『古事記』から学ぶおおすみ歴史講座

 第8回 継体天皇紀を読む
     
                               H28.12.18(日)

※継体天皇の事績は古事記では簡略化されているが、日本書紀では極めて詳細に描かれている。特に筑紫の君磐井の反乱には多くのページが割かれており、当時の九州王権の様子を垣間見せてくれているのでここで取り上げておく。


 【即位までの経緯
・元年・・・西暦507年。
 
 武烈天皇が皇后を持たず、皇子・皇女もなく崩御したので、次の天皇位に就くべき人物が見当たらくなった。しかし丹波の桑田郡に仲哀天皇の5世孫という倭彦王が見つかったので巨勢男人大臣と大伴金村大連らが迎えに行ったところ、倭彦王は怖れて山に隠れてしまい行方不明になった。
 そこで今度は越前の応神天皇の5世孫である男大迹王(をほど)に白羽の矢を立て、越前国の三国に迎えに行き何とか応諾を得てまず楠葉宮に入り、そこで鏡と剣を受納した。

 
【宮の変遷】 
 @元年・楠葉宮(大阪府枚方市楠葉)
 A5年・筒城宮(京都府京田辺市)
 B12年・弟国宮(京都府乙訓郡)
 C20年・玉穂宮(奈良県桜井市)〜25年崩御(西暦531年)

  ※古事記では記さないが、天皇の即位後20年の間大和の中心部に宮を営めなかった。   このことは政情の不安定を物語るもので、おそらく継体天皇の出自が大和内部の豪族   たちの同意を得られにくかったことによるものである。また、朝鮮半島南部の九州勢力   とのつながりの強さが畿内王権を脅かしていたことも政情を揺るがしていた。

 
【筑紫君磐井の乱】
 21年(527年)の夏、近江毛野臣が任那救援の将軍として6万の軍勢を率いて九州に下ろうとしたとき、筑紫君磐井に叛意があり、それを好機と見た新羅が磐井に賄賂を贈って任那救援軍を遮るよう依頼した。
 磐井は肥国・豊国からの大和王権への貢納物資を支配し、半島南部の国々からの貢納船まで我が物としていた。
 たまたま近江毛野臣はかって大和王権に仕えていた時の仲間であった。磐井は
 「毛野臣よ、汝とは友として
大和で同じ飯を食らいながら出仕して励んでいたものだ。それをお前が今度大和の将軍として九州に下って来たからといって勝手な真似はさせないぞ」
 と、近江毛野軍を牽制して押しとどめた。


 継体天皇は毛野軍に加勢したいが誰を将軍にするかと詔したとき、大伴金村らは即座に物部麁鹿火の名を挙げた。物部氏は神武天皇に仕えた道臣(みちのおみ)以来代々皇室に仕えて功労があった。
 天皇は「社稷の存亡は大将の計略にある。」と自ら斧鉞を麁鹿火に手渡し激励した。そしてこうも述べられた。
 「長門国から東は我が支配するが、筑紫(九州)から西はお前が支配せよ。武功などの賞罰はお前が自己責任で行えばよい」
 と。

 22年(528年)の冬、物部麁鹿火は筑紫の御井郡(福岡県久留米市御井町)で交戦した。磐井は切られて死に、息子の葛子(くずこ)は誅されるのを逃れようと糟屋屯倉(福岡県糟屋郡)を献上した。

 ※「筑後国風土記逸文」では、八女市吉田にある岩戸山古墳を磐井の墓と見立てている。
 しかし、同じ風土記の中で古老の説として、「磐井は生前にこの墓(岩戸山古墳)を造りました。そのうちに官軍(大和王権軍)が攻めてきましたが、磐井は豊前国の上膳県に逃れ、南山の険しい山に入り込んで死にました」というのを載せており、これによれば岩戸山古墳に磐井が埋葬されていることはありえない。

 
※今日では「岩戸山古墳は磐井の墓」というのが定説であるが、どうもそうではないようである。たとえ生前に自分の墓として造ったにせよ、朝廷に逆らった賊の首長が堂々とそこに埋葬されるはずはない。

       (この項終わり)                    目次に戻る