『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

      平成26年度 第10回  

 
薩摩国 出水郡 阿久根郷野田郷・出水郷 (H27.2.15)

※出水郡は旧跡のみ取り上げて学ぶことにした。
 
《 旧 跡 》

@ 阿久根郷 ・・・地頭館(仮屋)は現阿久根小の地にあった。
・莫根城(阿久根城)・・・地頭館の東南1里ほどの山下邑にあった。
   莫根は莫祢とも書き、いずれにしても「あくね」と読む。山下の山頂に「地主城」「仮屋城」「片野  城」「野首城」「松本城」「西之城」等に分かれて築城された。
   寛元4(1246)年12月4日、時の執権・時頼が神崎太郎成兼に莫祢を与え、成兼は入部ののち  莫祢を姓として伝領したが、永禄の頃には島津氏の薩州家家臣が入っていたという。

 (注)・神崎氏・・・平季基の子・兼輔が神崎荘に入り、神崎氏を名乗った。成兼はそのひ孫にあたり
            莫祢氏を名乗った。9代目の良忠の時に島津用久に攻略され、家臣となった。
    ・薩州家・・・島津久豊(第8代)の次男・用久が出水を領有し、薩州家を起した。用久は阿久根
           を守る莫祢良忠を攻略し、家臣とした。

・古城合記・・・賀喜城・中之城・新城・大石城・田代城・桑原城・上之城・下之城・大下城があり、い   ずれも莫祢氏系の築城で、特に新城には薩州家の家臣となり、当地の地頭となった阿久根良    正の居城で、天満宮の天文23(1554)年の棟札に「大檀那・藤原陽久、当地地頭平良正」と見   えている。(藤原陽久は薩州家6代目島津義虎のこと。薩州家は7代目忠辰で断絶する)

A 野田郷 ・・・地頭館は野田小の場所にあった。
・御屋地跡・・・地頭館の北14町、下名邑にある。出水郷の木牟礼城址の東南5町余に当たる。
         得仏公・島津忠久が居住していた跡地と伝わる。周囲が18町(約2000m)、平地より
         1丈(3b)ばかり高くなっている。当時は木牟礼城の一郭ではなかったかと思われる

・俊寛僧都墓・・・野田村下名の山内寺の東1町にあり、その地を「船形宅地」と呼ぶ。鬼界島(薩摩
          硫黄島)に配流された平康頼・藤原成経・俊寛のうち前二者は翌年、赦されて都に           帰ったが俊寛のみ島に残された。しかし家臣(俊寛には侍童がいた)が島に行き、           船で帰る途中病を発したので阿久根に上陸し、山内寺で亡くなったという。

・亀井山城・・・地頭館の西南8町、上名にある。千葉介常胤の後である平種(胤)国が郡司として山         門院に入り、ここを居城とした。孫の秀忠は頼朝から元服を加えられ、山門太郎と称し         た。建久8年(1197)の薩摩国図田帳に山門院内、老松荘24町4段、下司院司秀忠と         あるのはこの人のことである。

 (注)・千葉介常胤・・・千葉氏は下総国千葉荘から起こった勢力。先祖は桓武平氏・平良文という               。源頼朝の伊豆国蹶起以降、関東を束ねる大立者となった。

B 出水郷 ・・・地頭館は出水小学校の場所にあった。
・井之上城・・・地頭館の東北12町、鯖淵村上鯖淵にある。往古、和泉氏の居城であった。和泉氏          は伴姓で肝付氏に出自を持つ。その祖である成房が和泉荘弁済使及び下司となり、         島津御荘に寄進した。その後、時房・守房・兼保と続くが、兼保(和泉小大夫)は建久         8年(1197)の薩摩国図田帳に「和泉郡350町、下司小大夫兼保」とある。その孫の
         政保は道鑑公(島津5代貞久)の頃、官軍方に属していた。

 (注)・和泉氏・・・上の和泉氏系譜によると、祖・成房―時房―守房ー兼保ー○―政保とあるが、             肝付氏族であるとすると通字の「兼」が兼保ひとりだけというのは不可解である。
            肝付氏家譜では肝属郡に入部したとされる肝付氏の初代兼俊の兄弟に行俊が            おり、これが和泉氏の始祖になったとしている。そして、2代目の兼経の時代は
            島津初代忠久の頃であるといわれ、初代と2代目の時代差が150年近くなるの             が問題視されているが、この兼保は兼経とが同時代とすると、和泉氏祖の成房
            は肝付氏家譜の初代兼俊の年代に近く、成房の父が伴行俊だったのかもしれな            い。
・木牟礼城・・・地頭館の西2里12町余、知識村江内にあり、野田郷と境を接している。文治2(1186)
         年、得仏公・惟宗忠久は薩摩・大隅・日向三ヶ国の総地頭に補任され、まず家臣の本         田貞親を派遣して木牟礼城を築かせた。同年8月2日、公は本田・鎌田・酒匂・猿渡等         家臣数十人を従えてこの城に入った。しかし間もなく庄内(都城)の祝吉御所に移った         。得仏公、忠時、久経、忠宗、貞久の5代はここを本城としたので墓所は野田郷の鎮          国山感応寺にある。

 (注)・感応寺・・・野田郷地頭館の北11町にあり、臨済宗。開山は栄西禅師(千光国師)。幕末に            は京都五山の一つ東福寺の末寺であった。

・亀城・・・地頭館の南側にあり、出水城と言われる。義天公(島津8代久豊)の次男・用久が出水郡       に封じられて薩州家を号した。出水・山門(野田)・高尾野・阿久根・加世田・河辺・山田・       鹿籠を併領したが、秀吉の九州攻めの時に戦わず、文禄の役においても病と称して戦わ       なかったため当主の7代忠辰の後は領地を没収された。慶長の役において本家の義弘と       子の忠恒(のち家久)が大功を挙げたため領地は保全され、出水は5万石の大郷として       存続することになった。

    
           (この項終り)                          目次に戻る