〜『三国名勝図会』から学ぶおおすみの歴史講座〜

    [ 肝属郡・姶良郷および大姶良郷 ]

     姶良郷

<山水> 位置 概要 備考
1、横尾嶽 地頭館の南西に聳える。 西・南・北の三方は大姶良郷と大根占郷にかかっている。登れば、肝属郡はもとより、遠く日向国の最南部が望まれる。 現在の横尾岳で426m
2、東中嶽 地頭館の東南に聳える。(吾平富士) 山頂に蔵王権現が祭られている。 現在の中岳で677m
3、大川 源流は二本あり、一つは東中嶽からのもので、吾平陵の傍らを通過して、含粒寺でもう一つの菅野川と合流し、吾平麓を貫流する。 現在の姶良川のこと。
<神社>
4、正若宮
  八幡宮
地頭館の南南西4町余りに鎮座する。 祭神は応神天皇。姶良郷の総鎮守である。長久4(1043)年の建立ということが、文明12(1450)年の肝付12代兼忠・同13代兼連による再興の棟札に書いてある。
 当社は大隅正八幡宮(鹿児島神宮)の四所宮の一つ。また、長久4年に建立したのは島津荘を開いた平季基の弟・良宗で、当地を拓いた時に八幡社を建て、古鏡を奉納したが、その鏡には良宗が奉納した謂れを刻んであったという。
現在の田中八幡神社(中福良地区)である。
5、軍大明   神社 地頭館の東南25町の姶良川べりに鎮座 祭神は磐長姫(いわながひめ)。上代の勧請らしく旧伝には、深い理由のあることだ、と見える。
 記紀の神話によれば、イワナガ姫は皇孫第一代のニニギノ尊の妃となったコノハナサクヤ姫の姉だが、醜いゆえ、ニニギの寵愛を受けられなかった。イワナガ姫はそのことを呪詛したため皇孫は長生きできなくなった、とある。
 女の嫉妬のすさまじさを、この姫は体現している。また軍(いくさ)神社という社名はその「憤怒」の形相から来た命名であろう。
『三国名勝図会』の編纂時代は江戸期で儒教の影響下にあり、イワナガ姫を単に嫉妬に狂う女人と蔑視しているが、「磐」とは「末永く、永遠に」の意味であり、「武運(命)長久」につながる言葉で悪い意味合いではない。
6、神社
   合記
笈掛大明神以外はすべて姶良町村にある ・桂木大明神(祭神・住吉三神) ・諏訪大明神(タケミナカタ神) ・山王権現社 ・集大明神(アメノコヤネ・フトタマ命) ・市久大明神(トヨタマヒメ・タマヨリヒメ) ・笈掛大明神(おいかけ/コトシロヌシ・カグラヌシ・オオナムチ尊) 姶良町村とは「吾平麓」地区のことである。
<仏寺>
7、千手院    幸田寺 山号は摩尼山。地頭館の南南西3町 正若宮八幡の別当寺で、八幡宮の裏手にある。真言宗で鹿児島城下の大乗院の末寺である。
8、玉泉寺 山号は清池山。地頭館の東南18町 下野国那須郷にある曹洞宗「泉渓寺」の末寺。泉渓寺は越前国の源翁禅師という人が建立した。那須の泉渓寺、会津の示現寺、結城の安穏寺と当寺を合わせて「源翁開山四箇寺」という。禅師は当地に下って玉泉寺を開かせている。
 弘安3(1280)年、源翁禅師は会津・示現寺において示寂した。
現在は玉泉寺公園として解放されている。泉が湧いて流れ、大きな池がある。しかし歴代住持の墓塔が十数基あるだけで寺跡を偲ばせるものはない。
9、含粒寺 山号は宝陀山。地頭館の南約34町 鹿児島城下の曹洞宗・福昌寺の末寺。開山は仲翁守邦和尚。和尚は福昌寺第三世で、正長2(1429)年に当寺を建立し、文安2(1445)年ここで示寂した。 
 当郷の菩提寺である。
現在の含粒寺は大姶良川流域・南地区の山中に移築されている。廃仏後に再興されるのは珍しい。
10、仏宇
    合記
・水月院(含粒寺の仁王門傍に建つ。姶良郷白坂にあったのを移設した) ・阿弥陀堂(天正3=1575年、香蓮寺再興という棟札がある) 
<旧跡>
11、吾平
    山陵
地頭館の南南東1里余りにある ヒコナギサタケウガヤフキアエズ尊の御陵である。俗にここを鵜戸山といい、御陵の窟を鵜戸窟という。紀に御陵の場所を「日向の吾平山上陵」とあるが、上代は大隅も日向国の領域にあったので、おかしくはない。また吾平は姶良である。『倭名抄』の記載にはあった「姶羅郡」だが、今、郡名にはない。姶良郷・大姶良郷の郷名に残っているばかりである。
 ウガヤ尊は日向国那珂郡の鵜戸窟に生まれ、内之浦の母養子山(甫余志岳)にて生育し、のちに都城の皇居に移り、最終的には高原の高千穂宮に住んで皇子のサノノミコト(神武天皇)を育てたのである。
 皇子のサノノミコト(神武天皇)の妃を吾平津姫といい、この地の姫が妃に立った縁から、父であるウガヤ尊の寿陵をここに求めたのであろう。
 近くにはウガヤ尊が叔母のタマヨリヒメに養育された時に作られた飴に因んだ「飴屋敷跡」がある。
現在も江戸時代にも「姶良郡」は無いが、大隅国が日向より分立した時(713年)の4郡は「姶羅郡・大隅郡・肝属郡・曽於郡」であった。
 10世紀の初め頃に編纂された『倭名抄』にも「姶羅郡」はあり、「野里・串良・鹿屋・岐刀」という4郷から成っていた。このうち串良と鹿屋は大郷である。
 ところが同じ倭名抄の「大隅郡」に「姶羅郷」があり、論議を呼んでいる
12、城跡
   
