『古事記』から学ぶおおすみ歴史講座

 第11回 日本書紀「欽明天皇紀」を読む
     
                               H29.3.19(日)

欽明天皇・・・第29代
     和風諡号:天国排開広庭天皇(あめくに・おしはらき・ひろにわのすめらみこと)
       父:継体天皇 
母:手白香皇后(仁賢天皇の皇女)
       皇后:石姫(宣化天皇の皇女)

即位前紀
 幼少の頃に夢で「秦大津父(はたのおおつち)なる人物を寵臣とすれば、成長してから立派な天皇になれる」との神示を受け、のちに探し求めたところ、深草にいることが分かり、招いて話を聞いた。
 秦大津父の言うには「山中でオオカミ同士の喧嘩に出くわしたが、双方をなだめて止めさせたことがありましたが、そのことが今度皇子に招かれた原因でしょう」と。
 宣化天皇が崩御され、天皇位を継いでからは秦大津父は「大蔵省(おおくらのつかさ)」に抜擢された。

 (注)古事記にはこの記事はなく、ただ皇后・側室およびその子らが記載されるだけである。 また古事記には宣化天皇の没年も御陵も記載がないが、この欽明天皇に関しても没年と御陵がない。

欽明天皇23年
 正月、
任那が新羅によって滅ぼされる。(割注)任那は10か国からなる。加羅・安羅・斯二岐・多羅・卒麻・古嵯・子他・散半下・乞食・稔礼の各国である。
 7月、紀男麻呂を大将軍として半島に赴かせる。
 8月、大伴狭手彦を大将軍とする。

欽明天皇31年

 3月、蘇我稲目の死。
 4月、初瀬の柴籬宮に行幸。

欽明天皇32年
 4月、天皇の病が重くなった。
    天皇は皇太子を枕元に呼び、次のように詔をした。
 『私の病は重い。後を任せるが、新羅を征伐して任那を取り返してほしい。元のようになったならば、思い残すことはない』
    こう言い残して4月中に崩御された。
時に年若干。
 
9月、檜隈坂合陵に葬る。

(注)実に不可解なのが崩御の時の年齢である。年は「若干」とあるが、即位して32年間の詳細な事績記事はありながら、なぜ享年が不明なのだろうか?
  即位の時の年齢が分かれば31年を足せばよいのだが、それも不明である。古事記も欽明天皇の即位年、崩御年ともに記さない。

 ※欽明天皇の即位前紀は意味深長である。小さい頃に夢に現れた秦大津父という人物が欽明天皇の記録の肝心なところをぼかした真因ではないだろうか。
 つまり、欽明天皇とは秦大津父その人ではないだろか。そう考えると皇后に同父兄弟の宣化天皇の娘・石姫を迎えたわけが説明できる。
 要するに、継体―安閑・宣化という一応は応神天皇を始祖とする皇統に対して、欽明天皇は全くの部外者である秦氏の出自なのだろう。皇統の血筋は一貫して変わらないという「万世一系」性に反しているのである。
 だから古事記はそのことを徹底して書かずに皇子・皇女の記載に終始し、日本書紀は欽明天皇の出自をぼかしているのだろう。


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