〜『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座〜

第7回 日向国 諸縣郡 小林郷・須木郷・野尻郷 (H23.11.6)

    小林郷地頭館は真方村にある。昔は三山と言われたが霧島矛峯・韓国峯・雛守峯
             の三山から由来するという。また、当郷の巨刹「寶光院」が三峰山と言ったこ
             とに因むとする説もある。

概         要 備   考
<山  水>
霧島矛峯 きりしまほこのみね。細野村にあり、山頂は都城・高原・小林の各郷の分界をなす。いわゆる「高千穂二上峯」がこれである。 高千穂峰(1594m)のこと。
虚国嶽 からくにだけ。西方村にあり、山頂は飯野郷・踊(おどり)郷・曽於(郡)・小林郷の分界をなす。 踊郷は国分地方に属している。
雛守嶽 ひなもりだけ。細野村にあり、霧島連山最北の突起で「真幸の名峰」の異名がある。古来、「夷守」の字を使ってきたがいつからか「雛守」になった。景行天皇紀に、熊襲を平らげたあと、「18年、巡狩して夷守に到る」と見えている。
 同じ景行紀に登場する「石瀬河」は当郷を流れる「岩瀬川」であり、その河原で天皇を饗応したのが「諸県君・泉媛」であった。景行天皇の足跡はここに限らず当郷にはすこぶる多い。
 また『倭名抄』の郡郷一覧に「日向国・諸縣郡・夷守郷」があり、この地方を指していることは疑いがない。
・夷守…この地方に「兄夷守」と「弟夷守」がいて恭順している。
・諸県君・泉媛
…応神・仁徳天皇時代には牛諸井が諸県君として有名だが、その2,3代前は女首長だったことになる。
北境群山 当郷の北は須木郷および肥後領だが山岳が連なっている。最高峰は大平峰である。
岩瀬川 水源は東方村の木浦木山で須木郷と肥後領球磨郷との分界に発している。高原・野尻二郷の堺を流れ、都城からの庄内川と合流して去川(大淀川)となる。
大手川 虚国嶽に発して郷の中心地域を流れ、岩瀬川に合流する。
霧島北面
  山中諸池
○琵琶池  ○新燃池  ○泉水両池  ○小波多池…周囲18町、深さは6丈余。夏の渇水期には雨乞い祈祷の池となり、祈れば必ず霊験ありという。
山水合記 ○堰山池  ○陰陽石…東方村の岩瀬川岸の南北に立つ巨石。陽石は高さ5丈余(15m)、陰石は高さ2丈6尺(8m)の奇岩である。
<神  社>
雛守
六所権現社
地頭館の南西1里、真方村にある。祭神はニニギノミコト・コノハナサクヤヒメ・ヒコホホデミノミコト・トヨタマヒメ・ウガヤフキアエズノミコト・タマヨリヒメの6柱。
 当社の由緒は性空(しょうくう)上人の勧請による。古来、夷守嶽の八合目ほどにあったが、享保元年の新燃嶽噴火で焼かれ、今ある場所(山麓)に遷座した。当郷の総鎮守で、祭礼ごとに人の出が多い。細野村の寶光院が別当であった。社司は黒木氏。
・享保元年の新燃嶽噴火…西暦1716年。この時の噴火は大規模で、霧島連山の北と東方面に壊滅的な被害が出ている。
霧島中央
六所権現社
地頭館の南2里ばかり、細野村に属す。夷守嶽の東側五合目ほどにある。瀬多尾六所権現ともいう。祭神6座は上記と同じ。創建者も同じ性空上人。
