―『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

  
【 第三回 大隅国・肝属郡・新城郷および花岡郷 】

1 新城郷
(大隅国・肝属郡の内)

 < 新城郷の成り立ち>

 
現在は垂水市に属する。藩政時代の寛永13年(1636)に垂水島津家の4代当主・島津久信の庶子・久章を領主として新しく「新城島津家」を興した。いわば垂水家の分家だが、垂水郷は大隅郡に属し新城郷は肝属郡、というように所属する郡は違っている。領主館は新城麓の仮屋集落にあった。

 
分家の経緯は一風変わっている。と言うのも、久章の祖母「新城様」が嫁入りに持参した「粧田(しょうでん)」3700石と久章の正室が持参した1000石、併せて4700石をもって発足しているからだ。

 久章の祖母「新城様」は、第16代藩主・島津義久の二女であった。藩主の娘が嫁ぐ際は「化粧田」という名目の「持参金」が欠かせなかったのだろう。しかし3700石は破格の待遇であった。それが証拠に実は久章の正室は18代藩主・家久の娘なのだが、こちらが持参したのは1000石なのである。

 その格差はなぜなのかの詮索は措くとして、祖母と妻の持参金である田4700石がそっくりそのまま新しい家のすべての経済基盤となったというケースは珍しい。

 しかしながら、久章は宗家19代光久の名代として江戸に上り、将軍・御三家などに拝謁した際に「不手際」があったとして薩摩に帰され、最初、川辺の寺に預けられたあと、今度は谷山の清泉寺に蟄居させられた挙句、ついに誅殺されてしまう(正保2=1645年)。

 
実は久章の父・久信も「素行不良」のレッテルを貼られ、鹿屋郷に隠居させられてしまうのだが、新城島津家が成立した翌寛永14年に、鹿屋の祓川の隠居所で毒殺されている。前回の鹿屋郷の所でも触れたが、久信の鹿屋への隠居は「蟄居」であり、久章はそれへの抗議を御三家筋に訴えたことが光久はじめ薩摩藩首脳にとって苦々しいことであった。下手をすれば「お家騒動」として幕府の介入を招き、「薩摩藩改易」などという結果にもなりかねない。

 承知のように、薩摩は反徳川の西軍について関が原を戦い敗れた。それ以前に秀吉に楯突いて圧倒され辛くも南九州は安堵されたのだったが、今度、藩内がごたごたし内紛のような様相を呈すると、それみたことかと幕府に足元を見られ、改易処分などの事態を招きかねなかったがゆえの「久信・久章」親子問題への断罪が行われたのだろう。

 江戸時代初期の薩摩藩の存立の危うさが露呈した事件と言ってよい。これに似た事件が「伊集院忠棟・忠真」親子誅殺事件だが、これについては別項で述べることにする。 

 <山水>

河路川・・・高須川の上流。一名「茶園ヶ尾川」。鹿屋郷と花岡郷の境をなしている。
寺田川・・・新城郷唯一の川で、河口には小さな砂嘴があり、船だまりになっている。現在の馬形川。

 <神社> 
  
神貫大明神社・・・「かみぬきじんじゃ」。領主館(仮屋)の北7町ばかり(7〜800b)にある。祭神・勧請年は不明。ただ、享禄3年(1530)・大檀那「伊地知重武」の棟札と永禄6年(1563)・同「伊地知重興」の棟札があるので、その頃には建てられていたことが分かる。新城郷の総廟である。

            ※神貫神社は旧国鉄大隅線の新城駅(現在は公園)の山手に鎮座する。               

 <仏寺>

浄珊寺(じょうさんじ)・・・垂水島津家第3代・彰久(てるひさ)に嫁いだ本家第16代島津義久の娘で孫の久章のために「(化)粧田」(=持参金)3700石を提供して、新しく新城家を興した「新城様」が、最初は亡き父・義久の法号(戒名)をとって「貫明寺」としていたが、「新城様」亡き後は新城様の法号を採用して改名した。
  鹿児島・福昌寺の末で曹洞宗である。神貫神社の東にあった。