 合記
・山古城(浅井村にあるが、詳細不明) ・末次城(荻原田村にある。楡井頼仲が立て籠もったという)
 ・筒ヶ迫城(姶良町村にある。肝付伊勢守の築城という)
山古城は姶良庄を拓いた平良宗の築城という。

    大姶良郷

<山水> 位置 概要 備考
1、西俣山 地頭館の東約1里 南村にある。東は姶良郷の山々に連なっている。
2、御在所      岳 地頭館の南21町余りに聳える。 大姶良村にある。八合目付近に高さ60尺(18m)、幅30尺(9m)ほどの巨岩が屹立している。巌下に洞窟があり15,6人が休める広さである。この巨岩を神体として「岩戸宮」という。 現在の横尾岳の一部。
3、西俣川 水源は大姶良村の南「宇都山」から出て、大姶良城の傍らを流れる。 現在の大姶良川。
4、野里川 上流は鹿屋村の牧馬野で、当村を通過して高須浜に注ぐ。 現在の高須川。「牧馬野」は「高牧野」のこと。
5、白石 地頭館の南南西20町余り 横尾岳に上っていく途中の見晴らしの良い丘で、大崎郷・志布志郷方面まで望むことができる。
6、葦ヶ浜 地頭館の西南西30町ばかりの海岸 浜田村にある。往古は船舶の停泊地であったが、今は砂浜となって船の出入りはできない。 現在の浜田小学校周辺の田園地帯である。
7、金浜 地頭館の西北西30町ばかりの海岸 高須村の支村・野里村にある。南部は海浜で船の停泊ができる。
<神社>
8、岩戸
  大明神
地頭館の南西5町余りに鎮座 祭神はオオナムチ・アメノヒワキ命。当社は永禄11(1568)年、鳥越刑部岩吉の建立。肝付氏の家臣という。山中高所にある岩戸宮の里宮で、「近戸宮」とも言っている。 現在も同じ場所にある。
9、新八幡宮 地頭館の南南東4町にある 祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后。齢岳公(第6代島津氏久)が大姶良城に居住の時、ここで第7代元久公が生まれたので勧請したという。
 恕翁公(元久)は自分の産土様として崇敬し、黄金の鏡を奉納している。
氏久は産湯を提供した農民の門を賞賛して「繁昌門」の名を与えたといい、子孫で繁昌を名乗る人々が多い。
10、神社
    合記
・諏訪大明神(詳細不明) ・参河大明神(祭神・伊集院参河守:文禄の役において秀吉にそむき、誅殺させられた大姶良郷の重臣) ・年貫神社(祭神不詳。永禄9=1566年の造立棟札がある) 秀吉による朝鮮征伐の最初のが「文禄の役」(1592〜93)。都城の梅北氏の叛乱に加わった
<仏寺>
11、龍翔寺 山号は瑞雲山。地頭館の西南西3町ばかり 志布志郷の大慈寺の末寺。臨済宗。開山は玉山和尚で、入宗して学び、帰朝の際に葦ヶ浜に上陸し、そこに庵・呑海庵を結んだ。その後当寺を開き、さらに請われて大慈寺を開いた。その第2世剛中和尚は齢岳公(氏久)の禅の師匠であった。
 齢岳公の娘・渓月翁主も晩年に尼僧となって、久しく住持を務めた。齢岳公(嘉慶元=1387年死亡)の墓がある。
玉山和尚を大姶良に招いたのは氏久だが、その後、志布志に招聘したのは反島津の楡井頼仲である。玉山は頼仲と同じ信州の出身であった。
12、宝勝院
   照山寺
山号は廻林山。地頭館の東3町のところ 鹿児島城下の大乗院末寺。真言宗で、当郷の祈願所である。
13、仏寺
    合記
・光源寺(大慈寺末) ・西光寺 ・大慧寺
14、薬師堂 地頭館の東南東1里半にある 南村にある。「山の薬師」と呼ぶ。諸病を治すと聞こえ、春秋の彼岸や祭日には参詣客が多い。
<旧跡>
15、大姶良
     城
地頭館の所 大姶良城は内城を筆頭に12の城からなる。内・松尾・浅井・西・冨山・獅子目・参河・尾崎・野首・中・南・蜂須賀の各城である。
 最初、祢寝(ねじめ)五郎太夫義光が領有し、その子孫が代々継いで、一族も横山・宍目・大姶良・浜田氏と広がった。その後、肝付氏が入ったが、南北朝時代に齢岳公(氏久)が領主となり、その後戦国期に再び祢寝(ねじめ)氏の支配が続き、末期近く一時肝付兼続に奪われたが、天正8年には肝付氏が滅んで、島津氏の支配下に入った。
16、古城・古  戦場合記 ・西俣城(南村) ・横山城(横山村) ・内城(南村) ・古陣(獅子目の山上にある。肝付氏の築塁と言われる。四方の眺望は絶景である)
17、篠塚 地頭館の東2町にある 水田の中に一群れの林があり、篠竹が多く生え、胞衣塚(えなづか)と言う。恕翁公(7代元久)の胞衣を納めた場所と言う。


           6、姶良郷・大姶良郷の項、終り           目次のページに戻る