 往古は矛峰と火口との中間で「背門丘(せたお)」に鎮座していた。そこは太古にニニギノミコトが降臨した場所で、天河原とも言った。霧島山を取り巻く4方門の各権現社に対し、この宮が山頂にあるため中心の宮という意味で「霧島中央」が冠せられている。
 『続日本紀』の仁明天皇承和4年(837)8月の条に「日向国諸県郡霧島岑神、預官社(官社に預かる)」とあるが、この「霧島岑神」とはまさしくこの中央六所権現社のことである。同じく承和10年9月の条に「日向国無位高智保皇神、奉授従五位下」とあり、この高智保皇神も霧島岑神で、おそらく承和の中ごろに「霧島岑神」から「高智保皇神」と名称が変わったのであろう。曽於郡に属する「西御在所霧島権現社」(現在の霧島神宮)も上古は背門丘にあったと言われ、こちらが「高智保皇神」の可能性もあるので、両説を併記しておく。
○峯水天社…背門丘に勧請された水天。天河原に対応している。
○熊野権現社…往古はやはり背門丘に建っていた。
○瀬戸尾寺…当社の下1町にある。別当寺である。天台宗修験派で性空上人の創建。松齢公(島津氏17代義弘)のとき、伊東氏との合戦で祈祷に著効のあった愛甲相模坊という修験者をこの寺の住職とし、代々子孫が継いで
別当職となった。
霧島四門・中央権現…備考を参照。
・瀬多尾…せたお。山の背(稜線)の上にあるので「背門」。また「瀬戸」や「迫門」の漢字も使われる。
高智保皇神…この神を五ヵ瀬町の高千穂神社になぞらえる向きもあるが、名勝図会のほうが説得力がある。
「岑」は「峰」と同じで普通名詞のため、授位の際に格式ある高千穂を冠したのだろう。
○霧島四門・中央権現
・東門…東御在所権現        (高原郷)
・南門…荒武権現
         (都城)
・西門…西御在所権現
        (曽於郡)
・北門…雛守六所権現
・中央…瀬多尾六所権現
神社合記 ○八王子権現社…真方村。神社考に祭神は三女・五男とある。
○山神社…東方村。木浦木山中にあり。祭神、大山祗・猿田彦。当社は本藩三州の山の神の宗廟なり、という。霊験著しい。
○宇賀大明神社…西方村。霧島中央権現社の末社である。
○稲富権現社…西方村。太古、モミを播いた後、その守護のために建立したという。 ○天満宮  ○今宮八幡社  ○浜妙見社
<仏  寺>
中島山普門院
観音寺
地頭館の東、2町。真方村にある。大乗院の末寺で真言宗。当郷の祈願所になっている。
福城山昌寿寺 地頭館の北東6町、真方村にある。飯野郷の長善寺の末で曹洞宗。当郷の菩提所(墓地)である。木崎原の戦いで死亡した伊東氏方の「将士戦亡板」が納められている。126名の戦死者が載せられ、筆頭には伊東氏一門の7名が書かれている。
 木崎原の戦いの頃、当寺は小林を領有していた伊東氏に属しており、それゆえ戦亡板を蔵し、法事を行ったものである。
・伊東氏一門の7名
1伊東又次郎 2新次郎3加賀守 4源四郎 5右衛門尉 6権助 7宗右衛門
鷹導山承和寺
寶光院
地頭館の南、23町余。細野村、吉富城の麓にあり。高原郷の神徳院の末寺で天台宗。当寺の場所は景行天皇の熊襲征伐時に行在所だったと言われ、「高屋宮」の旧跡という。
 仁明天皇の承和14年に慈覚大師が唐留学の帰路にここに立ち寄り、景行天皇旧跡の霊地として当寺を創建したという。その後、上京して天皇に奏聞して比叡山延暦寺の末寺に列し、天皇の勅願所となった。