妙蓮寺(みょうれんじ)・・・第16代義久の第二夫人で「新城様」の実母である「実渓夫人」を弔って建立した。宗旨は法華宗。宇住庵に今もあるが、現在は浄土真宗となっている。

 <城跡>

松尾城・・・新城麓の領主館(仮屋)の北に聳える丘のうえに築かれた。江戸時代に入って「一国一城制」により廃城となった。築いたのは島津氏以前に垂水を領有した伊地知氏である。

松尾城は各地の山城でよく見る名称だが、そのいわれは「尾根の末端」に築いたので「末尾城」とすべきを、「末」が忌み言葉なので、目出度い「松」と表記した、という。


2 花岡郷
(大隅国・肝属郡のうち)

 <花岡郷の成り立ち>

 
現在の鹿屋市花岡町・白水町・海道町・古里町・古江町がすべて含まれる。かっては「大姶良郷」に属していた。
 享保9年(1724)、第22代藩主・継豊が叔父の久儔=ひさとも(忠英)に、大姶良郷のうち木谷村・古江村を割いて、新たに郷を興させた。翌年には「花岡郷」と命名されている。

 <山水>

白龍瀑布・・・当座神社(後出)の御手洗の池から流れた水が古江港に向かっての崖から落ちる。高さおよそ36メートルばかりで、末は古江港に注ぐ。

古江浦・・・現在の古江町。大隅半島では錦江湾に面した最大の浦町。


 <神社>

正一位当座大明神社・・・白龍瀑布の落ち口の近くに鎮座する。祭神はニニギノミコト。
 由緒――天孫ニニギノミコトが高千穂峰に降臨したあと、国まぎして当地を訪れ、しばらく鎮座したあと、薩摩半島の笠沙に渡っていた。そのニニギノミコトの故事にちなんで建立された。6月晦日には「夏越(なごし)祭り」があり、神輿を担いで古江まで下り、海岸で「夏越大祓い」を行う。
 海岸の一箇所にニニギノミコトが船待ちのため腰掛けた石があって、神輿の行列はそこで必ず止まって拝礼をすることになっている。

威徳天神廟・・・古江村の南岸に海に突き出た岩礁があり、その天辺に天神様を祀る宮がある。現在では「荒平天神」と呼んでいる。


 <仏寺>

山島寺・・・白水にあり、坊津の一乗院の末寺(真言宗)。天文の頃に建立された。

真如院・・・享保15年(1730)、鹿児島・南泉院の末寺として再興。天台宗。現在の「花岡島津家墓地」の辺りにあった。花岡島津家の菩提所である。

禅定寺・・・鹿児島・福昌寺の末寺。曹洞宗。初めは鹿屋の安養寺の末寺として建立された。

弁才天堂・・・別名「小島弁天島」。古江港の北部の小島集落の海岸に突き出た岩礁の上にある。南部の「              天神廟」と好一対をなしている。

 <旧跡>

小城・・・古江浦の山手の小高い一角に「堀あと」らしきものがあり、一帯を掘ると甲冑や刀・鏃などが出るという。城跡もしくは砦のようで、戦闘が行われたに違いない。付近は不浄を忌む所である。

国司山・・・上の小城から東に100b余りに木のうっそうと茂った場所があり、そこは古墳だと言い習わされている。しかし詳細は不明である。


以下の資料は、島津氏の系譜(肝付氏系譜を対照してある)と藩主の「法号」および「一門家」「一所持ち家」の一  覧である。『三国名勝図会』解読に必要と考え、作成した。

 
資料@    <島津氏と肝付氏の世代比較表>  

 島津氏
  当主
生年〜没年 続柄 法 号 肝付氏
 当主
生年〜没年 続柄 備   考
伴 兼行  曽
 祖父
薩摩国総追捕使として下向(安和2=969年)。鹿児島神食村(下伊敷)に居住。
伴 行貞 祖父
伴 兼貞 肝属郡弁済使として
下向(長元9=1036年).
嫡子・兼俊。以下、兼任(萩原氏)、兼貞(安楽氏)、行俊(和泉氏)、兼高(梅北氏)。
惟宗忠康 惟宗広言という説が流布していたが、武官の忠康の方が相応しい 父。
母は丹後局
1肝付
   兼俊

