〜『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座〜

  第6回 日向国 諸縣郡 綾郷・高岡郷 
(H23.10.10) 

    綾郷
・・・地頭館は北方村(麓)にある。

概        要 備   考
<総 説>
綾の名義  地元では「和泉式部法華嶽寺にやって来たとき、菜種の花が咲き誇っていたのを見て『綾を敷きたるが如し』と称賛したことから名付けられたという。 和泉式部…平安時代中期の女流歌人。後出。
法華嶽寺…後出。
<山 水>
小森嶽  南方村にある。綾邑の西北、山林崇重にして須木村の境界に接している。
矢筈嶽  北方村にある。法華嶽の南、矢筈に似た形をしている。
綾川  北の川と南の川とに分かれている。北の川は肥後国の球磨(相良領)の白髪嶽から始まり、天領の本庄で、須木から流れ下る南の川と合流する。 北の川と南の川…現在は北を綾北川、南を綾南川という。
錦原  南方村と北方村の中間にある。肥沃な土地で百穀に適している。
<神 社>
三宮
大明神社
 地頭館の西7町余にある。祭神は足仲彦天皇・気長足媛尊・誉田天皇。社司・宮永氏の先祖が勧請した。当邑の総鎮守である。別当寺は神宮寺。 仲哀天皇・神功皇后・応神天皇に対応。八幡神である。1町は108b。
<仏 寺>
龍智山無量壽院法音寺  地頭館の南7町にある。南方村。鹿児島大乗院の末寺で真言宗。当邑の祈願所である。
 嶽王山
   綾光寺
 地頭館の南4町にある。福昌寺の末寺で曹洞宗。初め天台宗だったが荒廃後に再建の際、曹洞宗になった。当邑の菩提所である。
 金峰山
   西光寺
 地頭館の北西2里20町にある。上記・綾光寺の末寺。養老元年(717)の開基で天台宗だったが、荒廃後の再建で曹洞宗になった。本尊の阿弥陀如来坐像は養老元年に行基が作ったという。 行基…668〜749年。法相宗を修めのちに大僧正。灌漑用水建設などの社会事業を起こした。
仏寺合記  ○安養院伝徳寺  ○竹林院仏像寺・・・両寺とも南方村にあり、相模の藤沢山清浄光寺(時宗)の末寺である。
<旧 跡>
龍之尾城  地頭館の裏山にあった。北方村。昔は綾氏の所領で、綾美濃守義門が居住していたと旧記にある。義門は本庄に義門寺を建て、弟の義福は本庄の隣り秋月領内に義福寺を建てている。
 その後は伊東氏の支配下にあったが、天正5年(1577)12月、松齢公(17代島津義弘)兵を率いて当邑に入り、そのまま都於に至り、また貫明公(16代義久)もこれに続いたので、伊東義祐はなすすべなく豊後に落ち延びた。
都於…とお。都於郡と書けば「とのこおり」。日向支配の中央拠点であった。
伊東義祐…工藤祐経から始まる日向工藤(伊東)氏の10代目。没落後も二男・祐兵の飫肥城は残された。


