『古事記』から学ぶおおすみ歴史講座


  第11回 垂仁天皇 (和風諡号 伊久米伊理毘古伊佐知命)                           H28.2.20(土)

前代の崇神天皇と同様この天皇の和風号にも「イリ」が付き、皇子・皇女にイリ名を持つ人物が多い。
 崇神天皇では皇子皇女ににトヨキイリヒコ・トヨスキイリヒメ・オオイリキ・ヤサカイリヒコ・ヌナキイリヒメ・トオチイリヒメ・イウメイリヒコイサチ(垂仁天皇)と12人の子のうち7人がイリ名を持つ。
 垂仁天皇の皇子皇女では、16人のうちワカキイリヒコ・イニシキイリヒコ・フタジノイリビメの3人がイリ名を持っている。
 崇神天皇の場合は約60%、垂仁天皇の場合は20%と三分の一に激減するが、天皇本人が持っているという点で、他の天皇とは一線を画している。
 崇神天皇が大和にとって外来の大王であることは、前回の概要において「イリ」名以外にも三つを挙げて論証したが、ではその息子である垂仁天皇にも諡号されていた「イリ」名の持つ意味は何だろうか?

  そこでまず、古事記と日本書紀では和風諡号の書き方に違いがあることをおさえておく必要がある。

 
①崇神天皇の和風諡号… 古事記では「御真木入日子印恵(ミマキイリヒコイニヱ)」
                 
日本書紀では「御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイソニヱ)」
②垂仁天皇の和風諡号… 古事記では「伊久米伊理毘古伊佐知(イクメイリヒコイサチ)」
                 
日本書紀では「活目入彦五十狭茅(イクメイリヒコイソサチ)」

 どちらも前半部は同じであるが、後半部が微妙に違っている。
 まず①では古事記で「印恵(イニヱ)」だが、書紀では「五十瓊殖(イソニヱ)」。②は古事記は「伊佐知(イサチ)」だが、書紀は「五十狭茅(イソサチ)」。
 この違い方に共通しているのが日本書紀の和風諡号には「五十」が使われていることである。だが日本書紀の岩波本でも何でもこの「五十」のうち「十」の部分を読まないのが不審で、もし「十」を読まないということであれば、何も原文で「五十」などと書かずに、「イ」に当たる漢字、例えば「伊」「以」「位」など一文字の漢字を使えばよい話である。
 わざわざ「五十」と書かれているのだからすべてを読む必要があるわけで、そうなると「五十」は「イソ」と読むほかない。
 するとでは古事記はどうなんだ、なぜ「イソ」と書いておかなかったのか――という当然の疑問が起こるだろう。これへの回答は「古事記は外来王権を無視する。すべてのヤマト王権の出自は日本列島内にあり、代々(万世一系に)続いているのだ、としたかったから「五十」をあいまいにした」ということなのである。

 
 では「五十」とは何か?
 
「五十」は書紀の仲哀天皇紀と筑前風土記(逸文)にあるように、福岡県糸島郡のことで、そこの首長・五十迹手(いそとて)が恪々(いそいそ)とまめまめしく仲哀天皇(及び神功皇后)に仕えたので天皇が誉めて「お前は伊蘇志(いそし)き男だ。国を伊蘇国と名付けなさい」と言われたので五十迹手(いそとて)の国を「イソ」と呼ぶようになった。しかし今は「伊覩(イト=糸)」と転訛して呼びならわしているが本来は「イソ国」だったのである――大略このように書かれている。(※首長の五十迹手の「迹(と)」は「津・都(つ)」で「~の」、「手」は運転手・野球選手の「手」つまり「人」の意味である。)
 したがって「五十」は「イソ」と読むのが正しいわけであり、岩波本などが「五十」と書いてあるのにルビは「い」としかふっていないのは誤まりなのである。
 糸島市の宗廟というべき神社に「高祖(たかす)神社」があり、その御祭神は「高磯(たかいそ)姫」であることが、何よりも雄弁に物語っている。「磯」はどう読んでも「イソ」である。


 つまり大和にとって外来性の天皇である崇神天皇(ミマキイリヒコイソニヱ)は「五十(イソ)」の地である糸島郡に本貫を持つ天皇であり、もとをさかのぼると朝鮮半島の辰韓王だった人物ということができるのである。魏書東夷伝の「三韓の条」を繙いて辰韓王の王統をさかのぼると、半島北部濊(ワイ=ほぼ今日の北朝鮮)に逃れてきた殷王朝最後の紂王の叔父に当たる「箕子」が半島における始祖ということが判明する。(※詳しくは当ホームページで)
 「五十」を使わずにあいまいにしてしまった古事記は、崇神王統が以上のように大陸から半島を経由して日本列島に入って来た「イリ」王統のその出自が「日本の王統は日本列島に自生した固有の王統でなければならない」という古事記のテーゼを破ることになるためそれと分からないようにする必要に迫られての造作改変を施したというわけである。
 
