『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座

 
第十回  大隅国・大隅郡・垂水郷

※垂水郷は現在の垂水市の中心部を網羅する。江戸時代、島津4家と言われる親藩家の一つとなった。領主 館は今の垂水小学校にあった。

位 置 概       要 備   考
<山 水>
垂水嶽  猿ヶ城渓谷を取り巻く山々を総称して垂水嶽という。 ・高隈連山から続く峰々を指している。
本城川  垂水嶽に源を発し、田上村を経て海に注ぐ。大隅の南方(下大隅)ではこの川と神川、雄川が大きな河川である。
市来川 下流は河崎川という。秋の三ヶ月伏流となるのが珍しい。
海 市 荒崎海岸  荒崎の海中に「海市」が出現することがある。海市は「蓬莱山」とも言われている。4,50年前、才原門の惣八と駿河野門の十郎右衛門とが海辺で相撲をとっていた時、海中に一瞬にして平らな島が現れた。島には松の木が生え、絵のような美しさであったが、再び一瞬にして消え去った。漢土では現出することが書物に見えるが、日本では他にない稀有の現象である。  ・「海市」とは海上に現れた町のことで、蜃気楼とは違うらしい。日本の伝承の「竜宮城」に似たところがある。
江之島・弁天社 領主館より北北東1里3町  海潟の沖合いにある周囲8町ばかりの小島。慶長7(1602)年の棟札がある。江之島とは近衛関白信輔は来鹿の折に名づけたのだが、鎌倉の江之島になぞらえている。
田子森 領主館より南16町余  田上村、下本城にある。文禄年間、近衛信輔がこの村に来て桜島を望み、富士を望む田子の浦になぞらえて田子森と名づけた。
 <居 所>
牧場野 領主館より
東1里17町
 垂水村・海潟村の両地に係る牧で、周囲3里余、馬を数百頭飼っている。 
<神 社>
鹿児島大明神社 領主館より南南西9町  田上村にある。祭神は彦火火出見尊、トヨタマヒメ、塩土老翁、豊玉彦、猿田彦、大己貴命、天智天皇、大宮姫。当社は開聞九社の勧請という。
 当村では、古来、手貫大明神を上之宮といい、当社を下之宮という。
手貫大明神社 領主館より東27町  田上村本城にある。祭神は応神天皇・神功皇后・タマヨリヒメ・仁徳天皇。当社は昔、山城国の雄徳山八幡社を勧請したと言われる。当村の宗廟である。 ・山城国雄徳山八幡社とは岩清水八幡宮のことである。
石神大明神社 領主館より西2町  田上村にある。神体は自然石2つ。この神、疱瘡の祈願に霊験があるという。
垂水大明神社 領主館の内  祭神は榎木荒神。鹿児島の垂水屋敷内にあったものを勧請した。
 諏訪大明神
   上下社
領主館より東10町  田上村にある。祭神、タケミナカタ・コトシロヌシ命。
新田大明神社 領主館より北西12町  垂水村の市来にある。祭神、ワタツミ命。昔、海中から輝く石を得たが、これを海神が村を加護するために出現したとし、社殿を造営して祭り、新田大明神と名づけた。
天満神社 領主館より北北西33町  海潟村飛岡にある。飛岡からは明媚な風光が得られ、昔、関白近衛信輔もこの岡に登り、あたりを袖の浦・江之島と名づけている。
<仏 寺>
如意山法智寺
  成就院
領主館の東3町余  田上村にある。本府大乗院の末寺で真言宗。島津忠将のひ孫・忠仍(久信)が最初、鹿屋に建立した。
寶厳山心翁寺 領主館より東4町  田上村にある。清水楞厳寺の末寺で曹洞宗天真派である。
 当寺は永禄4(1561)年に島津忠将が福山の廻城で戦死したその菩提を弔うために建立された。心翁は忠将の法号である。
・垂水島津家…日新斎・島津忠良の子の忠将は廻城の戦いで戦死した.。その忠将を垂水家初代とした。
妙法山華厳寺 領主館より西南西4町  田上村にある。京都本能寺・摂津本興寺の末で法華宗。昔は高城にあったが、廃れていたのを再建した。
岩淵山龍門軒 領主館より北東35町  田上村・新御堂にある。心翁寺の末寺。本城川上流にあり、寺前の大岩から川に飛び込み水練の場所としている。
観音堂 領主館より南西12町  田上村湊にあり、昔、農民の仲左衛門が海辺で焼け爛れた仏像を拾い、崇拝したところ、在所では火災が稀になったという。
地蔵堂 領主館より北北西23町  垂水村中俣の脇田にある。慶長5(1600)年の関ヶ原の乱で破れた宇喜多秀家が浮津へ落ち延びて信仰したという。
地蔵堂 領主館より南14町  田上村下本城にある。昔、上原某が琉球より帰る時、異国に漂着し、その時に手刻した地蔵という。
 <旧 跡>
垂水城 領主館より北北西15町  垂水村市来(木)にある。保安4(1123)年、上総介舜清、下大隅に下向してこの城を居城とした。しかし同年蒲生・吉田の領主となり蒲生に移った。その後は伊地知氏の所領となるが、文禄4(1595)年、川田氏が地頭として垂水に赴任した。
 慶長4(1599)年、忠将の子・以久が種子島からここに所領替えになり、以後、久敏まで三代の居城となった。慶長16(1611)年、廃城後は領主館に移った。
本 城 領主館より東18町余  田上村本城にある。伊地知氏の居城である。伊地知氏は平氏で秩父重忠の末裔である。南北朝時代、伊地知季随が薩摩に来て、道鑑公(島津5代貞久)に仕え、義天公(島津8代久豊)の時、季随の子・季豊に与えられた。しかし、季豊5世後の重興は禰寝重長とともに肝付氏に与して背いたため、貫明公(島津16代義久)により帰順させられた。重興は所領の田上・高城・新城など5ヶ所を明け渡し、貫明公はそれに代えて下之城一帯の3800石だけを保証した。だが重興の孫・重順の時、朝鮮出兵において罪があったとしてその領地を没収した。 ・下之城…伊地知氏の垂水における初めからの居城で、現在の本城川下流左岸にある。大字は「本城」。
小濱塁 領主館より北1里26町  海潟村。伊地知重興の陣地。元亀3(1572)年、島津義久の弟・歳久に攻められたが死守。しかしついに落とされた。
崎山城 領主館より北1里1町  海潟村。旧記に依れば、文和4(1355)年、肥後種顕と種久の兄弟が武家方の畠山直顕に呼応して入城を許した。だが齢岳公(島津6代氏久)により即時に奪回された。 ・齢岳公…陸奥守であり、当時、鹿屋市南部の大姶良城を居城としていた。

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