      
      高岡郷・・・地頭館は現在の高岡小学校にあった。この郷は慶長5年(1600)の関ヶ原戦役の後               に、新しく付近の飯田・綾・穆佐各郷の一部を併せて建置された。
概        要 備  考
<山 水>
去川山  さりかわやま。地頭館の東南3里半。去川村にあり。日向への大道はここを通過するが、難関の厳路である。
北山  地頭館の北方4里半。肥後領の米良に接している。周回10里余り。
去川  大淀川のことで、上流の岩瀬川と庄内川が当邑と高城・野尻との境で合流している。川はこの下流、倉岡郷を過ぎて宮崎の赤江津で日向灘に注ぐ。『延喜式』には「去飛(さひ)」川と記す。
諸川合記 ○浦之名川 ○綾北川 ○綾南川 ○深年川 ○八代川 深年川…米良郡境から本庄(国富)を流れ、綾川と合流ののち大淀川に入る。
八代川…現在は三名川。深年川の北を並行して流本庄で合流する。
<居 処>
去川関  地頭館の南西3里余。去川の険しい河谷に沿ってある。川に臨んで関所があり、要害の地である。この関から日向側んも薩摩藩直属地すなわち高岡・穆佐・綾・倉岡の4郷を、「関外四箇所」と呼んでいる。
<神 社>  
粟野大明神社  地頭館の東南18町、高浜村にある。祭神はオオナムチ・ツミハヤエコトシロヌシ・シタテル姫・アジスキタカヒコネ・スクナヒコナ・タカテル姫・御井神・タケミナカタである。勧請の年月は不詳。応永年間(1394〜1428)に義天公(島津久豊)が穆佐城に居城の時、崇敬ありて神領7町歩を寄進し、神殿も新建している。別当寺は粟野寺(真言宗)。
 太閤秀吉の九州征伐の時、太閤軍の狼藉で什宝・文書などが失われたが、高岡郷建置の時(慶長5=1600年)、松齢公(17代義弘)は郷の宗廟と崇め、鳥居に「粟野大明神」の額を掲げた。
高岡郷建置…関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、属していた島津義弘軍は敵中を突破し。堺から細島港へ船渡後、日向国内を南へ縦断し、ここ高岡の要衝を見て新しく郷を作らせた。
 稲荷七社
  大明神祠
 地頭館の北西6町、内山村にある。慶長5年(1600)、松齢公(義弘)が当郷を建置したとき、鎮守のため、鹿児島稲荷神社を分神して天ヶ城山に勧請した。
 元和元年(1615)、大阪の役に出陣した慈眼公(18代島津家久)が当邑を過ぎると白狐・赤狐が細島まで先導した。また島原の乱(寛永15=1638年)の際も、白狐・赤狐の霊験があった。社司は冨山氏
冨山氏…平安時代後期に日向・大隅弁済使職として入部した藤原氏一族。
神社合記 ○平賀大明神社…祭神・アメノコヤネ・アマツフトタマ・住吉三神。
○愛宕山権現社…高岡郷設置ののち、地頭の比志島国貞が守護神とした。 ○伊勢大神宮 ○熊野権現社 ○霧島権現社
<仏 寺>
高岳山龍福寺  地頭館の西3町にある。福昌寺の末寺で曹洞宗。高岡郷設置の時貫明公(島津義久)が当寺を創建、自身の出家名「龍伯」と福昌寺の両方から1字ずつ採って「龍福」と命名した。当邑の菩提所である。
寶珠山威徳院
  高福寺
 地頭館の北東3町にあり、大乗院の末寺で真言宗。上記龍福寺と同じ創建で、当邑の祈願所である。
松尾山本永寺  地頭館の西2里余、浦之名村にある。安房の妙本寺の末寺で法華宗富士門派。開山は日朝上人。
 文政3年(1820)に、時の住持31世日修に本山より上人号および永代上人地を許し、先師に対して上人号を追贈している。
 真金山
  法華嶽寺
 地頭館の北2里18町の法華嶽にある。法華嶽は釈迦嶽の中腹である。鹿児島福昌寺の末寺で曹洞宗。本尊は薬師如来で、病苦を癒す薬師如来を祭る寺として全国的に名高い。開山は伝教大師で天台宗だったが、戦国期に禅宗に改められた。
 上東門院の女房・和泉式部は、らい病を患い、越後の米山薬師・三河の鳳来寺薬師に参籠したが効験なく、ついにここ法華嶽寺にまでやって来た。それでも感応がなかったので「この世の業縁はこれまで」と思い定め、寺の一角にある岡から身を投げたところ一異人の不思議な力で救われ、同時に瘡蓋など一切拭われ、もとの麗しい姿に戻った(との伝承がある)。
 中古は伊東氏に属したが、その時に禅宗になっている。島津氏に代わった天正9年(1581)、飢饉を救った福昌寺住持・代賢和尚以後は福昌寺の末寺となった。往古の寺禄は千石に上ったが、慶長の頃には200石、最後は80石ほどとなった。
 寺宝として<式部髪掛柱><式部琵琶>があり、そのほか身投げ岡・式部腰掛松・式部谷・愛染川・車返しなど、和泉式部に因む場所が多くある。 
伝教大師…天台宗開祖の最澄のこと。
和泉式部…夫・橘道貞の任国「和泉」と父・大江雅致の官名「式部」からとられた女房名。和歌の名手で拾遺和歌集以下の勅撰集に246首が採られている。
 ただ、同時代の紫式部は日記で「和泉式部は歌人として優れているが、心に癖のある人」と、男性付き合いの奔放な面を批判している。
梅樹山香積寺  地頭館の東南13町、高浜村にある。当邑の龍福寺の末寺で曹洞宗。創建の年月は不詳だが、梅の大樹によって高名になった。
 梅は延宝元年(1673)に来臨した寛陽公(19代島津光久)により「月知梅」と命名されている。安永・天明の頃は1株であったが、その後主幹が腐朽すると枝が処々に地に垂れ、そこから根を張って今では7株に分かれて周回32間の広さに広がって雪をかぶったように白い花を咲かせる。
 寛陽公の来臨する13年前の万治3年(1660)、遊覧した泰清世子は寺に梅樹の為として土地1段8歩を寄贈した。
 寛陽公以降も大玄公(20代綱貴)、浄国公(21代吉貴)、大信公(25代重豪)も訪れている。寛陽公の詩(漢詩)と大信公の手書「月知梅」は掛け軸になって今に寺宝として残っている。
泰清世子…タイシンセイシ。誰であるか不明。世子は太子で、王位の後継者。泰(タイ)は「大」に通じるから泰清は「大清(国)」となり、清王朝を指すとすれば、清王朝の太子が薩摩にやって来ていたことになり、これは絶対有り得ないことである。
 そこで考えられるのが人質として薩摩に居た琉球王子である。当時琉球は形式上清王朝の属国であったので「泰清世子」と記したのであろうか。
金剛密山
妙光院勝福寺
 地頭館の北東1里半、深年村にある。鹿児島城下修験・般若院の管下にある。本尊は神変大菩薩。開基は不詳だが、寛喜3年(1231)年号記銘の古鐘がある。
 天正6年(1578)貫明公が面高真蓮坊頼俊を住職として再興させた。面高頼俊は数々の武功を立て貫明公から内命を受けての就任である。また天正8年(1580)には密使として当時京都から追放されていた足利将軍義昭に内書を届け、13年(1585)には毛利氏の下に居た義昭に再度面会をしている。
 太閤軍が攻めて来た天正15年(1587)には敵の陣に赴いて和を講じ、その結果伊集院忠棟(幸侃)が人質として出頭する際には同伴している。
 