 
 以上のことから、いわゆる「神武東征」(という名の大和地方にとっては外来王権の侵入)は一度目は南九州(古日向=投馬国)からのものであり、二度目が北部九州(筑紫=大倭)からのものであり、前者は古事記が記すように少なくとも16年はかかった「移住」であり、後者は半島における風雲の急(大陸王朝・魏の後を継いだ晋による半島南下策)を避けるために(切羽詰まったために)書紀が記すように3年程度の短期間で成し遂げられた「東征」であった。

 崇神天皇は北部九州(九州島での本貫地は糸島五十(イソ)国)から大和へ「東征」した大王本人であるが、息子の垂仁天皇はその和風諡号によると「イクメイリヒコ」であるから「イクメ」に入ったわけで、では「イクメ」とは何だろうか。この点についても書紀の記述を参照すると読めてくるが、書紀では「イクメ」に「活目」という漢字を当てている。この意味は「目を活かす」ということで江戸時代でいえば「大目付」(監視役)が該当する。
 そのような職務に就いた(入った)のが垂仁天皇ということになる。もちろん大王になる前のことであるが、これを私は邪馬台国の職制のうちトップの「伊支馬」(イキマ)に当てたいのである。要するに邪馬台国の監視役で、邪馬台国はヒミコが死んだあと、しばらくは宗女(一族の娘)トヨが跡を継いで国を守っていたが、南部から虎視眈々と女王国を狙う
狗奴国の存在を無視できず、弱体化した邪馬台国を支えることが北部九州連合(大倭)の重要な仕事でもあった。
 しかし
260年代になると司馬懿大将軍が魏に代わって晋という王朝を開き、朝鮮半島を経由して攻め込まれる可能性に危機感を覚えた崇神(ミマキイリヒコ)は列島中央への王権の移動を敢行した。これが崇神による「東征」の中身である。
 この時、「活目」であった垂仁天皇も父と共に九州から大和へ行ったはずだ。そこを見透かしたかのように南部の狗奴国が邪馬台国(八女)に侵攻して乗っ取ったに違いない。270年代初めのことだろう。かくして八女邪馬台国は併呑されて狗奴国の一部になった。それから250年後に八女を本拠地としていた「筑紫の君・磐井」は狗奴国の後裔の一人であろう。

 私は以上の推論のもと『邪馬台国真論』(2003年・健友館)を世に問うたのであるが、この「活目」についてはさらに別の知見を得たので紹介しておきたい。

 それは宮崎県宮崎市にある「生目(いきめ)古墳群」のことで、この「生目」という地名が非常に気になるのである。生目については古墳群のすぐ近く(南へ3キロ)に「生目神社」があり、その名に因んだ地名ではないかと考えられているが、そもそも生目神社にしてからが古来の地名「生目」から採られたのである。この「生目」は「活目」と同義語であろうから、ここももしかしたら「活目入彦」こと垂仁天皇に関係してくるのかもしれない。
 もし関係ありとすれば、その経緯は次のように考えられはしまいか。
 すなわち、
北部九州連合(大倭)が大和へ入った際に打ち破ったのが南九州古日向(投馬国)から既に入っていた投馬国王統(いわゆる神武王朝)で、その最後の王が「武埴安彦」「吾田姫」の投馬国王統的な名の王と女王であった。
 その際に当然投馬国王統の故地である古日向域からも遠征軍が派遣されようとしたに違いないが、この遠征軍を現地の古日向に押しとどめようと「監視」(活目=生目)したのが「活目入彦」こと垂仁天皇であった可能性がありはしないだろうか・・・。
 これについてはさらに考慮をしなければならない点があるので、先送りとするが可能性としては十分考えられそうである。


 さて、垂仁天皇の最初の后であるサホヒメが実の兄サホヒコが恋しいとして反乱を起こすという説話が描かれているが、このサホヒメとの間の子がホムツワケで、この子が大人になっても物が言えないのは「出雲の大神のたたり」だとある。このことは実は崇神天皇の時にモモソヒメの所へ三輪山からやって来る素性の分からない男が実は大物主神であったという説話と同類項で、どちらも崇神王統は土着の先住民の祭る出雲系の神々とは相容れない外来性を持っているのだ、という内容で一貫しているのである。

 
垂仁天皇記の最後に、后妃としてサホヒメの後から入内したヒバスヒメ(比婆須比売)が亡くなった時に初めて「石祝(いしき)作り」と「土師(はにし)部」を定めた――とあるが、最初の「石祝作り」は「石棺作り」であり、後者の「土師部」は「埴輪部」のことである。このことは書紀の垂仁紀からも証明されるが、ここには「石棺」と「埴輪」の起源がさりげなく記されていることに気づかされる。
 垂仁天皇は300年代前半の人であるから、石棺も埴輪もその時代に起源を持つということになる。考古学に採用されてしかるべき知見がここにある。記紀の記述を無造作に捨ててはいけない事例としてここに特筆しておきたい。


     (垂仁天皇記終わり)                      目次に戻る