『古事記』から学ぶおおすみ歴史講座


  第12回 景行天皇 (和風諡号 大帯日子於斯呂和気)                           H28.4.17(日)


項目 概     要 備 考

后妃

皇子・皇女
・纏向の日代宮で天下を治めた。
・后妃 @イナビオオイラツメ(若建吉備津日子の娘)
     Aヤサカイリヒメ(八坂入彦の娘)
     B妾 C妾 
     Dミハカシヒメ(日向)
     Eイナビワカイラツメ
     Fカグロヒメ(ヤマトタケルの玄孫)
・皇子女
   @の子…櫛角別王・大碓命・小碓命(ヤマトオグナ=ヤマトタケル)         倭根子・神櫛王
   Aの子…若帯日子命五百木入日子・押別命・五百木入日売
   Bの子…豊戸別王・ヌシロノイラツメ
   Cの子…ヌナキノイラツメ・カゴヨリヒメ・若木入日子・吉備兄日子
   Dの子…豊國別王
   Eの子…真若王・日子人大兄
   Fの子…大枝王
※皇子は21子、ほかに記していない皇子の数は59子。あわせて80皇子が生まれ、小碓命・若帯日子・五百木入日子が後継者。あとの77皇子は国々の国造・和気・稲置・県主になった。
・Fの妃「カグロヒメ」はヤマトタケルの玄孫に当たる。景行天皇の配偶者には成り得ないのだが、どう解釈すべきか・・・。
 小碓命とヤマトタケルとは別人と考えるほかないだろう。
豊国別王は日向出身。三世孫から日向国造になったという。

大碓命
 父が召し上げた美濃国の兄ヒメ・弟ヒメを横取りして別人の姉妹を父のもとに送った大碓命は父に反抗的であった。
 この時代に田部を定め、倭の屯家(みやけ)を定めた。
 坂手池を作り、周囲に竹を植えた。
田部は朝廷御料田の農民・は大和。屯家は穀物蔵で差配所。

小碓命

西征
 小碓命は父から兄・大碓命の様子を見てくるように言われただけで、大碓命が厠に入っているところを捕まえて殺してしまった。 
 その粗暴さを恐れた父天皇は小碓命に西に行ってクマソタケルを征伐するよう命令した。それで西に行き、叔母のヤマトヒメから貰った衣装を着て女装してクマソタケルの一党を征伐した。その際にクマソタケルから「タケル(建)」の名称を貰った。クマソ征伐の帰りに所々の豪族を平らげたが、その中に出雲建もいた。
日本書紀では小碓命のクマソ征伐とは別に景行天皇自ら征伐に赴いている。

小碓命

東征
 父天皇はタケルが帰ってくるとまたすぐに今度は東の国を平らげるように命令を下した。小碓命は不承不承受諾して東へ向かった。今度もまたヤマトヒメのもとを訪ね、「草薙剣」と「火きり石」を授かって出発した。
 尾張のミヤズヒメを訪ねたのち、駿河から相模―安房―上総―下総―常陸―武蔵―相模―甲斐―信濃―美濃―尾張と巡回して帰ってきたが、この時初めてミヤズヒメを抱いた。その後、伊吹山に登って山の神の祟りに遭い、体を弱らせて歩けなくなり、ついに伊勢の能褒野で絶命した。
ミヤズヒメは尾張国造の祖・安房に渡るときに海が荒れたのでオトタチバナヒメが入水して鎮めた。


小碓命

薨去
 ヤマトタケルが亡くなるときの様子は「自分としては大和へ飛んで行きたいほどだが、足がタギタギしくなってしまい歩くことができない」と杖を突いて歩き、三重村に着いたときは「わが足は三重の勾(まがり)のようになってほとほと疲れ果てた」と言った。そしてようやく鈴鹿の能褒野に着いたときに「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山こもれる倭しうるわし」と国偲びの歌を謡い、薨去した。
 能褒野に御陵を営んだ時に白鳥が飛び立って行き、その鳥を追って遺族が行く際に四歌を謡ったが、これはのちに天皇のご葬儀に必ず謡われるようになった。
 白鳥は河内の志機にまで飛んで行ったのでそこに「白鳥御陵」を営んだ。しかし白鳥に乗ったタケルの魂はその後、さらに天高く翔けて行った。
 ヤマトタケルが諸国を征伐しに出かけて行った際には、久米直の祖である
七拳脛(ななつかはぎ)という膳の従者が付いていったという。
タギタギしくとはタギシ(船舵)のように曲がってという意味で、三重の勾と同じ意味である。
・タケルの辞世の歌は日本書紀では景行天皇が日向で謡ったことになっている。
・書紀では死亡年を30歳とする。

倭建命

子孫
・妃 @フタジノイリヒメ(垂仁天皇の娘)…子=帯中津日子
   Aオトタチバナヒメ…子=若建王
   Bフタジヒメ(淡海安国造オオタムワケの娘)…子=稲依別王
   Cオオキビタケヒメ(吉備建日子の妹)…子=建貝児王
   Dククマモリヒメ(山代)…子=足鏡別王
   E妾…子=息長田別王

 ※息長田別王の系譜
息長田別王―杭俣長日子―イイノマグロヒメ―須売伊呂大中日子― カグルヒメ
   
(注)このカグルヒメ(カグロヒメ)と景行天皇がカップルになって生まれ    たのが大江(枝)王とあるのだが、あり得ない話である。   
帯中津日子は仲哀天皇。成務天皇となった若帯日子の甥に当たるが、景行天皇から仲哀天皇までの3代は「タラシ(帯)」王朝と言われたりする。

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