 初代
長元9年に下向というのは父ではなく兼俊のこととする説あり。 子・兼綱は救仁郷氏祖。兼幸(北原氏)。兼友(検見崎氏)
1島津
   忠久
  〜1227年
比企能員の乱に連座し、大隅・日向総地頭を解任される
初代 得仏公 2  兼経   ?〜1230頃 島津忠久下向の頃に、城主だったとの説あり。
子・兼春(萩原氏)、兼秋(前田氏)。
2  忠時 1202〜1272 道仏公 3  兼益
3  久経 1225〜1284
 蒙古襲来の「文永の役」(1274)・「弘安の役」(1281)の警固役で下向
道忍公 4  兼員 ? 〜1274年 文永2(1274)年の「所領譲状」が残る。子・兼基(岸良氏)、兼弘(野崎氏)、兼行(津曲氏)、兼賢(波見氏)、兼秀(河南氏)。信兼(小野田氏)。
4  忠宗 1251〜1325 道義公 5  兼石 ? 〜1283年 弘安6(1283)年の「所領譲状」が残る。子・兼市(三俣氏)、宗兼(鹿屋氏)。
5  貞久 1269〜1363 道鑑公 6  兼藤   〜1323年 名越氏の地頭代・源盛貞によって殺害される。
6  氏久
(6 師久)
1328〜1387
 陸奥守(奥州家)
齢岳公 7  兼尚 地頭との相論を幕府に訴え出るが、鎌倉で客死。
7  元久
(7 伊久)
    〜1411
大姶良城生れ
恕翁公 8  兼重   〜1349年 三俣氏を継ぐ。弟・兼成、一時は大姶良城主。
8  久豊 1375〜1425 義天公 9  秋兼 子・久兼は山下氏祖
9  忠国 1403〜1470 大岳公 10 兼氏   〜1402年 子・兼朝は川北氏祖
10 立久 1432〜1474 節山公 11 兼元   〜1449年 正室は島津忠国の娘。
鹿屋城を攻撃した。子・兼政は頴娃氏祖
11 忠昌 1463〜1508 円室公 12 兼忠   〜1484年 三男・兼光は大崎城へ分裂。その後溝辺、加治木と移動し、幕藩体制後は喜入が所領となる
12 忠治 1487〜1515 長男 蘭窓公 13 兼連   〜1482年

13 忠隆 
1497〜1519 興岳公 14 兼久 1473〜1523 『西藩野史』に「永正3(1506)年に高山本城に居る」とある。
14 勝久 1503〜1573 大翁公 15 兼興 1492〜1533 長女は入来院氏に、次女は島津氏に、三女は根占氏に嫁ぐ。
15 貴久 1514〜1571 島津
忠良
の子
大中公 16 兼続 1511〜1566 正室は伊作の島津忠良の娘「阿南(おなみ)」。号「省釣」、墓は志布志。
16 義久 1533〜1611 貫明公 17 良兼 1535〜1571 長男 母は阿南。妻は伊東氏。
17 義弘 1535〜1619 松齢公 18 兼護 1561〜1600 兼続の五男
良兼の異母弟。天正8(1580)年阿多へ移封(12町)。『高山郷土誌』所載「本藩人物誌」の記述によると母は阿南となっているが、誤認であろう。
18 家久 1576〜1638
忠恒
慈眼公 19 兼幸 1592〜1611 慶長17(1612)年頃の石高は390石くらい
19 光久 1616〜1695 寛陽公 20 兼康   〜1671年 養子 父は新納四郎左衛門
20 綱貴 1650〜1704 大玄公 以下省略 現在の当主は32代目
21 吉貴 1675〜1747 浄国公
22 継豊 1702〜1760 宥邦公
23 宗信 1728〜1749 慈徳公
24 重年 1729〜1755 円徳公
25 重豪 1745〜1833 大信公
26 斉宣 1774〜1841 大慈公
27 斉興 1791〜1859 金剛
  定公
28 斉彬 1809〜1858 順聖公
29 忠義 1840〜1897 甥=久光の子
30 忠重 1886〜1968
31 忠秀 1912〜1996


