『古事記』から学ぶおおすみ歴史講座

 第10回 安閑天皇・宣化天皇紀を読む
     
                               H29.2.19(日)

安閑天皇・・・和風諡号:広国押武金日(ひろくにおし・たけかなひ)
          幼 名:勾大兄(まがりのおおえ)
           父:継体天皇 母:目子媛
           宮:勾金橋宮

継体天皇25年(西暦531年)
 春2月に継体天皇崩御。即日、勾大兄が即位し、(安閑)天皇となる。
(注:同じ日本書紀には534年を安閑天皇の即位年としており、矛盾がある。『上宮聖徳法王帝説』では531年は欽明天皇の即位の年とする。欽明天皇が継体天皇の崩御とともに天皇位を奪ったと考えれば、つじつまが合う。)
 同月、大伴金村と物部麁鹿火を大連とする。
元年(531)
 伊甚屯倉(房総)、小墾田屯倉(大和)、桜井屯倉(同)、難波屯倉(河内)、横渟屯倉、橘花屯倉、多氷屯倉、、倉巣屯倉を置いた
2年(532)
 この年の5月には筑紫・豊・火・播磨・備後・婀娜(あな)・阿波・紀・丹波・近江・尾張・上毛野・駿河の13か国に、合計26か所の屯倉を置いた。(※最も多いのは豊国と備後国の5所)
 12月に崩御。70歳。御陵は河内国古市高屋丘陵。皇后の春日山田皇女と実妹の神前皇女を同葬した。
(注:皇后と実の妹を同じ墓に入れたとあるのが不審である。殉葬であるとすれば納得できないこともないが、書紀はそうとも書いていない。あるいは殺害されたか?)



宣化天皇・・・和風諡号:武小広国押盾(たけおひろ・くにおしたて)
          幼名:記載なし
          父:継体天皇 母:目子媛
          宮:檜隈廬入野宮

元年(西暦535年)
 大伴金村と物部麁鹿火を大連とする。蘇我稲目を大臣とする。
 5月、筑紫国の那の津に建設する。
 7月、物部麁鹿火の死。
2年(536)
 10月、大伴金村の子・磐と狭手彦に命じて任那を救援させる。磐は九州に駐屯し、弟の狭手彦が半島に渡る。
3年(537)
 (事績の記載なし)
4年(538)
 2月10日に崩御。73歳。御陵は身狭桃花鳥坂之上陵。皇后の橘皇女および孺子(幼児)を同葬した。
(注:皇后と幼児を同じ墓に入れたと書いてあるのが不審である。上記安閑天皇の時もそうだが、他の天皇の御陵に関する記事で、このような書き方がなされた天皇はいない。したがって「追葬」と解釈するのは的を射ていない。上記同様、殺害された可能性が大である。)


 【メモ】
 鹿児島県金峰町にある金峰山は修験の山だが、山頂には蔵王権現とともに、広国押盾武金日尊(安閑天皇)が祀られている。
 また枕崎市の板敷の浜に貴人が漂着し、仮宮を作って住んでいたがそこで亡くなったという伝承があり、その貴人こそ武小広国押盾命(宣化天皇)で、祭った場所は現在「今岳神社」になっている。
 これらから推量できるのは、両天皇ともに継体天皇が崩御した時点で欽明天皇を推す勢力によって排除され、殺害か、殺害されなくても都落ちして南九州に落ち延びたのではないか――ということである。

      
この項終わり                 
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