だろうという説がある。その理由は古事記に「ヒコホホデミ尊の御陵は高千穂山の西なり」とあるが故で、肝属郡の高屋山陵では西ではなく南になってしまう。
 また、鹿児島神宮こそがホホデミの御陵とする説もあるが、ここも西ではなく南西であり、しかも近くに「高(鷹)屋山」なる山は無い。
 したがって古事記の「高千穂山の西」にあるという点で、もっともふさわしいのは加世田の鷹屋山ということになる。
高屋山陵…現在の高屋山陵は溝辺の鹿児島空港に近い小高い丘に指定されているが、これは明治になって内務省を中心とする調査研究によるものである。
 名勝図会編纂の天保年間で、溝辺は候補に挙がっていなかったことが分かる。
 古事記にはホホデミは580歳で亡くなったとあり、ホホデミ王朝と考えれば南九州各地に歴代の王の御陵があってもおかしくない。
 ※ここの山陵の形状は「古墳」といってよい。
八幡宮  地頭館の北13町余、益山村にある。祭神は石清水八幡宮と同じで、この八幡宮は康和2(1100)年に池田・藤宮両人が京都から勧請して来たものである。
諏訪大明神社  地頭館の北23町余、益山村にある。祭神、タケミナカタ・コトシロヌシ。
 天文7(1538)年12月に梅岳君(島津忠良)が加世田居城の島津実久一党を平定した際に、諏訪神社の別当寺・道仲軒に陣を置いた。
島津実久…薩州家の5代目。薩州家は島津氏8代久豊の二男・用久から始まる一門家。7代久辰のとき断絶。
磯間権現社  地頭館の南南西4里余り、大浦村にある。磯間山の絶頂に建つ。古来霊験著しく帰仰する諸人が多い。 ・祭神は不明。
<仏 寺>
龍護山日新寺  地頭館の南南西3町余、武田村にある。曹洞宗。開基は薩州家の2代目国久であるが、日新公(梅岳君・島津忠良)が加世田を併合の後の永禄7(1564)年に日新公が重建し、菩提寺とした。
 当寺の第8世泰円守見和尚は『日新記』を著している。香華(こうげ)田は230石という。
○常潤院…日新寺境内にあり、天文年間の創建。
○梅岳君御石塔…常潤院にあり、永禄11(1568)年に逝去した梅岳君の墓塔である。また日新寺境内柿本地蔵堂のそばにある石塔(墓)の主は井尻神力坊のものである。
○梅岳君御影堂…常潤院にあり、今に至るまで遠近の人がその徳を慕って参詣に来る。
香華田…神社で言う「御神田」のこと。神領に対して寺領と言い替えられる。
井尻神力坊…修験者。日新公の命で日本全国66州を経廻り、法華経を奉納した。帰任したのが日新公の死後8年目で、天正3(1575)年12月27日に殉死した。
雲林山宝生院
今泉寺
 地頭館の東4町余、川畑村にある。本府大乗院の末で真言宗。
嘉吉年間に薩州家2代国久の創建だが、天文年中に梅岳君が重建して祈願所とした。
明星山浄蓮院
杉本寺
 地頭館の北東6町、川畑村にある。坊津一乗院の末で真言宗。
当寺は大岳公(第9代島津忠国)の墓所を管轄している。
 そのいわれは、大岳公はしばしば訪れていた坊津一乗院で亡くなった(文明2年=1470年)ので、杉本寺に於いて引導した。その後別府田間という場所に埋葬し、そこを「六角堂」と言い習わした。杉本寺の西1町半ばかりのところである。
島津忠国…島津氏第9代。忠国の庶長子である友久は相模守を名乗り、相州家を起した。その3代目として後継したのが伊作島津家の忠良(日新公)であった。
野間山龍泉寺
愛染院
 地頭館の東4町余、川畑村にある。今泉寺の末で真言宗。野間山権現の別当寺である。ここの僧は毎年長崎に行くが、それは長崎に交易に来た中国人が野間岳の娘媽神社に向かって献銀をするが、その金を受け取りに行くのである。そして代りに娘媽神女を描いた海上安全の鎮守札を献銀者に贈るのだという。 ・意外なところで長崎とのつながりがあった。信仰上、また交易の疎通のため許されたのだろう。
仏寺合記 ○白亀山安養院浄福寺…時宗。梅岳君の室で大中公(島津貴久)の母である寛庭芳宥大姉の位牌を安置している。
○布袋山西照寺  ○珠玉山龍徳院  ○青松山東光寺
<旧 跡>
笠沙御崎  地頭館の西5里余り、片浦・赤生木両村に係る。