神変大菩薩…葛城山中で修行した役行者のこと。
鏡池山
光明院増長寺
 地頭館の南3町、内山村にある。加久藤郷三徳院の末で地神盲僧派である。本尊は堅牢地神
 由来記によれば、桓武天皇の時代に禁裏で妖怪があり、筑前国より盲僧8人を呼んで祈祷させたところ怪がやんだ。次の平城天皇の大同元年(806)、8人のうちの4人が九州へ下り、日向管内では幕府天領の本庄に一寺、ここ高岡に一寺を建立したのが増長寺である。
堅牢地神…どんな神か不明。記紀神話に登場する神では、字義からは「国常立尊」に当たる。
臥龍山光孝寺  地頭館の北西2里10町、樋渡村にある。福昌寺の末で曹洞宗。開基・開山ともに不詳。由来記によれば、光孝天皇の勅願所として建立されたという。古文書が7通あり、その内の明徳3年(1392)文書に「臥龍山光孝禅寺」と記されているので当時すでに禅宗であったことが分かる。
 天正年間に日向平定後、貫明公(16代義久)は天室和尚を住持としている。和尚は慶長5年(1600)の関ヶ原の役の直後に伊東氏の重臣で清武城主であった稲津掃部祐信が攻めて来た時に、僧兵を引き連れて防御に当たり、これをしりぞけている。
 北俣村に往古は装束庵というのがあり、伊東氏の所領の頃、本拠の都於郡城からこの寺に参拝する際にその庵で装束を改めたといういわれを持つ。
光孝天皇…第58代。在位は884〜887年。
北俣村…八代郷の内、綾郷と接した地域を指す。・都於郡城…都於郡(とのこおり)の中心にあった伊東氏の日向支配の拠点の居城。かっては児湯郡に属していたが、江戸期には佐土原領に入った。
大日堂  地頭館の東4町半、五町村にある。かっては行縢(むかばき)山大日寺という寺があったが、当邑の真言宗高福寺の末ののち廃絶し、今は大日堂のみを残すばかりとなった。本尊は大日如来。大日寺は全国66州に各一寺建立の寺で、延宝4年(1676)に伊勢の藤堂氏より法華経一部の寄進を預託されたことがあり、ここへ納めている。 藤堂氏…伊勢の津藩主。慶長年間に藤堂高虎が津に入部。当時24万石ほど。畿内では外様大名としてトップクラスであった。
<旧 跡>
天ヶ城  地頭館の北の岡にある。往古、この辺りは「久津良(くつら)」といい、久津良太郎義光が居住していた。当邑には内山・飯田・久津良・深年・八代などに諸城があった。
 慶長5年(1600)9月、堺湊より細島湊経由で帰って来た松齢公(17代義弘)がここが要枢の地であると見て新しく高岡郷を建置した時に、久津良に城を築かせ「天ヶ城」と名付けたのであった。そして内山城の守将・比志島紀伊守国貞を当城に移し、高岡郷の地頭に任じた。築城の縄張りは国貞自身によるという。
 また、藩内の40か所の諸郷から士分730戸を移住させている。

