『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

      平成26年度 第11回  

  
薩摩国 隈之城・高江・平佐・水引・高城各郷   (H27.3.15)

※薩摩川内市に係る郡は「薩摩郡」、藩領は百次・山田・隈之城・高江・東郷・中郷・水引・高城の各郷、私領としては平佐郷を島津氏一門である北郷家が所領としていた。
 今回は隈之城・高江・水引・平佐の各郷の「旧跡」のみを取り上げ、学習した。 

 なお、『三国名勝図会』を使用しての学習は今月を以て終了する。平成21年5月に開始して以来ちょうど6年間、はじめは「大隅国」だけを学ぶつもりが、2年前から「薩摩国」に進出し、同じように学んできたが、大隅地区にはまだ深く掘り下げて学ぶ要素が多いためこのあたりで切り上げることにした。

@隈之城郷(地頭館は現在の向田町にあった)

 ・二福之城…地頭館の南28町(約3キロ)、西手村にある。応永の頃(1394〜1428)、島津忠朝が叛乱しここに拠った。だが、応永28年(1421)には矛を収め、義天公(島津氏8代久豊)に降参した。その後、元亀元年(1570)に当地を保っていた入来院重嗣は降り、大中公(15代島津貴久)に献上した。
 (注)島津忠朝は島津総州家2代目伊久の次男。のち日向飫肥に転封。
    入来院氏は渋谷氏五族(他は祁答院・東郷・鶴田・高城氏)の一。

 ・宮里城…地頭館の南西28町の宮里村にある。権執印氏の文書に「建仁4年(1204)2月10日、
宮里郷地頭散位紀正家」とある。また、建久8年(1197)の「薩摩国図田帳」薩摩郡に、宮里郷70町、うち社領7町5段云々とある。

 ・日暮の里…ひぐらしのさと。土地の「日暮長者」伝説では、日暮長者の後妻が継子いじめをし、継子の二人は鳥追い舟に乗せられ、毎日、稲を食べに来る鳥を追う仕事に就かされたので悲観して沼に身を投げた―というものだが、謡曲の『鳥追舟』では、継子は死なずに、都から帰ってくる長者によって救われたことになっている。

 (※隈之城川が本流の川内川に注ぎ込むこの辺りは、深い沼田(牟田)であったことを物語っている) 

A高江郷(地頭館は高江小あたりにあった)

 ・峯ヶ城…地頭館の北東1町(108m)ほどの所、川内川の岸辺にある。応安5年(1372)、定山公(薩州家初代師久もろひさ)が築城、家臣の山田忠房に守らせていたが、入来院氏・祁答院氏・高城氏・東郷氏が合同で攻めて来たので落城した。
 (注)島津師久は島津氏5代貞久の三男で、官途号が上総介だったので「総州家」を起した。薩摩     守護職を補任されたので島津本家6代に就任、また子の伊久(これひさ)は7代を継いでいる     が、大隅に居て大隅守護の元久(氏久の嫡男)により敗れ、本家を明け渡した。以後は元久系    が本家を継いでいく。総州家は5代目の久林(ひさしげ)の時に廃絶する。

 ・猫嶽…地頭館の東15町余にある丘(標高120m)。天正15年(1587)に豊臣秀吉が攻めて来たがここに斥候を置き、川向の泰平寺を本陣とした。

B平佐郷(領主館は平佐西小のあたりにあった。都城から移封された北郷氏の私領)

 ・碇山城…領主館の北東10町余、天辰村にある。道鑑公(5代貞久)が居城していたこともある。暦応2年(1339)6月、宮方の谷山隆信、鮫島家藤らが攻め危うかったが、切り抜けた。定山公(師久)は島津本家を継いで6代目となったが、その時代の中心地はこの城下であった。

 ・平佐城…領主館の北、後山である。応永の頃(1394〜1428)は島津忠朝が居城していた。天正15年(1587)の秀吉の九州攻めの最後の舞台となったのがこの平佐城の攻防戦(4月28日)で、当時の城主・桂忠ム(ただあきら。のちに忠詮と改名)は奮戦し、敵兵300余を斬ったが、秀吉と和議した島津氏16代義久の説得でやむなく降伏したという。
 (注)この攻防戦に豊臣方から出兵したのは、小西行長・脇坂安治・九鬼嘉隆の軍。桂忠ムは江戸   期に入り、高山郷居地頭として他界し、墓は高山町にある。