 ここは日本書紀に見える「吾田長屋笠狭之碕」で、瓊瓊杵尊が高千穂に天降りの後、都にすべき地を求めてやって来た所である。古事記には「笠沙之御前に真来(まぎ)通りて」と書かれている。また、「加世田」という地名はこの「かささ」からの転訛であろう。
 そもそも「笠沙」とは「砂の重なる状態」を示し、この辺りの海岸のさまを表現したものである。地理にかなっている。
 瓊瓊杵尊の出会ったこの地方の首長を「事勝国勝長狭」というが、即ち「吾田の国主」のことである。吾田(あた)とは自分の田つまり「私田」のことで、それを天孫に献上したのである。
○長屋山  ○竹島
笠沙…名勝図会では「砂の重なった状態」と解釈するが、私見では「笠」は「笠・傘」の如く、(頭の)「てっぺん・トップ」のことで、「天孫がまず最初に到達した場所」という意味にとりたい。
竹屋(たかや)  地頭館の東南1里余り、内山田村にある。
 ここはニニギノミコトがカアシツヒメを娶り、ホ(火)スセリ・ホホ(火火)デミ・ホ(火)アカリの三皇子が生まれた場所である。
 土地は岡で、頂には二畝ばかりの平坦地になっており、そこに竹屋神社の跡があったという。『地志略』には「王子大明神」と見えている。
 三皇子が生まれる時にカアシツヒメは産屋に火を放った。無事に生まれたので三皇子はニニギノミコトの実子であることが証明された―と記紀にあり、生まれた子のへその緒を竹刀で切る風習があるのはその故事に倣っている。
○和歌
 書紀一書  「沖つ藻は 辺にも寄れども さね床も
          あたはぬ鴨よ 浜つ千鳥よ」
○裳敷野…川畑村、竹屋郷の北10町にある平坦な原野。上古は竹屋神社があった。近くを流れる川を神事川といい、祓川とも言う。ニニギの皇居があったとも伝えている。
○陰陽石…立神山ともいい、大小数多くの陰石(平たい石)、陽石(立っている石)があるが、これほどまとまった数があるのはここ以外に聞いたことがない。
産屋に火…カムアタツヒメはニニギとの一夜の交わりで妊娠した。ニニギにわが子ではないだろうと疑われたので産屋に火を着けてその中で無事に生まれればニニギの子、そうでなければ焼け死ぬとして決行した。
 結果は無事に生まれたことで三皇子であることが確認された。名前のすべてに「ホ(火)」が付く由来譚でもある。
瓊瓊杵尊皇居  地頭館の北、宮原村の鷹屋大明神の地にあった。地元でそう伝承されている。
 この土地柄は西に海、南に長屋山、東には万之瀬川が流れ、北を鷹屋山が遮る気象陽明の地であり、皇居にかなっている。
ここで三皇子が生育し、その後ニニギノミコトは高城郡の水引村「千台」に移られたのである。
千台…今の薩摩川内。水引村は川内川の北岸で、ニニギの御陵ははその地にあり、御神霊は新田神社に祭られている、という。
別府城  地頭館の前、武田村にある。加世田城とも言う。
 得仏公(初代島津忠久)のころ、別府五郎平正明(一説に忠明)が居城していた。正明は川辺平次郎太夫吉道の四男である。
 建久の薩摩国図田帳には「加世田別府百町」と見えている。
 南北朝の初めは宮方に属していたが、応永12,3年になると武家方に加わり、南朝方を追いやった。その後は薩州家の所領となり、2代目の国久はここに入城した。
 天文7(1538)年に到って、城主・実久の時に田布施城主・梅岳君(日新斎忠良)に攻められ、加世田を明け渡した。
川辺平次郎太夫吉道…川辺氏は薩摩平氏の一族。
薩州家…上の「諏訪大明神社」の備考欄を参照のこと。
新 城  地頭館の後山にあった。
梅岳君治所  地頭館の南4町、武田村にある。別府城を陥落させたのちにここに移った。俗に「御屋地」と称する。
<叢 談>
加世田士舞楽  加世田に伝わる武士による舞楽で、梅岳君が頴娃郷に伝わる「設楽曲」を基にして創作したという。
 士気を鼓舞するとともに、武士団の間に敵の間者が紛れ込んでいないかを調べるための意味もあった。

※ 以上で 加世田郷(2)の項は終り
   
  ※ 引き続き、初年度に学んだ肝属郡の各郷のまとめを簡単に説明。(資料有り)
   今回は肝属郡串良郷(H21)を復習した。              
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