○稲津掃部の乱…伊東氏重臣で清武城主だった稲津祐信の起こした反乱。慶長5年(1600)9月、島津軍が関ヶ原で敗退したのを知り、豊前の黒田如水の後援を得て伊東氏旧領の奪回を目指し、のろしを上げた。宮崎城(延岡藩領)を奪い、佐土原・穆佐・八代・倉岡と攻めたがいずれも戦果及ばず、翌6年(1601)5月に終息した。
久津良(くつら)…意味不明の地名だが、「久(く)」を「大きい」の意味にとると、「大津」という解釈ができる。大淀川(去川)川運のの要津(港)であったがゆえの命名ではなかろうか。
内山城  地頭館の西半里、内山村にあり、栫城ともいう。高岡郷が初めて置かれた頃はここが当邑の中心であり、地頭もここに居たという。
八代城  地頭館の北2里、川上村にある。文和の頃(1352〜1356)は伊東祐廣の居城であった。延文3年(1358)、臼杵郡県(延岡)領主・土持宣栄が当城を攻略したことがあった。天正の日向平定後は、伊勢長門守貞清が地頭となっている。 伊東祐廣…初代・祐時の8男・祐頼(木脇氏祖)の後裔。
古城合記 ○飯田城 ○平賀城 ○池之尾城 ○柚木崎城 ○高城 ○向高城
○今城  
総 陣  地頭館の北1里、田尻村にある。天正15年(1587)、太閤秀吉の弟・大和大納言羽柴秀長が総大将として日向を攻めて来た時に、ここに陣営を築いたという。
 

        綾郷・高岡郷の項 終わり                  おおすみ歴史講座の目次に戻る