C水引郷(地頭館は大小路町にあった)

 ・八幡新田宮…地頭館の北西、12町余にある。祭神は三座で、中座・天津彦彦火瓊々杵尊、左座・天照大神、右座・栲幡千々姫の三座である。勧請年月は不詳。当社は形が亀に似た山上にあり、神亀山という。ニニギ尊は高千穂に降臨したあと、笠沙宮におられ、のち川内に皇都を造って移り住んだ。それが「高城千台」である。亡くなってこの地に葬られそこを「可愛山陵」という。
 当社は初めは神亀山の山腹にあったが、高倉天皇の承安3年(1173)に炎上したため仮殿を山頂に営み、そのまま三座を移したい旨を朝廷に奏聞したところ許可が下りたので正殿を山頂に新建したという経緯がある。皇室の尊崇篤く、毎年の夏越し祭には勅使を派遣せられている。
 八幡の名称は、皇孫の象徴である「八咫の鏡」の「八」と祭神のニニギ尊の母である栲幡千々姫の「幡」から採られているとされる。祭田は867石。
 (注)八幡宮といえば一般的な祭神は応神天皇・神功皇后であるが、新田宮は全く違っている。応   神天皇を祭る八幡宮の名称の謂れは「八流の幡(旗)」からであり、そこも違う。

 ・可愛山陵…神亀山山頂の新田宮からは西北へ120歩(一歩は30a。約36m)に当たる。土俗では可愛山陵を「中陵」(なかのりょう)と呼ぶが、そのいわれは神亀山全体の東側に位置する新田宮と西端に位置する「端陵」(はしのりょう)との中間にあるからである。
 端陵を「亀の頭」、中陵を「亀の首」、新田宮の山を「亀の甲」に見立て、全体を「神亀山」と云うわけである。
 また、端陵の西22町余(約2、4キロ)に冠山というのがあり、その山下に「川合陵」と呼ばれる陵があり、土地の者は中陵・端陵・川合陵の三つを「三陵」と言っている・
 可愛山陵(中陵)の頂きに四本の古松があり、その一株が枯れたので根を掘り起こそうとしたところ、土中に「石槨(せっかく)」が現れた。その石槨は長方形で、中には「石棺」が入っているようだったので開けようとしたところ、石の蓋の間から白い煙のようなものが噴出したため恐れて沙汰やみになった。ただ、石槨の中が暗い赤色をしていたことだけは分かったそうである。
 石槨は非常に大きく、人工のものであるとすればどのようにして可愛山頂にまで持ち上げたのか、神業でなければ不可能と土地の者は云っている。
 中陵も端陵もどちらも山頂の辺りを叩くと空虚な響きがするそうで、おそらく全体が石槨なのではなかろうか。やはり本物の「可愛山陵」なのであろう。

D高城郷(地頭館は高城川中流の高城本町にあった)

 ・高城古城…地頭館のある所。東南を高城川がめぐっている。往古、渋谷光重の6男重貞の居城であった。重貞はここで高城氏を名乗った。内之城、染之城などの防塁が点在する。
 (注)渋谷氏はもと相模国渋谷荘の荘官であったが、宝治2年(1248)、渋谷光重が当地に下向、次男以下5人の男子を各地の地頭とした。五男子は各地に定着してそれぞれの土地名を名乗ったが、それが「渋谷五族の始まりである(東郷実重・祁答院重保・鶴田重諸・入来院定心・高城(たき)重貞が始祖の名)。永禄12年(1569)、北薩の菱刈氏が島津氏に帰順し、翌年には名族渋谷氏も帰順した。

 ・湯田城…地頭館の西2里余り、麦之浦村にある。昔、湯田氏の居城で、湯田氏は阿久根に入部した神崎成兼の弟・成継が始祖である。東郷氏の別族・白濱後藤右衛門が城主だったときに藺弁田城をめぐって島津忠廉(ただかど)島津重久が出水から出陣して来たが、この時に後藤右衛門が戦死したようである。
 (注)島津忠廉は島津一門豊州家の二代目。豊州家の始祖は島津季久で、季久は8代久豊の三男。   島津重久は薩州家の三代目。薩州家の始祖は島津用久で、用久は久豊の二男。


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