 その百年ほど後の村上天皇時代に性空上人が雛守権現社を創建すると別当寺となって栄え、寺坊およそ66院があったという。
拝鷹大明神社…当寺の東10町にあり。吉富城跡の上に建つ。寶光院由来記に、景行天皇の熊襲征伐の時、軍兵の調練をしていると一羽の鷹が飛来し、吉富の丘陵一帯を軍兵を擁護するかのごとく悠然と旋回し、そのあと数回長鳴きをすると敵陣地のほうへ飛び去った。天皇軍はこれに鼓舞され、熊襲を平定することができたという。鷹を崇めて「拝鷹天神」として祭ったのがこの宮である。
○景行天皇行宮址…肝属郡内之浦に高屋宮を想定しているのでここに宮があるとする伝えは疑問だが、天皇が巡幸し駐留した場所ではあるので行宮址としたのであろう。
仏寺合記 ○愛宕山十輪院円岳寺…真方村。南泉院の末で、天台宗。
○興福寺…真方村。飯野郷の長善寺の末寺で曹洞宗。
○龍雲庵…堤分村。飯野長善寺の末寺。曹洞宗。
<旧  跡>
宇賀城 地頭館の東3町余、真方村にある。かっての居城である。城の下は大手川がぐるりと囲遶して流れ、南側には沼がある。
 旧記に「三山(みつやま・さんのやま)城」とあるのはこの城である。往古は北原氏の居城であったが、永禄5年(1562)、城主北原兼守が死ぬと、舅であった伊東義祐は我が物として入城した。永禄6年以降、伊東義祐は飯野までを手に入れようと画策したが、元亀3年(1573)の木崎原における松齢公(島津義弘)との戦いに完敗すると伊東義祐は豊後の大友氏を頼って逃れ、さらに天正4年(1576)になると、高原城(松ヶ城)以下の伊東氏七城が放棄され、伊東氏は以後岩瀬川流域及び庄内川流域から一掃された。
・大手川…山水の項を参照。
古城合記 ○吉富城…細野村にある。別名・亀箇城。寶光院承和寺の後背の山上である。
○内木場城…東方村にある。永禄年間には伊東氏の東方の塁城であった。
○龍峯塁…西方村にある。伊東氏の遠見番役の出城であった。
○岩瀬塁…東方村にある。東の野尻との境界に造られた。天正15年(1587)の太閤九州攻めの時、日向路侵攻軍の総大将・大和大納言豊臣秀長はここまで来たが、岩瀬川の洪水のため小林郷には入れなかったという。
・豊臣秀長…関白・豊臣秀吉の弟。異父弟という説もあるが、秀吉政権では徳川家康と並ぶ従2位まで上りつめた。
 根白坂の戦いで島津軍が敗れ、家久(忠恒)が秀長に恭順した。
粥持田 地頭館の西、2里。西方村の橋谷にある。元亀3年の木崎原の戦いの時、ここで松齢公(島津義弘)が敵将・柚木崎丹後守を討ち取った。
 伊東氏を平定後、公は柚木崎の子孫に禄24石を与えたが、最初に子孫と言って来た男は詐称で、新たに判明した真の子孫にその俸禄を移し替えた。子孫は今、穆佐郷に住み、平右衛門という。
星合杉 地頭館の南南西6町、真方村にある。木崎原の戦いの時、伊東軍が戦いを星占いで占った場所という。
伊東塚 地頭館の西6町半、真方村にある。原野の杉林の中に古墓が10ばかりあり、木崎原の戦いでの伊東将士の墓である。墓の形は五輪塔を主体としており、建立主は慶安3年(1650)五代勝左衛門友嘉とある。 伊東将士の墓…上記の福城山昌寿寺にある戦亡板に記された伊東加賀守など9名が判明している。
松齢公行館跡 地頭館の南西26町、細野村にある。吉富城の南麓に位置する。 ・松齢公…島津義弘


