『古事記』から学ぶおおすみ歴史講座

 第9回 継体天皇紀を読む(2)
     
                               H29.1.15(日)


【朝鮮半島情勢】
継体6年(512年)
に穂積臣押山が百済に使者として行ったが、百済側から上タリ・下タリ・サダ・ムロの4県の割譲を請われた。神功皇后の時代に渡海攻撃して倭国の屯倉を置いた由緒ある地域だから決して割譲しない――という朝廷内の方針であったにもかかわらず、大伴金村(大連)が中心となって、割譲を認めてしまった。

半島情勢はその後も任那(旧弁韓)内部の分裂と新羅・百済による侵攻が絶えず、南部の要衝の地コモン・タサまで百済に与えることになった。

継体21年(527年)には近江毛野臣が6万の兵を率いて任那に渡り、新羅によって侵攻された金官伽耶を救援した(この時に筑紫の君磐井が反乱を起こしている・・・前回を参照)。

継体23年(529年)

百済王が穂積臣押山に任那の加羅にある多沙津を要求してきた。これに対して倭国政府は安易に百済に与えてしまったので、加羅王は怨んで新羅とよしみを結んだ。

同じ頃、近江毛野臣を安羅に使わして南加羅(金官伽耶)を安堵した。
その直後に任那の王・コノマタが渡海し、新羅の侵攻への救援を求めた。
任那の王・コノマタを送り届けるとともに任那にいる近江毛野臣に対して「任那・新羅・百済間の和睦を結べ」という詔にしたがって、百済・新羅の各王に和解のための会合を呼びかけたが両王ともに参加しなかった。

結局のところ、近江毛野臣の派遣は任那情勢の混乱に拍車をかけた形になった。

継体24年(530年)

この年の9月に任那からの使いが言うには、「毛野臣はクシムラ(馬山)に屋敷を構え2年になり、横暴な振る舞いが多くなった。まして「探湯(くがたち)」を好んで行うようになり、多くの衆を困らせている。」と。

調吉士(つきのきし)という百済帰化人系の人物が朝廷の命を受けて任那に遣わされたが、毛野臣は聞き入れず、調吉士は百済・新羅両国に依頼して毛野臣を捕らえようと図った。
 
しかし毛野臣はついに陥落せず、今度は「目頬子(めづらこ)」という人物を遣わしたところ首尾よく行き、連れて帰ることになった。

ところが毛野臣は帰る途中、対馬で病を得て死んでしまった。
遺体は船で難波に到着し、今度は川(淀川)をさかのぼって近江に帰って行った。

その時に毛野臣の妻が詠んだ歌が残っている。

  
枚方ゆ 笛吹き上る 近江のや 毛野の若子い 笛吹き上る

継体25年(531年)
春二月の七日に天皇は崩御された。御年82歳。
同十二月、藍野陵に埋葬された(※藍野陵の比定地はは旧説では枚方市大田茶臼山古墳だったが、今は高槻市の今城塚古墳だと言われている)。

 《異 説》
ある本によると、天皇は28年まで存命だったとあるのだが、ここで25年としたのは『百済本記』を採用したからである。同書によると「太歳辛亥の三月、軍進みて安羅に到り、乞宅城を築く。この月に、高麗(高句麗)ではその王・安が殺害された。また聞く、日本の天皇および太子・皇子が同時に崩御された」――と。これを採れば、辛亥の歳は継体天皇の25年にあたるのである。後世の判断を待ちたい。


    (この項終わり)                        
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