『古事記』から学ぶおおすみ歴史講座


  第10回 崇神天皇 (和風諡号 御真木入日子印恵命)                           H28.2.20(土)

 開化天皇記までの「事績記事がなく系譜記事だけ」(いわゆる「欠史」)から一転して、この
崇神天皇からは事績記事が驚くほど豊富になる。
 
10代目ともなれば王統譜も年代記もともにきちんとした保管がなされるから事績記事が豊富
になる――と一見すれば思われるが、前代の開化天皇すら系譜関係の記事しかないのは
余りに不合理だし、しかもその系譜記事は至って豊富なのである。8代目の孝元天皇もそうだが系譜記事がこんなにあるのに、なぜ事績記事がないのか、と首をかしげるところである。
 そこを捉えると、むしろ前代の開化天皇以前の「欠史」が疑問に思えてくる。無理やり「欠史」に仕立て上げた観がつよいのだ。
 
   ※ただし、2代目の綏靖天皇については「年長じていて、永く朝機を歴ていた
     (チョウキ=天皇位に就いていた)」と日本書紀に記されていることは第9回
     「欠史八代」で言及した。
 

 この「欠史に仕立て上げた」理由は、崇神天皇の出自が北部九州に由来し、その北部九州は古事記のいわゆる「国生み神話」にあるように、筑紫島(九州島)に4つある国のうち「筑紫国」であり、筑紫国は別名が「白日別(しらひわけ)」とあるように、半島国家新羅との繋がりの密な国であることから、記紀編纂当時にすでに唐(と連合した新羅)に大敗を喫した倭国(日本の旧名)にとって仇敵となった新羅との繋がり密なことを隠して(無視して)おきたい――という事からであろう。

 崇神天皇が他所から大和に入った大王であることは、以下の記事内容から想定される。

  @和風諡号の一部にに「
入(いり)」が、本人はもとより子の多くに付けられている。

  A事績の始めの方で「役病(えきびょう)」が蔓延して人民が尽きるほどになったとあるが、
   それは大和にもとから祭られていた「大物主」の祟りだとし、河内にいた大物主の後裔
   オオタタネコを探し出してきて祭らせたらようやく平常に戻った――というのだが、
崇神
   
王統が大和自生であれば自ら祭ればよく、大物主から祟られるはずがない
   
※日本書紀では娘のヌナキイリヒメに「大和大国魂神」を祭らせるが、「髪落ち、身体痩        せ細って祭ることができなかった――とあり、こっちの方はもっと直接的に「他所から入        って来た姫(イリヒメ)」だから、祭れなかったのだと表記している。

  B「建埴安彦と吾田ヒメの反乱」があって鎮圧したと記すが、この男王と女王のコンビこそ   が初代大和王権を築いた南九州(投馬国)出自の最後の王統だろう。
    男王の「建」は上記の「国生み神話」における九州島の一国「熊曽国」の別名「建日別」   の「建」を冠しているし、女王も南九州の「吾田=阿多」を名にしており、出自を示してい    る。つまり、
南九州(投馬国)に発する初代大和王権が北部九州筑紫国に発する崇神王   統に取って変わられたことを表明しているのである。

  C古事記では崇神天皇の和名は「所知初国之御真木天皇(初国知ろしめす御真木天皇」   )。神武天皇の和名は「神倭伊波礼毘古(カムヤマトイハレビコ)」と重なるところは無い   が、日本書紀では崇神の別名「御肇国天皇」、神武の別名「始馭天下之天皇」とどちら    も「国(天下)を初めて治めた天皇」と解釈される名称を与えておりここが理解に苦しむ   箇所とされる。しかし崇神天皇王統が先に大和に王権を築いていた神武王統に取って代   わったイリ(入り)王権と考えるなら問題なく理解できよう。
     天皇が最初の神武王統から「万世一系」であったとの先入観から抜け出ないと思いつ   かないかもしれない。
     
※もっとも現代の(戦後の)日本史学では神武天皇以下応神天皇(15代)あたりまで、        記紀に書いてあっても「造作だから無視する」という立場を取り続けているので、こ
      ういった論議そのものさえ胡散臭いからしない――というのであるが・・・。

     ※邪馬台国畿内論を採る考古学者の多くは日本書紀の崇神天皇代の三輪山伝承
      (いわゆる箸墓伝説)を意訳してモモソヒメの墓とある箸墓こそが卑弥呼の墓である
      と、かなりまともに信じている(もしくは人を信じさせようとしている)のだが、まず、
      そもそも邪馬台国は畿内には存在しないのだから箸墓は卑弥呼の墓ではない。
      書紀の書くように墓の主は崇神の大伯母のモモソヒメその人でいいだろうに・・・。


       (崇神天皇記・終わり)                  目次に戻る