     
須木郷
地頭館は現在の須木村役場近辺にあった。

概        要 備  考
<山  水>
山岳合記 大牟礼嶽、掃部嶽などの山々に囲まれている。
南川 水源は肥後国球磨の南山。綾南川。
北川 水源は同じく球磨で、須木郷の北を流れ綾郷に向かう。綾北川。
須木瀑布 地頭館の北東3町にある。南川の中流、松尾城の北側に滝が二か所ある。雄滝・雌滝と称す。滝の東方の厳頭に石造の観音を祭り、これを岩観音と言っている。
<神  社>
大年一之宮
大明神社
地頭館の西北13町にある。祭神はスサノヲノミコト。勧請の年月は不詳。社司は河野氏。
二之宮
大明神社
地頭館の西北12町にある。祭神・勧請年など不明。社司は同上。
<仏  寺>
誕生山真幸院
世尊寺
地頭館の西1町余にあり、鹿児島城下大乗院の末寺で真言宗。
○観音堂…11面観音を安置。和銅元年の建立と伝える。
・和銅元年…西暦708年。
龍鳳山自得院
一麟寺
地頭館の西3町余にあり、飯野郷の長善寺の末で曹洞宗。
<旧  跡>
松尾城 地頭館の裏山。別名、鶴丸城。北面を南川が流れる。山中に肥田木城と荒神城がある。当城の城主は最初肥田木氏であったが、元亀の頃(1570〜73年)には米良筑後守が守っていた。
 米良氏は肥後の菊池氏の一族で、代々米良地方を治めていたが伊東方に属したため、木崎原の戦いで伊東氏方として戦い、当時の当主・筑後守が戦死して滅びた。
須師原城・奈崎城…須木郷と小林郷を結ぶ通路上にあった伊東方の山城で、天正4年(1576)の島津氏による高原城攻めで西部七城が落ちたが、この二城もその中に入っていた。
○尾殿城  ○須山城
・松尾城…日本各地に「松尾城」があるが、松尾とは「末尾根」の略換字で「長く伸びた尾根の末端を切って山城とした構造の城」のことである。

 
       
野尻郷地頭館は現在の麓地区にあった。

概        要 備  考
<山  水>
岩瀬川 水源は小林郷の北山から流れ、小林・高原との境を画し、下手で庄内川と合流し、高岡郷では去川(大淀川)となる。
<神  社>
大王権現社 地頭館の北東4町余、麓村にある。祭神はサルタヒコ。勧請年は不明。野尻の宗廟である。社司は川野氏。 サルタヒコ…猿田彦。ニニギの天孫降臨を地上で迎えた国つ神。道案内の神。アメノウズメの伴侶となった。
 高妻八社
  大明神祠
地頭館の東2里18町、紙屋村にある。祭神はサルタヒコ。勧請年は不明。紙屋村の鎮守である。社司は図師氏。
<仏  寺>
岩屋山本光寺 地頭館の南5町ばかり、麓村にある。城下大乗院の末寺で真言宗。開基など不明。寺の南4町の岩壁に洞がありそこに観音像を祀って岩観音と称している。岩屋山の号はそれに由来するか。
長用山真光寺 地頭館の東南7町余、麓村にある。飯野郷の長善寺末で曹洞宗。
仏寺合記 ○正元山法心寺…紙屋村にあり、真言宗。
○流水山福万寺…紙屋村にあり、高岡郷の曹洞宗・法華嶽寺の末寺である。
<旧  跡>
新 城 地頭館の南南西12町、麓村にある。天正年間に伊東方の将・福永丹波守が守っていたが、天正5年(1577)に松齢公(島津義弘)により落城。援軍の貫明公(島津義久)は新城の東北にある戸崎城を落とした。
城跡合記 ○戸崎城…上記。  ○戸ヶ崎城…紙屋村にあり、天正の頃は紙屋主税之介が守っていた。  ○漆野城…漆野村にあり、これも紙屋主税の城である。  ○薩摩ヶ城…藩公の御陣営址という。  ○金重ヶ城…麓村にあり。  ○今城…土地の者の言い伝えに、天正6年(1578)の大友義鎮との戦いの時、貫明公(島津義久)が霊夢を得て宗麟の大軍をわずか一戦で打ち破ることができたという。  ○火立城…烽火(のろし)を上げる塁で、郷内に3ヶ所あったという。 ・大友義鎮との戦い…耳川の戦い。義鎮は宗麟のこと。
<叢 談> 弔躍(とむらいおどり)…毎年8月17日に行われる行事。
 慶長7年(1602)の伊集院忠真の誅殺にある。その後、近隣で火災が多く発生するため土地の者は忠真の暗殺に起因するとし、その霊を弔うため踊りを興行したところ火災が止んだという。それが今に伝わっている。
・伊集院忠真の誅殺…父の伊集院忠棟が京都伏見で島津忠恒に暗殺され、庄内の乱を起こした忠真は頴娃1万石に左遷されたが、関ヶ原の役後の交渉で京に上る途上、野尻郷内で同じ島津忠恒によって誅殺された。

 
     (小林・須木・野尻各郷の項終わり)               目次に戻る