                                         
 資料A   <島津一門家と一所持家> 

    〜一門家〜 第22代藩主・継豊の時代(1721〜1746年)に確立した制度。徳川氏の御三家・御三卿に
              匹敵する制度で、藩主の後継者が絶えないようにするための安全装置といってよい。
始祖および創設年 由  緒 代数
垂水家
 18000石
島津忠将(ただまさ)
・島津忠良の二男
・15代貴久の弟
永禄4(1561)年
○大隅廻城の合戦で戦死した忠将の遺児・以久(ゆきひさ)に
垂水を与え、垂水島津家を興させる。
○鹿屋郷に隠居となった島津久信は垂水家の4代目であったが
素行不良のため27歳で、蟄居の身となった。鹿屋でも奇行は
おさまらず、26年後の寛永14(1637)年に毒殺されたという
 16代
 300年
加治木家
 19000石
島津忠朗(ただあき)
・18代家久の二男
・17代義弘の孫
寛永の初め頃
○18代家久は旧名・忠恒(ただつね)で、17代義弘の孫に当たるが、義弘の隠居地・加治木に1万石の石高で継続させた。
○江戸時代の英明君主と言われた25代重豪(しげひで)はこの  加治木家の出身である。
 12代
 230年
重富家
(越前家)
 14000石
島津忠紀(ただのり)
・21代吉貴の四男
・22代継豊の弟
元文2(1737)年ごろ
○重富家を別名「越前家」と呼ぶのは、島津家初代・忠久の弟・忠綱が越前の守護代として赴任したことに因む。忠綱家の15代忠長は戦死を遂げ、以来、越前島津家は没落していた。
  それを再興したのが島津忠紀であった。
 7代
 130年
今和泉家
 14000石
島津忠郷(たださと)
・21代吉貴の七男
・22代継豊の弟
延享元(1744)年
・篤姫の父・忠剛は5代目
○徳川13代・家定の正室となった「天樟院・篤姫」の生家として名高いが、創設は一門家の中で最も新しい。
○しかし由緒は古く、本家第4代の忠宗の二男・忠氏が出水を本拠地として創設したが、南朝方に付いたため、本家から追放され断絶していた。それを再興したのが島津忠郷であった。
 9代
 125年

 
    〜一所持家〜 17家あり、うち8家は島津氏の庶流。残りは重臣家である。

@ 島津氏流・・・新城・花岡・永吉・日置・佐志・宮之城・黒木・市成
A 他氏流・・・・肝付(喜入)・喜入(鹿篭)・佐多(知覧)・小松(吉利)・北郷(平佐)
          入来院(入来)・樺山(藺牟田)

  ※以上のうち今日の講座にかかわる「新城家」「花岡家」のみ、詳細を表にまとめた。
始祖および創設年 由   緒 代数
新城家
  4400石
島津久章(ひさあき)
・4代久信の長男
寛永13(1736)年
○垂水家3代・彰久(てるひさ)は、朝鮮の役で戦死。正室は16代義久の娘であり、「新城様」と呼ばれていたことから、新しく外城麓(新城郷)として創設された。
○久章は新藩主・光久の名代として江戸を訪問したが、御三家・御三卿への答礼において失礼があり、捕縛されて薩摩に帰った。藩でも蟄居を命じ、谷山の清泉寺に幽閉されたが、正保2(1645)年、ついに自害する。新城家は断絶。
○久章の室は18代家久の娘であることから、子の忠清に千石を与えて廃絶にはせず、その後継に19代光久の七男・忠顕(久侶=ひさとも)を入れて新城家は存続することになった。
 13代
 230年
久章のあと一時断絶。だが嫡子・忠清を1000石で継がせ、後嗣には19代藩主光久の7男・忠顕が入る。
花岡家
  6300石
島津久儔(ひさとも)
・20代綱貴の三男
享保9(1724)年
○大姶良郷の中の「木谷村」「白水村」を分割し、あらたに郷を作り、久儔(忠英ともいう)に一所持家を興させた。
○2代目の久尚に嫁いだ「岩子」(22代継豊の妹)は英明で、水不足の花岡郷に高須川上流から水路を引き込み、水田20町を開墾した。
 7代
 145年

    
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